episode8 sect22 ”行間②”
市場で今日の日付を見つけた。父の死から1年が過ぎたらしい。
あれから気が付けば、アラヤー・マフバンは住み慣れた家すら失って、母と2人で路上暮らしだった時期さえあった。いまは一応、屋根のある寝床がある・・・があの場所もアラヤーにとって居心地の悪さで言えば路上生活の頃と大差なかった。
新しい”おとうさん”ができた。アラヤーにはなぜ父ではない男が自分の父親なのかが分からなかったが、母がそうだと言うのだから納得するほかなかった。いまの住まいも、新しい父親が借りている安くてボロくて狭苦しいアパートの一室だった。
でも、どんなに居心地が悪くても大好きな母親のためにアラヤーはあのヘンな臭いが充満する部屋に帰らねばならなかった。夕方まで市場の青果店で手伝いをして、終わったらお土産の果物少々と、市場で安かった食材を必要最低限だけ買って帰る。薄いアパートの扉の奥からは今日も母と新しい父親が乱れ合う声がしていた。
「ただいま・・・」
あの頃のように、おかえりと言ってくれる父はいない。代わりに、白けたような舌打ちが返ってきた。
「おとうさん・・・いわれたとおり、おさけ、かってきたよ・・・?」
「はぁ・・・。うるせぇな、言わなくてもいつも通りやっとけよ使えねぇゴミが」
「っ、ご、ごめん、なさい・・・」
そして、また母のヘンな声が始まった。アラヤーは買ってきたものを机の上に置いて、アパートの部屋の外に出た。母と新しい父親はよく裸になって遊んでいて、そういうときアラヤーはこうして玄関の外に座って静かになるまで待つようにしていた。
ここに来てからの母が、アラヤーにはとても気持ち悪く思えて仕方なかった。あんなに優しくて、いろいろなことを教えてくれる人だったのに、最近はずっとイライラしてばかりで、そうでないなら新しい父親とこんな風にじゃれあって、アラヤーのことなんてちっとも構ってくれなくなっていた。
でも、きっとそんなのはいまだけだ。大好きだった父がいなくなって、悲しくて、大変なことばかりだったから、母は少し疲れてしまっただけに違いない。きっと、アラヤーがもう少し我慢していれば、またあの頃のアラヤーが好きな母に戻ってくれるはずだ。そう信じて、アラヤーは独りで家族を支えるために頑張り続けた。
○
母の悲鳴で、夜明け前に目が醒めた。
「おかあさん!?おかあさん、だいじょうぶ!?」
「ああああうぅうあああ、いぃぃやあ・・・あああああっ!?!?!?」
母は必死に腕や足からなにかを払い落とそうとしていたが、アラヤーの目には母がなにを恐がっているのかが分からなかった。次第に血が出るほど肌を掻き毟り始めた母を見て、アラヤーはどうしたら助けてあげられるのか母に聞いた。しかし、もはや母の言葉はアラヤーでは理解出来ず、こんなときに限って新しい父親もどこかへ出掛けてしまっていた。
結局どうすることも出来ず、かと言って母を見捨てて逃げ出すことも出来ず、アラヤーは部屋の隅で耳を塞いで一晩中うずくまっていた。母はこんなに泣き叫んでいるのに、誰も助けには来てくれなかった。しばらくして、母は静かになった。
恐る恐るアラヤーが顔を上げると、母親は悍ましい形相で床に転がり、不自然にビクビクと震えていた。
「おかあさん!?」
「―――ス、リ」
「っ!」
半年ほど前から、母はなんの病気かヘンな薬を使うようになっていた。母がようやく分かる言葉で求めたそれを、アラヤーは急いで持ってきて、渡してやった。最後の一袋だった。震える手でなんとか注射をした母は、そのまま気絶するように眠り込んでしまった。
新しい父親が帰ってきたのは、明け方、アラヤーが市場に出掛ける準備を始めた頃だった。
「おとうさん、どこいってたの?おかあさんがたいへんだったのに・・・」
「あー?お前にはカンケーねぇだろ、俺がどこ行ってようがよぉ。そいつだってクスリさえやっときゃ大丈夫だっつってんだろうが」
「っ、おとうさんはおかあさんしんぱいじゃないの!?」
