episode8 sect33
あたしを 植えたのは あなた
あたしに 水をやったのも あなた
いままでどこに行ってたの?
一生のおねがい
あたしをちゃんと つれていって
ひとりじゃどこへも行けなくて
あなたが 来るのを 待っていたの
ながい ながい 花ざかり
ためこんだ蜜を ぜんぶあげる
光の質と言うべきか・・・が切り替わり、早くも懐かしい人間界の苔の匂いがした。
転がり込むように帰って来たかと思えば、すぐさまみんな整列してひっくり返った声で人数確認の点呼が始まった。
グループAが『ブレインイーター』と遭遇したことで、直接その姿を見た者たちの混乱は当然として、その場におらずとも一時は騒然となった生徒たちだったが、実際には報告からわずか1時間程度でダンジョンの外へと退避することに成功していた。
半日かけて奥部まで探索したダンジョンを、わずか1時間で入口まで戻ることを可能とした要因は多数存在するが、やはり最も重要だったのはダンジョン実習の経路設定だろう。知っての通り、マンティオ学園のダンジョンは複雑に道が分岐した洞窟である。これは逆に考えると本来なら入口、すなわち「分岐路の広場」から1時間やそこらで到達可能な地点にもルートの組み方次第では非常に長い時間をかけて迂回することが可能であり、またその迂回路の選び方も多岐に渡るのである。
丸々24時間近くを予定する実習内容の都合上、上記の背景を考慮しても普段より格段に深くまで探索を行っていたのは事実だが、マンティオ学園はこのような事態も想定して緊急時の避難経路が常に2時間以内で踏破可能なものとなるよう綿密に実習計画を立てていた。より厳密に言うと、故人である西郷大志がダンジョン実習の主任教諭として最後に行った仕事として、綿密に実習計画を立てて残していた。
彼が今回の実習計画を立てるにあたり費やした時間の7割を占めるこのルートセッティングは、いままさに奏功し、生徒のみならず教員や保護・監督役魔法士に至るまで、全員の驚異的に迅速な避難を実現した。死後にありながら、大志は見事に自身の仇である『ブレインイーター』に一矢報いて、子供たちの未来を守り抜いたのだ。
「グループB、全員確認。異常ありません」
「グループCもみんないるよ!」
「グループA、点呼!!」
千影は保護・監督役として担当していたグループCの状況を、実習責任者を大志から引き継いだ教員の清田一に報告してから、急ぎ迅雷のところへ戻った。
戻ってきた千影を見つけた迅雷は素早く屈んで、千影に耳打ちをした。
「千影、どうする?」
これまでの迅雷なら、『ブレインイーター』が出たと聞けば仲間たちの避難など他に任せて自分は関係ないとばかりにそちらへ向かっていたことだろう。だが、今回は冷静だった。そうあろうと、千影と約束したからだ。
「このチャンスを逃す手はないけど・・・」
〇
直接『ブレインイーター』と遭遇したグループAは避難がワンテンポ遅れてしまったが、さすが、瞑矢の思考を察した生徒会長がまとめ役を買って出てくれたため、瞑矢は先に点呼を終えていた空奈に合流した。
「さて・・・おもろい状況になってきよったけど」
「笑顔になってないぞ、冴木」
「瞑矢くんも大概やで」
ヤツが現れた。各班の様子を見る限り、空奈達はひとまずの責任を果たすことが出来たようだ。・・・しかし、ここまでは最低限だ。
〇
点呼の号令に応じる姿で表面的にはまとまって見えるが、生徒たちはみんな突然の事態で依然として恐慌状態を内包している。そして、その混乱は教員たちの過半数にも当てはまるようだ。ここ最近の傾向から、いつしか『ブレインイーター』は一央市ギルドが『門』を保有するダンジョンに出現するものだ、という認識が定着していたせいだ。本来なら以前のように『ブレインイーター』はどこに現れてもおかしくないはずだったし、言葉の上では学園の人間もその事実を理解していたからこそ生徒たちの保護者に説明会を開き、今回のように避難経路設定までしていたわけだが―――その上で誰もその想定が役に立つ事態なんて欠片ほども望んでいなかったのだから当然だ。
