episode8 sect9 ”行間①”
タイ王国の片隅にある地方都市に、アラヤー・マフバンという少女がいた。彼女の家は、半分は田舎同然のその地域の中で見れば、なかなかに裕福な家だった。もっとも、まだ4歳のアラヤーには、自分の家がお金持ちだなんて分かってはいなかっただろう。
まだ学校に通う年齢ではないアラヤーは、朝は母に優しく起こされて、両親と一緒に朝食を摂る。そして、仕事へ出掛ける両親にそれぞれキスをして、行ってらっしゃいと見送る。ここまでがアラヤーの日課のようなものだ。
アラヤーの両親は共働きだった。タイでは珍しいことでもない。ただ、父も母もそこそこ大きな会社に勤めていた点では少し特別だっただろう。裕福なのはそのおかげだ。
「レック、おいで!」
両親が仕事に行った後は、飼い犬のレックと庭で遊んだ。レックはアラヤーが呼べば、どこにいても必ずあっという間に駆け付けた。
「レック、いくよ~!」
レックはアラヤーが生まれる前からこの家にいたので、アラヤーのことは世話の焼ける妹のようなものと思っているのだろう。アラヤーの投げた無茶苦茶なフリスピーでも、甲斐甲斐しく咥えて戻って来てくれた。
「よーし、えらいぞレック~♪つぎはとれる!?」
「ワン」
アラヤーは、ウルトラセブンのアイスラッガーよろしくフリスピーを放ったが、そんな投げ方でちゃんと飛ぶはずもなく、レックは地面に叩きつけられた憐れなフリスピーを拾ってアラヤーに返してやった。
「む、なによそのかおは。いーもん。じゃあプールであそぶもん」
アラヤーの家にはプールまである。もっとも、自宅にプールがあることがタイではそれほど特別でもないようだが、本当だろうか。
庭ですっぽんぽんになって、プールの脇に置いてある水着に着替えたら、準備運動なんて当然スルーで思い切りザブン。
「つめたーい!レックもおいで!」
呼びつけたレックにしがみついて、アラヤーは楽チンでプールを端から端まで行ったり来たり。初めは良さそうでも、次第にレックの表情が面倒臭そうになってきた。
アラヤーも途中で飽きて、水に沈めたおもちゃを拾う宝探しゲームを始めた。まだ幼いが、アラヤーは水の中では人魚のように器用に動き回ることが出来た。もっと小さい頃からプールで遊び、水に親しんできた賜物だろう。アラヤーがゴムボールを2、3個拾ったあたりでレックも遊びに混ざってきて、白熱して疲れ果てたアラヤーはプールの縁で横になった。
「おなかへったなー」
すると、頃合いを見計らったかのようにお手伝いさんがフルーツを切ってプールまで運んできてくれる。日向の芝生の上に座って、瑞々しい果実で腹を満たしたアラヤーはいそいそと家の中に戻る。遊んで、食べたら、お昼寝だ。
ぐっすり眠って目を覚ますと、窓の外は決まって燃えるような夕焼けだ。起き出したアラヤーはこの時間、同じく決まってテレビを見る。見る番組も毎日同じだが、実はそれほど気に入って見ているわけでもない。
ほどなくして、まずは父親が帰ってくる。自分の部屋よりも、テレビのある居間の方が玄関の音がよく聞こえるのだ。アラヤーはテレビそっちのけで玄関まで走り、帰って来たばかりの父に飛びついた。
「おかえり、おとうさん!」
「おっと。ただいま”グレイ”。良い子にしてたかい?」
「うん!」
父からただいまのキスをしてもらったら、アラヤーはまず寝室から気分で選んだ絵本を持って居間に戻る。父に読み聞かせてもらうためだ。
ちなみに、”グレイ”はアラヤーのニックネームだ。生まれたばかりのアラヤーを見た両親がその場の印象で付けただけで、大した意味はない。アラヤーの場合は姓も名も大して長くも難しくもないのだが、ニックネームは国の文化のようなものだそうだ。
さて、そんなどうでも良い話をしている間に、部屋着に着替えた父もリビングに戻ってきた。ソファに腰掛けた父が自分の膝をポンポン叩くと、アラヤーは猫のようにそこへ跳び乗って、父の胸に背中を預けた。