「ギャアギャアうるッせぇんだよ!!頭に響く!!」
新しい父親は、急に怒鳴ったかと思えばアラヤーの頬を拳で殴った。
「それより、グレイ。今日の分のカネは」
「・・・ほへ・・・」
「チッ。これっぽっちじゃあっという間に消えちまうじゃねぇか。隠してんじゃねぇだろうな?」
「はふしてない!!ほへええんぶ!!」
二発目を恐れるアラヤーにはそんな小賢しいことを考える余裕などなかった。いつものように新しい父親に用途不明の金銭を手渡すと、彼はそれをふんだくって、嗅いだだけでもへべれけになる大きな溜息を吐いた。
○
幼い娘が稼ぎ頭を担う生活が長続きするはずがなかった。ここまで母の貯金を切り崩しながら騙し騙しその日暮らしを続けてきたが、気が付けばそこそこあった貯金も底を突こうとしていた。
遊ぶ金を失った新しい父親は、アラヤーになんでも良いから金目のものを盗ってこいと命じた。さすがのアラヤーでも、それが良くないことであるのはハッキリと分かった。
「お・・・おかねがほしいならおとうさんも、は、はたらいたら・・・いいんじゃないの・・・?」
「・・・あ?」
次に目が醒めたとき、アラヤーは歯を半分は失って、近所の路地裏に裸で転がされていた。頭がズキズキと痛み、意識もまだどこか中空を彷徨っていた。立ち上がろうとして、急に気持ち悪くなって吐いた。自分の吐息に混じる、嗅ぎ慣れた嫌な臭いにアラヤーは少しだけ記憶を取り戻した。
青黒い腹、赤い吐瀉物、煙草の直径に爛れた痕がいくつも残る下半身。それを確かめる視界もなんだか違和感があった。
もうあんな場所には帰りたくなかった。でも、ずっと裸ではいたくない。服が欲しい。
・・・帰るしかなかった。
帰ったら、また舌打ちされた。幼心にも、新しい父親は自分が生きていることを嫌がっているのだと理解した。
でも、ここを出て行くことは出来なかった。だって、母がいたから。アラヤーが頑張らないと、母の病気の薬を買えなくなってしまう。―――本当はアラヤーの稼ぎなんてクスリ代の1%にも満たないことなど知る由もないまま、そう信じて母のために、新しい父親の暴力に耐えることを選んだ。
新しい父親は、服を返す代わりにもう一度、盗みを働くよう命じてきた。アラヤーは従うしかなかった。
でも、アラヤーにはなにが価値のあるものかなんて分からなかった。誰からなにを盗めば、新しい父親が満足するかなど。
だから、自分が世話になっていた青果店の売り上げから下着の中に隠せるだけの現金を盗んで帰った。
次の日、青果店のおじさんは何事もなかったようにアラヤーを働かせてくれた。バレていないのだと思い、アラヤーは安心した。そしてまた、下着の中に売り上げを忍ばせた。
3回目で、アラヤーは店から追い出された。
もう誰もアラヤーを働かせてはくれなかった。
新しい父親には使えないヤツだと殴られた。
なんとか新しい父親から逃げたくて、アラヤーは新しい働き口が見つかったと嘘を吐き、昼間は町を放浪するようになった。
○
アラヤーが身を削って生んだ元手も、新しい父親が全て使い潰した。
母の通帳に遂に0以外の数字が刻まれなくなったある日、新しい父親がある提案をした。
「お前の実家に行くぞ」
お前とは、アラヤーの母のことだ。
次の日、新しい父親は見違えるほど小綺麗な格好に変わっていた。初めて出会った日にそっくりだった。アラヤーは遂に新しい父親が心を改めてくれたのだと思った。実際、その日の彼はとても優しく、言葉遣いもアラヤーの本当の父に負けないくらい穏やかになっていた。
母も、久々に髪を整えてサッパリした服を着ていた。随分と細くなってしまった母の手を握り、アラヤーは何年ぶりかも分からない母親の実家を訪れた。
初めは怪しまれていたものの、すっかり人当たりの良くなった新しい父親はアラヤーの祖父母と打ち解けて、同居という形で新しい住まいを手に入れた。