だが、迅雷と千影にとっては違う。『ブレインイーター』―――の中に沈んだ彼女との再会。せめてもう少し心の準備はさせて欲しかったところだが、ある意味で願ってもない状況だ。
「まずはギルドに応援要請しよう。父さんに情報が行けばなんとかなるはずだ」
「でもその前に逃げられるかもだよ。ここにいる戦力で足止めだけでもしないと」
「そうだけど、おでんの話だと『ブレインイーター』だけじゃ済まない可能性もあるだろ。先生たちには、頼み辛いな」
「そうだね。でも、A1班の2人なら多分いけるハズ」
恐怖がないと言えば嘘になる。『ブレインイーター』の脅威は身をもって知っているから。だが、その正体を知ってしまって、見て見ぬフリしてやり過ごしてしまったら、迅雷と千影の進む道まで嘘になる。
〇
暗黙の期待が背後から首に腕を巻き掛け抱き着いてくるような気がした。予想はしていなかったが、覚悟はしていた。
神代疾風がいなくても。
小西李の代わりでも。
それでも彼らは日本最高峰の魔法士の看板を背負っている。
最低限で仕事を終えて良い道理はない。
人間界はこの理不尽な悲劇の連鎖の一日も早い終結を願っている。
「求められているところを為すとしようか」
「死んだら殺すで」
空奈は瞑矢の鳩尾を小突いた。
《水陣》なんて呼ばれてはいるが。
いや、呼ばれ、もてはやされているからこそ。
分かるのだ。疾風と組むほどのIAMOの魔法士が遅れを取ったことの重大さが、誰よりも。
だが、構わない。空奈はこの恐怖を飼い慣らした。それがプロフェッショナルだ。適切に恐れ、限られた時間の中で、妥協なく、万全に、周到に、確実に
〇
「あれ?1人足りなくない・・・?」
「え?誰、誰?」
「うそ、え、なに?」
「ねぇ、天田さんはっ!?!?!?」
〇
一瞬、全部がピシリと止まった。
次の瞬間に声を発して集団金縛りを解呪したのは迅雷だった。
「しーちゃんギルドに電話頼む!!千影ッ!!」
「行けるよ!行けるよね!?」
千影に問われる前に、空奈は瞑矢の脳天に拳を落としていた。
「ったり前や!!オイハゲ、お前がしっかり確認しぃひんからやぞ!!」
「分かってる!!」
迅雷の頼みで、もう慈音は電波の繋がる地上へ駆け出した。
初っ端から『雷神』と『風神』二振りともを携えて再び『門』の中へ飛び込む寸前の迅雷に、煌熾が自分のダンジョンマップを投げた。
「神代、迷うなよ!!」
「ありがとうございます!!」
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●
●
あたしにも夢がある。努力すれば叶う目標という意味の夢ではなく、妄想や絵空事の類の夢だ。
でも、その夢想がいまにも叶おうとしている。現実味がない。頭がフワフワしている。もしかして、ようやく、あたしは報われるのだろうか。
―――少しだけ昔話をしようと思う。2011年10月、現在は『血涙の十月』なんて呼ばれて教科書にも載っている半月ほどの期間の話だ。
事の発端は、IAMOが異界条約に抵触する研究を極秘裏に行っていることを、魔界の有力国でありリリトゥバス王国が嗅ぎ付け、追及したことだった。十分な証拠がないにも関わらず過度な要求を行う魔族に対してIAMOが抗議の姿勢を崩さなかった結果の戦争だった。
“血涙”という呼称の由来となった、血の涙を流す紅い月のことは、いまでも鮮明に思い出せる人が多いだろう。魔族が使用した、互いの世界の、住む星の衛星同士を媒介として位相間の行き来を可能とする魔術の見かけがヒトの目にはそう映ったのだ。魔族は夜と共に世界中へ降り立ち、当初の非難対象だったIAMOの研究機関とはどうしたって関連付けられないはずの民間人まで容赦なく巻き込まれ命を落とす、無慈悲な戦いが始まった。
戦争長期化の兆しを見た魔界の同盟世界も参戦を匂わせ、一時は第二次界間大戦への発展も危惧された戦争は、しかし、終始優勢に思われた魔族が突然の撤退をしたことで奇妙な早期終結を迎えた。なぜ奇妙かと言えば、決して人間界が逆転勝利をしたわけではなかったからだ。むしろ、『血涙の十月』以後の人間界は実質的な敗戦者でさえあった。最後の数日間には、あの大災害をきっかけに、多くのことがありすぎた。
