episode8 sect8 ”かんたんなお願い”
迅雷の通院に付き添ってくれた疾風と千影は、大して心配もしてくれていないのか、診察時間を病院内のレストランでまったりくつろいで潰していた。
「あ、ほっひーほはへひー」
「何語だよ」
病院内で提供するものとは思えないほどてんこもりのパフェを半分平らげた千影が、口の中をゴロゴロサイズのバナナで満たしながら手を振って座席を教えてくれた。
「とっしーおかえり」
「検査結果はどうだ?」
迅雷は、千影の隣の席に座って、千影のパフェを一口横取りしてから検査結果の書類を机に出した。広げられた紙面の内容はほとんど一般人が見て「フム、なるほど」と理解出来るようなものではなかったが、そこは重要ではない。
「ひとまず肝臓の方はもう問題なさそうだって」
8月の『一央市迎撃戦』で、アルエル・メトゥと戦った際に負った傷の話だ。あの戦闘で迅雷の肝臓は大きく損傷し、その後さらに千影が医療魔法で出鱈目に修復してしまった結果、ちゃんとした治療を受ける際に半分ほどを切除するに至っていた。
だが、肝臓は一応、自然回復する臓器だ。今日の検査でその回復の具合も十分だと判断された。
それを知らされ、まず一番ホッとしたのは千影だった。さっき振り返った通り、迅雷が肝臓を半分失う羽目になった原因には千影の浅はかな行動も関係していたため、彼女もそれなりに責任を感じていたのだ。
「良かったぁ・・・。ホントに治るんだね、内臓って治らなそうなイメージなのに。はあ・・・良かった」
「千影がそんな気にすることじゃねえって先生も言ってたろ」
「にしても治るのだいぶ速かったな。あと2ヶ月はかかると思ってたんだが」
検査結果とにらめっこする疾風は不思議そうにそう言った。実際、一般的に正常な肝臓が半分切除してから元に戻るまでにかかる期間は3ヶ月前後と言われている。しかし、迅雷のケースではまだその半分程度の期間しか経っていない。
「先生は、魔力量が多いと傷の治りが早くなる傾向があるって説明してたけど。特にこういう重要な臓器とかなんかね」
「へぇ、知らなかったな」
「つって俺並みの魔力量だとどうなるのかまでは分からないとも言ってたけど。現状特に異常はないからラッキーと思っとけってさ」
他の検査結果も良好だ。おまけにジャルダ戦で失った右耳の耳介を補う義体も、前よりさらに人肌っぽい質感のものを用意してもらえた。
千影がパフェの残りを片付けるまで迅雷もティーブレイクをして、3人は疾風の運転する車で帰路に就いた。
車の中での会話は、しばらくは迅雷と千影の特訓の話が続いた。
ダンス特訓については、初めて10倍速オクラホマ・ミキサーを経験してから1週間で4倍速までなら踊れるようになった。これは家の庭で練習をしていたので疾風もある程度知っていた。5倍速が踊れるようになったら、疾風は次のアドバイスをするつもりのようだ。
それから、個人課題の進捗についてだ。
迅雷の魔力コントロールに対する意識改善は順調だ。自身の魔力量にもある程度慣れてきたからだろう。
一方で、千影はあまり進展がない。
まだ触れていなかったが、疾風が千影に課したのは、小細工を弄する戦い方の実践だ。
千影は容易に超音速移動を実現するため、今まで、わざわざ接近戦で駆け引きを意識する必要がなかった。基本的に誰も千影の攻撃を防いだり躱したりすることが出来なかったからだ。
しかし、千影と付き合いの長い人間や、そうでなくともアルエル・メトゥのような強豪が相手になると、千影の速さは通じなかった。厳密に言うと、速さでは圧倒していても動きを見切られてしまったのだ。これから先、もっと高みを目指すにあたって千影が最も磨くべきは、複雑で緩急のある立ち回りだ。
だが、千影にとってその方針転換は容易ではなかった。元々魔力制御の努力をしてきた経験のある迅雷と違って、千影はこれまで全く考える必要のなかった技術を習得せねばならない。しかも、千影は既にIAMOの中でも特にハードな現場で何年も戦い続け、自分のスタイルを確立している。言ってしまえば齢11歳にして既に熟練者なのだ。その成長速度は大人と同じレベルまで落ちてしまっていると思っても良いかもしれない。
「千影がその機動力で相手を翻弄し、もぎ取ったチャンスで迅雷が最大火力を叩き込む。こいつが理想だ。そのためには、千影は敵に動きを先読みされちゃダメなんだぞ」
「分かってるもん・・・ボクだっていろいろ試してるし。はやチンが対応力高すぎるだけだもん」