祖父母はアラヤーの傷を見て訝しんでいたが、アラヤーは心配を掛けたくなかったからいろいろ理由をつけて大丈夫だと言い続けた。そうすると、母と新しい父親に褒められた。褒められることなんていつぶりだったかも分からず、アラヤーはとても誇らしい気分になれた。これまでの苦労も全部報われた気がした。
翌日には新しい父親が仕事をしに出掛けるようになり、祖父母の家での生活は平穏に過ぎていった。
そして、祖父母と暮らし始めて1ヶ月ほどが経った頃。アラヤーは夜中に新しい父親に揺すり起こされて、ロープを手渡された。
「んぅ・・・なぁに?おとうさん?」
「グレイ、ちょっとこれでおじいちゃんとおばあちゃんの首をギューッてしてきてくれ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
寝ぼけてなにか聞き違えたかもと思ったが、新しい父親はそれ以上ロープについて詳しい説明はしてくれず、ただアラヤーの背中を押して寝室から出て行かせようとしてきた。新しい父親は、この頃は見慣れてきた人の良さそうな笑顔をしていたが、アラヤーにはかつての彼の笑顔に見えていた気持ち悪さを思い出して体を縮めた。
「ま、まって、おとうさん?なに?なんで?どういうこと?おしえて?」
「分からないのか、グレイ?」
「だって、これでギューッてしたらしんじゃうよ・・・?」
「うん、そうだね。で?」
アラヤーには新しい父親がなにを考えているのか理解出来なかった。だが、アラヤーは母に腕を掴んで留められた。
「や、やっぱりやめようよ・・・。そ、そんな、父さんと母さんを殺してまでお金なんて欲しくない・・・私、そんなところまで堕ちたくない・・・」
「・・・はぁ?いまさらなに言ってるんだ?良いか、これは、お前の、ためでも、あるんだぞ。お前のクスリ代のために俺がわざわざ色々と手を回してやったんだぞ。ここまできてマトモぶってんじゃねぇよ」
「もうクスリならやめるから、お、お願い・・・」
「バカが。いまさらやめられるワケねーだろ。冗談も休み休み言いやがれ。ほら、グレイ。そういうことだからさっさと行ってこい」
「待って、待ってグレイ!!あなたもお願いだから待って!!本当にやめられるから、やめるから!!」
「うるせぇ!!」
母の頭を蹴り飛ばした新しい父親は、苛立った声を極力押さえ込んで溜息を吐いた。
「あいつら起こしちまったら台無しだろうが」
床に体を投げ出した母は、舌を噛んでしまったのか、口から血を流しながらも新しい父親のズボンの裾を掴んで離さなかった。ろれつの回らない口調で、ひたすらに「クスリはやめます」、「殺さないで」、「お金は私が稼ぐから」と壊れたおもちゃのように繰り返し喚き続ける母の姿に、アラヤーはロープを持ったまま唖然としていた。新しい父親も、まるでしつこい蚊でも払うように無造作に母を虐げる、あまりに壮絶な光景だった。
「やめて・・・やめてとおとうさん・・・」
「やめて欲しけりゃとっととジジババぶっ殺してこいよウスノロが」
「や、やだ。そんなのダメだよ」
「じゃあこの女がどうなってもいいのか?」
「やだぁ!!」
「だよなぁ?じゃあ分かるだろぉ?」
「ひとごろしはハンザイなのぉ!!」
「はーい、じゃあいまからお母さんが殺されてしまいまーす。グレイちゃんのせーい」
「ッ!?ッ・・・っ~、やめてぇ・・・おねがい・・・」
「あのなぁ、お前。生んで育ててくれた母親と大して一緒に過ごしてもねぇジジババと、どっちが大事なの」
「どっちも大事なのぉ!!どっちもしんじゃやなのぉッ!!」
「・・・・・・・・・チッ・・・」
星が飛んで、アラヤーの視界は激しく回転した。息苦しくなって嘔吐くアラヤーは、新しい父親の呟きを聞きながら泣いた。
泥棒までは我慢して言われた通りこなしてきた。でも、人殺しだけは絶対にダメだ。アラヤーは自分からロープを奪い取った父親をこのまま行かせてはいけないと思った。母と祖父母を守れるのは自分だけだと。苦しかったが、魔法でバケツ一杯分くらいの水を作って、新しい父親に投げつけた。
○
アラヤーが目を醒ますと、そこは車の中だった。