因果関係は不明らしいが、あの10月を境に人間界のみならず他の異世界においても位相歪曲の発生件数が従来の2倍から4倍近く増えたというデータがある。あのたった2週間と少しの出来事で、世界はいまの在り様へと大きく変化した。
・・・が、実を言えばここまでしてきた話なんてのは、あたしにとってはさほど重要なことじゃない。
夢の話に戻ろう。ここからはあたしの心の声。
あの当時は小学5年生だったあたしは、幼かった夏姫を連れて、通っていた小学校の体育館に避難していた。父さんと母さんはIAMOの実働部隊として開戦直後から激戦区へと駆り出されていたから、家族はあたしと夏姫だけだった。ただ、それで夏姫と2人きりだったかと言えばそうではない。小学校の―――知り合い―――は、何人かいたから。
避難して間もない頃の一央市はまだそれほど激しい戦闘状態になかったため、戦争の現実味がなく、ある種のワクワクを感じていたように思う。得体のしれない不安やストレスから心を守るための生理的な反応としての高揚感だったのかもしれないが、初めて体に爆音を感じた日までは冒険にでも出かけたような非日常を満喫していた。
腹の底から伝わってくるような轟音に驚き、遠方の空に立ち昇る黒煙を見たとき、知り合いの一人が大人たちの目を盗んで避難所の外へ行こうと言い出して、ずっと避難所生活で退屈していた夏姫までそれについて行こうとした。
あたしは、それを止めなかった。
あたしは口でこそ夏姫やみんなをなるべく早く連れ帰るためと言って同行したが、子供の自分たちにだって戦っている大人の魔法士たちの手伝いが出来ると思っていたのも確かだった。そして案の定窮地に陥り―――しかし、あたしは自分たちの力でその状況をなんとかした。してしまった。
避難所に戻って事態を知った大人たちに酷く叱られたとき、あたしは不服だった。すごいね、頑張ったね、偉いね、と、褒めて欲しかった。
あたしは、傲ったのだ。
その無謀な冒険から程なくして一央市の戦況は悪化し、一央市ギルドへ避難所を移動したあたしは、父さんと母さんの不在に対する不安を強めていく夏姫をなんとか安心させてあげたくて、ずっとあの子の傍にいた。
『血涙の十月』を終わらせた大災害は、そんな中で発生した。まるでグリーンバックのスタジオに忍び込んだ子供が好き放題に背景を切り替えた映像世界に放り込まれたようだった。巨大な地震―――本物の地震だったのかも怪しいが―――の後、空が割れて、立ったまま何度も別の異世界に転移し、魔族が一斉に撤退し始めたかと思えば入れ替わりに見たこともないようなモンスターが町に溢れかえった。ランク7の魔法士を含む部隊でもなければ討伐など夢のまた夢とさえ言われるドラゴンまで出現し、戦争より無秩序に世界が破壊されていった。
でも、避難所のテレビで、一央市の災害対応のためにIAMOが派遣した魔法士部隊にいた両親がそのドラゴンを倒す瞬間を見た。驚いたし、危機が去ったようで安心したけれど、なにより2人が誇らしかった。そして、あたしは今度は自ら避難所を抜け出すことを考えた。
結局、あたしは夏姫の前では姉として親の代わりになって安心させてあげようとしながら、本当は自分の方が不安で、両親の温もりを求めていたのだ。ただ1分、1秒でも早く2人に会いたかった。早く父さんに避難所での出来事を話して「頑張ったな」と頭を撫でて欲しかった。早く母さんに優しく抱きしめてもらって互いの無事を喜びあいたかった。
外の状況を見て、あたしはそれが危険な試みであることを理解していた―――つもりになって、あたかもそれらしく夏姫を嘘で避難所に留め置き、知り合いたちと共に再び避難所を忍び出た。前回だってなんとかなったのだから、今回もどうにかなるはずだ。仲間もいるから大丈夫。増長した全能感に脳を支配されていた。あたしは、傲ったのだ。