「またこの本かい?」
「おとうさんがよむと、このほんがいちばんおもしろいのよ!」
「そうかい。じゃあ今日も張り切って読んじゃおうかな」
父の声は低くて渋い。アラヤーにとって、父の声より絵本の物語に深みを与えて、想像の世界へ引き込んでくれるものはなかった。
父と娘があたたかなひとときを過ごしていると、ちょうど物語が終わる頃に母も帰って来た。
「ただいまグレイ、あなた。あら、またその本を読んでもらっていたのね」
「おかあさん、おとうさんとおんなじこといってる!」
半日ぶりに家の中で家族3人の楽しそうな笑い声が響くと、それを合図にお手伝いさんが夕飯の支度が終わったことを告げに来る。お手伝いさんより先に良い匂いは3人のところへ伝わっていた。お手伝いさんの彼女は料理の腕ならピカイチだ。いつだって家族みんなの舌を喜ばせてくれる。この家にはもうレックと同じくらいいるのに、まだまだ飽きさせてくれる気はないらしい。
一家団欒、囲む食卓は華やかで、共働きの父母は毎日たくさんの話を持ち帰ってはアラヤーに面白可笑しく語り聞かせた。ちょっぴり小難しい話をしてもアラヤーは食いついて聞いてくれるから、彼らも気持ちよくしゃべれたことだろう。
「さあグレイ。今日も楽しかったわね。明日もきっと良い日だわ」
「おかあさん、ねるまえにほんよんで」
「いいわよ、さっきと同じ本?」
「ううん、こっちのほん!あのほんはおとうさんだからおもしろいのよ。で、おかあさんはこっちのほうがじょうずなの」
「グレイったら、読み聞かせのソムリエさんね。きっと耳が良いんだわ」
毎日、父と母に一冊ずつの本を読んでもらって、ようやくアラヤーの一日は終わるのだ。
○
ある休みの日、父が血を吐いて死んでいた。
アラヤーが母と街へ買い物に出掛けている間の出来事だった。
家の中は酷く荒らされていた。金目のものは根こそぎ奪い去られた後で、残ったものは父の遺体だけ。その父の体は刃物でメッタ刺しにされていた。惨い有様だった。庭に出ると、犬のレックも同じような死に方をしていた。
父親の遺体にも犬の遺体にも不自然な点はあったが、結局この事件は取り立てて騒ぐほどのことはない、数ある強盗殺人のうちのひとつとして処理された。
―――真相は、家事手伝いをしていた女が食事に混ぜた毒で弱らせた主人とそのペットを敢えて刺し殺し、部屋を荒らして強盗殺人事件に偽装していたわけだが、知ったところで詮無い話だ。
こうして、誰も気にも留めないちっぽけな悲劇をきっかけに、アラヤー・マフバンの人生は大きな変化を迎えることとなった。
episode8 『Andromedas' elegies』
主要登場人物(更新版)
神代迅雷:魔法科専門高校・マンティオ学園に通う少年。ランク2の魔法士になったものの、度重なる怪我で後遺症を抱えている。千影に民連の交流式典から抱えていた苦しみを打ち明け、彼女の言葉に救われたことで、もう一度歩き出す覚悟を決めた。
千影:IAMOに所属する、オドノイドの少女。現在は神代家に居候中。超高速移動の特殊能力を持つランク4魔法士でもある。迅雷とは晴れて恋仲になった。
天田雪姫:迅雷のクラスメートであり、今夏、飛び級でランク3魔法士にもなった天才少女。非常にドライな振る舞いが目立つが、反面人が死ぬことを極度に嫌い、人を助けるために危険も顧みず戦うこともある。
天田夏姫:雪姫の妹。まだ小3だが、危なっかしい姉を心配している。
神代疾風:迅雷の父親にして、世界に3人しかいないランク7魔法士の1人。
川内兼平:IAMOに所属するランク5の魔法士。『二個持ち』の優秀な若手だが、まだまだ未熟。
アラヤー・マフバン:幼少時に強盗殺人事件で父親を失ってしまった少女。ニックネームは”グレイ”。