新しい父親が運転する車で、隣にはちゃんと母がいた。
安心した。
とても怖い夢を見ていた。
夢の内容を思い出してまた不安になってきたアラヤーは、母に夢の話をしようとして気が付いた。
母は怪我をしていた。
さて、どこからが夢だったのだろうか。
元々、新しい父親は自動車なんて持っていなかった。
アラヤーはズクズクと痛む腹を見た。拳大の青あざがいくつもあった。
「・・・おかあさん。おじいちゃんとおばあちゃんはどこ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
母はなにも答えず、急に泣き始めた・・・が、新しい父親の舌打ちで泣くことさえやめた。
いくらなんでも、アラヤーにだって状況が理解出来てしまった。初めからアラヤーは夢など見ていなかった。怖くてなにも聞けなかった。
その瞬間からアラヤーに訪れたのは、2ヶ月にわたる逃亡生活だった。
だが、初めに言っておくと、アラヤーはその逃避行の結末を知らない。ここから語るのは、あくまで引き続き、アラヤーが見た事実だけだ。
新しい父親は、以前にも増して暴力的になった。殺人まで犯して結局、目的の金はほとんど手に入らず、それどころか警察に追われるようになったからだろう。しかも、そんな状況に陥ったことを、アラヤーが言う通りに祖父母を殺さなかったせいだと罵ってくるようにまでなった。あまりに理不尽だが、逆らえば次は自分や母さえも殺されてしまうかもしれないと思うと、必死に謝ってやり過ごす他なかった。
大体、母も母でおかしかった。保険金目当てで両親を殺されたというのに、まだ新しい父親と一緒にいようとするのだ。薬物と暴力で憔悴し、もう骨と皮しかない枯れ木のような姿に変わり果てていた。母は、クスリだけでなく新しい父親にも強く依存していた。
アラヤーは仕方なしに逃亡生活の間、ずっと2人の世話を焼き続けた。魔法のおかげで飲み水や衣類の洗濯くらいは賄えたが、食べ物や車の燃料等はそうもいかない。毎日のようにゴミを漁り、スリを行い、2日に1食、それも粗末極まりない食事でなんとか食い繋ぐ生活だった。唯一の救いは、空腹で気力の衰えた新しい父親の暴力が頻度を落としたくらいだった。それでも、全くなくなったわけではなく、アラヤーの体はいつもどこかがおかしかった。
なぜこんな思いまでして人殺しの世話をしなくてはならないのだろう。新しい父親が祖父母にそうしたように、新しい父親の寝込みを襲ってやろうと何度思ったことか。・・・しかし、夜毎に湧き起こるグツグツした衝動も、新しい父親の首に手を伸ばすところで恐怖に負けて掻き消えた。
そうして結局、朝が来て、冷たい風に起こされ不機嫌な新しい父親を刺激しないように日がな一日地面や空とにらめっこして過ごした。
早く警察に見つけてもらいたかった。自分で通報することは思いつかなかった。自分では電話なんてしたこともない上に、新しい父親に逆らうような行動は無意識に避ける癖がついていたから仕方なかっただろう。
だが、逃げ続けて1ヶ月ほど経過した頃から、小さな変化があった。たまの収入を得ることに成功した一行が食べるものを買おうと訪れたコンビニで、新しい父親がいきなり店員に名前を尋ねられたのだ。不意のことでポンと答えを返した父親は、その後すぐになにを思ったか店を飛び出し車のエンジンをかけた。母もそれに従ってしまい、アラヤーも離れるわけにいかず会計前の商品を持ったまま車に飛び乗った。
「ちくしょう、指名手配されてるんだ、ちくしょう!!あのクソ店員がぁぁッ!!」
アラヤーは指名手配という言葉の意味こそ分からなかったが、新しい父親の焦りようから、コンビニ店員が新しい父親が悪人であると見抜いたのだろうということは分かった。しばらくして遠くにパトカーのサイレンの音が聞こえたが、しかし、アラヤーの淡い期待は外れて、その日はそれ以上何事も起こらず終わった。その後数日間も、警察に追われるようなことはなかった。