避難所を少し離れれば、辺り一面が火の海になっていた。元がなんだかも分からない瓦礫の山が蒸気機関車の炉の中のように赤々と照らされていて、辛うじて火の手が及ばない場所には位相歪曲に巻き込まれやって来たモンスターたちが逃げ場を求めて溜まっていた。一生で最も危険な夜を、あたしは火事を明かりに歩いた。
歩いて、歩き続けて、あたしは父さんと母さんを見つけることが出来た。再会した両親はドラゴンとの戦闘を終えた後ということもあって酷く疲れ切って、特に父さんに至っては魔力を完全に使い果たして仲間に肩を貸されていた。だけど、そんな父さんは、あたしを見つけるや否や、避難所を抜け出したことを叱ることも忘れてあたしを抱き締め、ボロボロ涙を流して再会を喜んでいた。
それからあたしは、思い描いていた通りに父さんと母さんに離れていた間の話を誇らしげに語って聞かせ、2人はあたしが望んだ通りにあたしのことを褒めてくれた。
いまなら分かる。あまりに激しすぎる戦い続きだったから、喜びがなにより優先されたのだ。小学校の知り合いたちも、両親の仲間も、あたしと両親の再会を涙を浮かべて祝福していた。危ないことをするんじゃない、なんて言葉が思い浮かぶ余裕はなかった。
まだ危険の渦中にいることも忘れて。
本当に、どうしようもない。
あたしが身勝手な笑顔と一緒に、安堵という名の弛緩剤を振り撒いたのだ。
それは、あっという間の出来事だった。
悲鳴が聞こえたときには既に、両親の仲間が2人、殺されていた。夜でも分かるほど黒く、腰から無数の触手を生やした巨人が、ヤツメウナギのような口を使って人間をすっぽりと咥えていた。すぐに母さんに手で目隠しをされ、父さんは母さんにあたしと、あたしについてきたみんなを連れて逃げるよう指示して、自らは殿を務めた。
だが、1分と経たないで父さんは無造作に母さんの背中へと投げつけられ、地面に投げ出されたあたしの前に転がった。父さんは腹を深く抉られて、既に助かりようのない状態だった。それでも母さんは必死に父さんの止血を試みていたが、あのモンスターはそれを嘲笑うかのように、あたしの目の前で父さんの体を粉々に叩き潰し、その肉片を口のついた触手で貪り尽くした。あたしの中で誰より強い魔法士だった父が敗北するなんて想像しなかった。耳を劈く母さんの慟哭と、人がしゃべっているような調子の気色悪いモンスターの鳴き声に、あたしは恐怖と混乱で蹲った。足を止めたあたしの手を引いて逃げてくれた知り合いも直後には吸うと溺れる謎の霧に捕らわれ藻掻きながら触手の餌食にされた。どうすることも出来ないあたしを庇った母さんは手足から内臓までモンスターに喰い千切られ、あたしを産んだことを後悔しながら頭を喰われて事切れた。
母さんがあたしを心の底では憎悪していたのも当然だと思う。あたしが生まれる前から可愛がっていた犬も、祖母―――つまり母さんにとっての母親も、最愛の夫も、そして母さん自身も、みんなあたしが原因で死んだのだから。むしろどうしてこんな娘を素直に愛せる親がいるんだろう。父さんだって、本当はきっと母さんと同じ思いを抱えていたに違いない。
ただ、当時のあたしにとっては、それがとても大きな衝撃だった。両親の死と同等以上の意味を持つ喪失だった。自分ばかりが不幸みたいな気がして自棄糞で当たり散らして、あたしは助かるはずだった知り合いを巻き込み凍死させた。そんな現実から逃げ出し、耳を塞ぎ続けて次に目を開けたときには僅かに残っていたものさえも全て無くなっていた。
『香莉だけじゃない。萌々子も、雪姫のお父さんもお母さんも・・・英鍍君も。雪姫のせいで死んだんだよ』
戻って来たあたしの髪を掴んで引っ張り突き飛ばし、鼻っ柱を蹴り潰して、あの子があたしに突き付けた言葉を、あたしは絶対に忘れない。
『この人殺し』
その通りだ。
あたしは人殺しだ。
あたしは弱くて愚かで、どうしようもない人間だ。
いつだって、本当に不幸だったのは―――不幸なのは、あたしの周囲の人間だ。
全部、あたしの責任だ。
・・・夏姫だって。
あたしは、あの子になんて謝れば良い?
あの子に親がいないのは、あたしのせいだ。
あの子から普通で温かい、幸せな人生を奪ったのはあたしだ。
あたしの夢は、この償いようもない過去を償うことだ。
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episode8 sect33 “ dagen for en spesiell benådning “
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恐ろしいか?それもある。だが違う。僅かに滲むこの涙は歓喜だ。虚しさや憎しみが歪んで奇妙な親しみすら感じる。
天田雪姫は、あの日に帰って来た。
叶うはずのなかった夢が叶う。
「久しぶり・・・だね。なに?なんか『ブレインイーター』なんて呼ばれてるらしいじゃん」
夜より黒い巨体。艶めかしく蠢く10本の触手。何人もの血を啜った円い口。なにを考えているのか分からない眼。記憶の中からそのまま抜け出してきたかのように、あの日と同じ姿のバケモノは、雪姫を見つめてわなないていた。もしかして。もしかしてだが、『ブレインイーター』もまた、5年も経ったというのに、いまの雪姫を見てあの日喰らい損ねた少女のことを思い出してくれたとでも言うのだろうか。だとすれば、胸のときめきすら感じてしまう。
「ずっと会いたかった!」
両手を広げる、
「生きててくれてありがとう!」
声色とは裏腹に、
「今度こそブッ殺してあげる!!」
空気は一気に凍り付く。
どちらのものとも判らぬ咆哮が洞窟を震わせた。
吹雪が唸りを上げ、戦場は瞬きの内に白に染め上げられる。
諦めなければ夢は叶うというが、どうやらあれは本当らしい。思い描き続けたジョーキー・デイ。この瞬間のために愚直に積み重ね磨き上げてきた全てをぶつけよう。
吹雪の隙間に黒が見え、雪姫は右腕を振るう。
轟々と粉雪が渦を巻いて雪姫を包む。
『黒閃』が雪壁に阻まれ拡散し、洞窟の壁や天井を崩す。
落石など、雪姫の『スノウ』による全方位防御の前ではなんの脅威でもない。頭上のことなど捨て置いて、雪姫は振るった右手の五指を大きく開いて魔力を集中する。雪姫の右方に大型魔法陣が形成され、振り戻される右腕の動きに連動するように巨大な氷塊が『ブレインイーター』に掴み掛かる。
(捉えた!!)