そうしてまたこれまで通りの逃亡生活に戻るかに思われたが、そうもならなかった。人通りのある場所に3時間もいれば、必ず一度はヒソヒソと遠くから指をさされるようになっていた。
「おかあさん、なんでさっきからあのひとたち、こっちみてるの?しりあい?」
「グレイ、目を合わせたらダメよ」
「オイ、お前らヒソヒソやってんじゃねぇぞ。しらんふりして普通に歩け普通に」
そう言った矢先、パトロールする警察官を見つけた新しい父親は母の手を掴んで走り出した。アラヤーは必死にそれを追い、車で町を脱出した。
こんなことがいくつもの場所で何度も続いて、やがて一行はほとんど車から降りることすらなくなっていった。この頃にもなると、アラヤーは母と新しい父親の情事を隣で見ることにも、母のクスリの臭いにも、日付をまたぐ空腹にも、お経より長く続く新しい父親の苛立った独り言にも、抵抗感や忌避感を感じなくなり始めていた。だが、そんなアラヤーにも我慢出来ないことがひとつだけあった。
「・・・おしっこしたい」
「あぁ?またかよ・・・」
碌に物も食べられない分、魔法で出した水で腹を膨らませる癖のついたアラヤーは、これでも随分とトイレを我慢していた方だ。新しい父親も生活空間と化した車内を排泄物で汚されるのを嫌って、トイレに行くことだけは認めてくれた。もっとも、トイレなんて言っても個室に陶器製の便器ではなく、ほとんどが草陰で野小便だったが。
その日も、3人は日を跨ぐ飢餓に耐えて次の町に向け車を走らせていた。いつもと違うのは、飲み水に味があったことくらいだ。たまたまアラヤーが引ったくってきた袋の中に茶葉が混じっていたのだ。空腹のアラヤーにとっては多少苦味があろうと、味がするだけで美味しいと感じられた。
ただ、お茶には利尿作用があるもので、案の定アラヤーは短い道中の中頃に差し掛かったあたりで早くも尿意を訴えた。ラッキーなことにそのときちょうどスーパーマーケットが近かったので、新しい父親はその店の駐車場のうち、出口に一番近いところに車を停めて、アラヤーを1人で店内に入らせた。
アラヤーはちょっとだけ店内でトイレを探すのに手間取ったことに加えて、ようやくトイレを見つけたかと思えば女子トイレの個室が埋まってしまっていて3分ほど待つ羽目に遭ったりしたが、無事に用を足して車に戻った。
新しい父親はアラヤーが戻ってくるのにどれだけ掛かるんだと憤慨していたが、母が宥めて待ってくれていた。車は気持ち焦り気味な速さでスーパーマーケットを離れ、元の道へと戻った。
しかし、そこから1分ほど走ったあたりでなぜか車道が大渋滞を起こしていた。平時なら渋滞とは無縁の町だったはず、と母が訝しみ、新しい父親は窓を開けて車列の先に目を細めた。
「煙が上がってんな・・・事故でもあったか?」
そんな中、車道を逆走してくるバイクがいた。新しい父親はすかさずそれを捕まえて質問した。
「なぁ、結構な大事故だったか?」
「事故?事故なんかじゃねぇよ、でっけぇ位相歪曲だ!数年に一度レベルだよ、マジでツイてない!アンタらも車なんか置いてさっさと引き返した方が良いぜ!」
それだけ言って、バイク運転手は新しい父親の手を振りほどき、慌てて去って行ってしまった。それからすぐに前方から車を捨てたらしき人々がワラワラと逃げてきた。彼らが言うには、バイク運転手が言っていた通り、ほんの10分ほど前にちょうどこの道路の先で大規模な位相歪曲が起きたらしく、まだモンスターが新しく出続けているとのことだった。しかも、モンスターの強さも並みではなく、その場に居合わせた魔法士だけではどうにもならないのだとか。
「おかあさん、なにがあったの?」
「モンスターがいるから通れないって」
「じゃあどうするの?」
「ねぇあなた、ここは逃げた方が良いんじゃ・・・?」
アラヤーはもちろんだが、母も新しい父親も、モンスターの脅威から自衛出来る力などなかった。それが普通だった。
全くの余談になるが、日本の一央市のように住民に占めるライセンサーの比率が高く、多少規模の大きな位相歪曲が起きてもその場でなんとか出来てしまうような町の方が、世界中で見ても稀なのである。タイも比較的魔法士の多い国ではあるが、それを日常的に実感出来るのは首都やそれに近い規模の町だけだった。
新しい父親もそのくらいは理解していたので、母の意見には意外なほど素直だった。
しかし、車を降りて、来た道を戻り始めたアラヤーは聞き馴染みのある甲高い音が正面から近付いてくるのを聞いた。反射的に立ち止まる新しい父親。
麻薬取引、保険金殺人、子供への殺人教唆、窃盗、暴行、他余罪多数。賄賂で包める金もない。捕まれば極刑は免れない。
「・・・クソが。クソがクソがクソがクソが!!」
「お、おとうさん?なに、なっ、なに!?いたっ、いたい!!いだいいだいいだいぃぃぃ!?」
「黙れゴミ!!」
新しい父親には、このまま進めば確実に死刑を言い渡される未来が待っていた。であれば、一縷の望みを賭けてモンスターの群れの中をすり抜ける方がまだ希望がある。そう考えた新しい父親は、アラヤーの髪を掴んで踵を返した。痛みに喚くアラヤーに、新しい父親は奇妙なほど冷淡な声になって語りかけた。
「位相歪曲。何分前に起きたって言ってたか、グレイ、憶えてるか?」
「じ、10ぷん・・・!」
「ああ、そうだな」
新しい父親は次第に足を速めた。髪を引っ張られるアラヤーは抗いようもなく引き摺られ、母はただ新しい父親を追ってついてきた。母はアラヤーを助けるでもなく、ひたすら、必死に、夫にくっついて歩くだけだった。
逃げる人々の流れに逆らって歩き、やがてその流れも消えた。みんな逃げ去った騒ぎの中心部では、何人かの魔法士たちが決死の形相で戦っていた。見渡せば、アスファルトの地面が捲れ上がり、ひっくり返った乗用車の山があって、そこかしこに死体が転がっていて、見たこともない獣が死体を咥えてどこかへ走り去ったりしていた。魔法士たちの制止を振り切って、新しい父親は頑なにそんな地獄の中を歩き続けた。
歩いているうちに、アラヤーは、なにもない場所に、穴・・・という他に思いつかない奇妙なものを見た。彼女が初めて見る、実物の位相歪曲だった。その穴からは、見たことのない動物が次々と飛び出していた。夢と言われても疑わない不可思議な光景にアラヤーが圧倒されていると、なにを思ったか新しい父親は穴のもとに足を向けた。
「テメエのせいだよ」
「お、おとうさ・・・」
「トイレトイレトイレトイレおしっこおしっこおしっこおしっこ!!ふざけやがって!!さっき小便我慢してりゃこんな騒ぎスルー出来てたんだぞッ!?!?!?死ねよ!!死ねカス死ね!!!!」
「ごめんなさい!!ごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃッ!!」
新しい父親の怒声を聞いたアラヤーは反射的にひたすら謝った。しかし、新しい父親は全く勢いを止めようとしなかった。
「もぉぉぉぉ限ッ界ッだ!!こんな自動小便製造機連れて歩いてたからこんな目に遭った!!ずっと、全ッ部ッ、テメエが役立たずなせいだ!!」
「ちょ、あなたなにし―――待ってッッッ!?!?!?」
ぶちぶちと髪が千切れる激痛がしたかと思えば、次の瞬間、アラヤーは穴の中へ投げ捨てられた。
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
極彩色の気持ち悪い空間を、上も下も分からないが、落ちていく。
外の世界は容赦なく遠退いて、母の悲鳴と、新しい父親の嗤い声が聞こえていた。
いままでで一番、愉しそうな声だった。
落ちていく。
落ちていく。
落ちていく。
光が消え。
痛みが消え。
次に消えるのは―――。
(あ。わたし、しぬんだ)
●
ずっと落ちていたはずなのに、草の上だった。
青空。どこまでも続く青い空。光。
風。爽やかに暖かく、ザァ、と。音。
ズキリ。頭皮が叫ぶ。痛み。
体を起こす。手も、足も、ちゃんとあった。
「・・・・・・ここ、どこ?」