『グレイシャ』―――性質としては最も基本的な氷魔法である『アイス』を派手にしただけのものだ。だが以前、雪姫はこの魔法を、ほんの小手先の威力で使用して、神代迅雷を下している。ましていまは手加減などしていない。完全に殺すつもりの一撃だ。テレビで氷河の崩れる映像を見たことはあるだろうか。あの崩れ落ちた部分だけでも、とても大きな氷塊だっただろう。人が手を振る速さであの質量が飛んでくる。展開速度・攻撃範囲・破壊力、どれをとっても申し分ないシンプルな暴力だ。場合によっては範囲を指定してから内部を凍結させるモードチェンジまで可能なため、小型モンスター程度なら一撃で群れごと巻き込み根絶やしにする初見殺しでもある。
『おっ、おっ。お、あああ』
しかし、『ブレインイーター』が触手を槍のように突き立て、雪姫の初撃は真正面から粉砕された。触手は、氷を貫いて雪姫の胸目掛けて飛んでくる。
父も母もこの触手で殺された。
これを受けたら、きっと―――。
「ッ!!」
雪姫は強く地面を踏み付け『フリーズ』を発動した。地面から突き出す氷が触手を跳ね上げ、雪姫自身は後退することで事無きを得る。
(なに?この感じ。さすがにあの程度で砕かれる密度にはしなかったはず・・・)
雪姫の生成する氷は自然のそれと異なり、状況に合わせて分子密度を操作し、時には鉄鋼並みかそれ以上の強度にまで達する。それが柔らかそうな触手で貫通されることがあるだろうか。
いいや、違う。単なるパワーではない。
あのバカたちのパーティーが『ブレインイーター』と遭遇したときの報告内容と、いま雪姫が感じた異変を照合する。
(そうか)
すぐに仮説は導かれた。検証のためにはもう少し情報が要る。だが、そのために雪姫が能動的に行動する必要はなかった。
まるで津波のように巨大な質量が押し広がって迫ってくる気配で、雪姫は急ぎ『フリーズ』で自身を上空へ跳ね飛ばした。空中で別の氷塊を生成・固定して掴まり、いま回避した攻撃の実態を確認した雪姫は、自身の認識との齟齬から仮説の補正を完了して、乾いた笑いを漏らした。
大波が来たかと思えば、全く見当はずれ。攻撃の正体は4本の触手が鞭のように乱れ振るわれただけだった。隙間だらけのそれをひとつの塊と誤認した理由は、もう雪姫の脳内では確定していた。
雪姫が誤認したわけを説明するために、さすがにここらでひとつ、種明かしをしておこうと思う。これまで雪姫と戦ってきた、迅雷や真牙らマンティオ学園の生徒や高総戦で出会った他校の実力者たちが誰一人として攻略はおろかその正体にすら気付けなかった、彼女の“シックスセンス”についてだ。
雪姫はこれまでの戦闘の数々の中で、例え背後を動き回る相手であっても全く見ないで正確に攻撃を加え、本来なら自分の視界を遮るリスクがある『スノウ』を大規模展開中であってもあらゆる攻撃を発生とほぼ同時に認識して対処していた。これは決して雪姫の五感が人間離れしているわけではない。無論、勘などという非科学的でスピリチュアルなものでもない・・・が、しかし、敢えて名付けるならば、これはやはり“シックスセンス”と言う他ない。
雪姫のシックスセンスには、それを安定した技術たらしめるロジックがある。
雪姫の魔力が作用するのは氷、すなわち固体の水だけだ。だが、雪の結晶も氷の粒であるから、雪姫の魔力は十分に接近した雪の結晶同士の間を伝播することが可能だ。雪姫は空間に高密度で散布した『スノウ』に常時少量の魔力を浸透させている。
すると、『スノウ』による粉雪の粒子が存在出来ない空間、すなわち敵の体やなんらかの攻撃など氷ではない物体が占有している空間、あるいは敵の体重がかかった圧力で雪が融解した地表等だけが、雪姫が魔力を流すことの出来ない空間として浮かび上がってくる。雪姫はその魔力的な虚空を利用することで、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に加え、魔力という第六の実在確かなこの世の最後の構成要素を感じる、正真正銘、文字通りの第六感を獲得したのである。
もっとも、ここでは簡単に説明してしまったので誤解のないよう付け足すが、雪姫がこの技術を実戦レベルにまで昇華させるに至った背景には相応の努力があることを忘れてはならない。雪姫が独学で身に着けたシックスセンスと、神代疾風の電磁界を利用した索敵レーダー魔法とが本質的に同等の技能だと言えばその高度さが分かるだろうか。
ただし、今回は相手の特性との噛み合いが悪かった。報告によれば『ブレインイーター』の触手は魔力を吸収する性質を持っているらしい。それは『グレイシャ』の高密度氷塊を正面から突き崩されたことで確認が出来た。あれは氷を構成する雪姫の魔力が吸われてスカスカになったため、本来の強度を失った故の現象だ。あの強度ですら短時間で崩壊するほど苛烈な吸収力を前にしては、粒径の小さな『スノウ』では構成する魔力量が少なすぎて、触手が少し離れた位置を通過しただけでも呆気なく消滅してしまう。そうなっては『スノウ』の有無で空間認識を行うシックスセンスは正確性を失ってしまい、単に吹雪が自分の視界を奪うだけとなってしまって本末転倒だ。
『スノウ』の展開範囲内なら雪姫はどこにでも魔法を発動出来るため、本来なら『ブレインイーター』の攻撃の中でも要警戒度の高い溺れる霧や高圧水流ブレス等の対策にも『スノウ』は外せないというのに。
クソ面倒くさい特性だ。
だが。
「そうこなくっちゃ―――」
荒れていた吹雪は収まって、雪姫を守る壁は随分と頼りなくなった。だが、雪姫は微塵も臆することなく『ブレインイーター』との接近戦に持ち込むことを試みた。飛び道具では魔力を吸収する触手に邪魔をされて決定力に欠けるため、懐に飛び込んで、なんなら直接触れて強引に筋肉や臓器を凍結させるくらいのつもりで確実に攻撃を通していくことがベターだと判断したのだ。
『スノウ』の展開範囲は縮小したが、完全に停止したわけではない。自分の体の周囲に緊急防御用として残したほか、地表にうっすらと積もらせた雪は雪姫が得意とする『フリーズ』の起点であると同時に、足元限定の簡易的なシックスセンス領域を形成している。
『スノウ』による水の使用への圧力が緩んだことを察知したのか、『ブレインイーター』は濃密な白霧を放出した。
警戒した雪姫はすぐに腕で口や鼻を守ったが、どうやら触れた瞬間に体積が爆発的に増加する霧ではなかったようだ。しかし、どのみち視界は最悪。不用意に冷気を撒けば自分ごと凍結するリスクまで被った。これでは『スノウ』を弱めた意味が薄れてしまう。懸念した通りの展開だ。知能が高いとは聞いていたが、ここまでされると人間と駆け引きをしている気分に―――。
「っ」
地表に展開した『スノウ』からの反応が消えた。『ブレインイーター』が地面から足を離したということだ。雪姫はすぐに頭の中に叩き込んでおいた『ブレインイーター』に関する報告内容の一節を思い出した。『ブレインイーター』は自身の作り出す霧の中を高速で泳ぐ、と。
(待っ、に、逃げられる!?また!?そんなの嫌!!)
雪姫が最も恐れる結末が頭を過った。
だが、直後に雪姫は自身の周囲に残していた『スノウ』から危険信号をキャッチし、横へ跳んで転がった。寸前まで立っていた地点が地盤ごと捲れ上がり、バシャバシャとその余波が雪姫の全身に降り掛かった。
水弾だ。
『ブレインイーター』はまだそこにいる!!
雪姫は即座に『スノウ』展開範囲内の地表に薄い氷を張った。
次なる水の砲撃を、雪姫はフィギュアスケーターの如く氷上をしなやかに滑って旋回し、回避。続け様に、遠心力に任せて振るう腕に『グレイシャ』を連動させる。
虚空から引き摺り出された巨氷の壁が霧を薙ぎ払う。
晴れた視界の中央を、氷壁を砕き飛び出した黒い触手の先端が埋め尽くし、
「 」
尻餅をついた。
―――刹那、困惑。直後、転がるように走り出す。
霧中を泳ぐ黒い影が眼前を過ぎる。
霧の奥から放たれる水弾を滑り避け、氷撃で相殺し。
「なんで―――!?」
大地を強く踏み鳴らす。
高出力『フリーズ』の掃撃。
雪姫の不満を具現化したような氷の刃が地面を走り、『ブレインイーター』を搦め捕らえる。
『おげっ』
地面から突き生えた氷の剣山は、『ブレインイーター』の触手に接触した面から崩壊し、早々に巨体の重みを支えられなくなって瓦解する。
地上に引き摺り下ろされた『ブレインイーター』、すかさず突撃する雪姫。
宿敵は徐な動作。
大きく右手を開いて振り被る。
あと五歩で。
この右手の指先のどこかひとつでも触れたなら。
殺せるよ。
分からないなんてことはないだろう?
さぁ、どうする。
立って躱すか?
高圧水流ブレスで迎え撃つか?
それとも触手であたしを薙ぎ払うか?
なんだって構わない。
「ほら、どうする!!」
『お、お・・・』
消え入るようにか細い『ブレインイーター』の声。
洞窟が俄かに静まり返って。
ただひとつだけ、鈍い音が響いた。
触れれば戦いが終わるはずの右手を、雪姫はギチギチに握り締めて、『ブレインイーター』の縦長な額に叩き付けていた。
だが、なにも凍りやしない。
本当にただ殴っただけだ。魔力なんて乗せず、殴っただけだった。
反動で傷付いた拳を、雪姫は再び振り被る。
「・・・違う」
もう一度。
「なんか違う」
さらにもう一度、殴り付けた。
少女の拳如きでは『ブレインイーター』の巨体などビクともしない。
それでも、雪姫は何度も何度も、血塗れになった拳を『ブレインイーター』の目と目の間によく見えるよう大袈裟に振りかざして、骨がピキリと砕けるんじゃないかってくらい、何度も、何度も擦り付けた。
「フザけんなし・・・立てし・・・なんか、しろよっ・・・」
『・・・お?』
「違ェんだよッ!!こんな!終わり方で!あたしの決着つくわけ!!ないだろッ!!真面目に・・・やれ”ッェェェェッッッ!!」
そうだ。これではまるで違う。
言ったはずだ。雪姫の夢は、過去の償いだ、と。
なぜあれだけ多くの人間を惨たらしく殺しまくったバケモノのくせに、殺されると分かっているくせに、なにもしようとしない?一体なにを考えているんだ?
これじゃあまるで立場が逆じゃないか。
意味がない。こんな風に殺したってなにも叶わない。叶わなくなる。
「立ってよ。一生のお願いだから、あの日の続きをさせて・・・?あたしを」
震えながら振り上げた拳に、チリ、と微かな熱痛を感じ、雪姫はバッと顔を上げると。
猛り狂う黒い炎が、雪姫に覆い被さってきた。
「っぐ、~~~~~~~!?!?!?」
反射的に跳び退き直撃は免れたが、わずかに炎が掠めただけの右手が白い炎に包まれていた。雪姫は即座に『スノウ』を集めた雪球の中に手を突っ込んで火を消した。
(くそ、誰!!)
完ッ全に、視野が狭窄していた!!不意打ち!!『スノウ』を維持していたならあるいは気付けたかもしれないのに!!
―――と。
『ごぉ、おっ、おぎィッ!?』
「なっ―――」
脇を見れば、『ブレインイーター』が真っ黒な炎で火だるまになっていた。
『おぉっと、ごめんねそこのお嬢さん!手ぇ、大丈夫~?』
雪姫には伝わらない言語だが、それがどこで話される言語なのかなど考えるまでもなく、その女は燃え盛り悶える『ブレインイーター』を踏み付けにして舞い降りた。
黒い眼球、黄色い瞳、人間にはありえない翼。間違いない。魔族だ。
焼けた手を庇いながら衰えない眼光で睨み付けてくる雪姫に対し、女は不敵な笑みを浮かべた。
『おーコワ。ごめんってぇ。手が滑っちってさあ。つい、うっかり・・・ね?』