「へへーん、悔しかったら俺から一本取ってみろ~。この程度で文句垂れてたらなぁ、今度ギルバートに目をつけられたときが最後だぞ」
いちいち仮想敵が強すぎて目眩がする。でも、あながちあり得なくもなさそうな展開に思えて、千影は言い返す言葉がない。迅雷が頑張っているのだから、千影が泣き言ばかり並べているわけにはいかないのだ。千影が歯噛みをしたあたりでこの話は一段落し、そこで迅雷が別の話を切り出した。
「そういえばさ、父さん。こないだ話した迷子の女の子いるじゃん」
「おう」
「実は今日もその子と会って話をしたんだけどさぁ―――」
今日の夏姫の話が、迅雷にはあまりにも衝撃的で、全く頭から離れずにいた。
●
「お父さんもお母さんもいませんよ?」
事も無げに。
あっけらかんと返されたその言葉に、迅雷の思考は一瞬で凍り付いた。
「あ、あれ?迅雷くん、どうしたんですか?・・・・・・あっ。もしかしてこのこと知らなかったんですか?・・・そっか、あたしそういえば言ってませんでしたもんね。うち、あたしとお姉ちゃんの2人暮らしなんですよ」
直前のやり取りで迅雷の喉元まで出かかっていた「どんだけお姉ちゃんっ子なんだよ」というからかい文句は、勢いを失って腹の底まで沈んで消えた。何事も姉に頼り、なんでも出来る優秀な姉を自分のことのように自慢する夏姫に対して今まで何度となく口にしてきたそれは、言ってはならない冗談だった。
天田夏姫は、姉以外に家族がいなかったから、お姉ちゃんっ子だったのだ。
この幼さで両親がいないということの意味は想像を絶している。迅雷もつい最近、父親を失いかけた。結果的に疾風は無事に帰ってきてくれたが、それ以前の恐怖や不安の記憶はまだ迅雷の中で鮮明な記憶だ。迅雷はもう高校生だが、それでも、ご飯もお金も、なんでも支えてくれる親のいる生活の終焉など考えただけで言い知れぬ絶望感に襲われるものだ。
「夏姫ちゃん・・・ごめん。本当にごめん。俺、考えなしにすごい酷いこと言ってた」
「そんな、別に謝んなくて良いですよ!?あたし全然大丈夫ですから!」
「でも―――」
「あたしの両親はIAMOの魔法士だったらしいんですけど、『血涙の十月』のときに死んじゃったそうです。でもそのとき、あたしはまだ4歳だったから、今となっては全然親のことなんて覚えてないくらいですし、だからそんなに悲しくはないんですよ」
「それはさ・・・それはそれで、やっぱり悲しいよ」
「もう、なんで迅雷くんがちょっと泣きそうなんですか」
夏姫は笑っている。気に病んでいる迅雷を気遣っているのもあるだろうが、それ以前に、迅雷の情けない表情を見て、つい笑いが込み上げてきただけのようにも見える。
この子は、親のいる暮らしも親の愛情も、そしてなにより親を失った悲しみさえも知らぬままに、ただそんな当たり前のものを失っていたのだ。こんなに悲しいことがあるだろうか。
だが、そうだ。夏姫はそうだとして、では姉である雪姫はどうだっただろう。『血涙の十月』当時、迅雷や雪姫は小学5年生だった。一度に両親を失い、まだ4歳の幼い妹と2人であの地獄に置き去りにされた彼女は、一体どんな道を辿ってきたのだろう。
誰よりも強く、聡明で、凜々しくて、だけど酷く冷淡な天田雪姫という人間の見え方が、少し角度を変え始めていた。
「なあ。親戚の人とか、助けてくれたんだよね?」
「さあ、分かりません。お姉ちゃんは、ウチに親戚なんていないとか言ってましたけど」
「・・・・・・・・・冗談だろ・・・」
「で、でもあたしにはお姉ちゃんがいてくれたから全然寂しくもないし、ずっと幸せですよ!学校の友達だっていっぱいいますし、お姉ちゃんが買ってくれたゲームもありますし!」
「夏姫ちゃん」
「は、はい・・・」
次第になにか悪いことをしてしまった後のように焦り始めた夏姫の手を、迅雷はそっと握った。そうじゃないんだ、と囁くように漏らす。本当は抱き締めてあげたいくらいだったが、やめた。迅雷はこんなに辛い気持ちなのに、夏姫は本心から自分の境遇を憂いていないようだから。今を幸せに感じているのは素晴らしいことなのだ。きっと雪姫が、夏姫がそういう風に生きていられるくらい頑張ってきたのだろう。
大切なのは当人の認識だ。迅雷がどう思おうが、小さな子供に君は不幸なんだと言い出すのは傲慢甚だしい間違いだ。迅雷が感じるこのモヤモヤは、ただのお節介な同情だ。同情するなら金をくれ、なんていうドラマの名言もある。他人が他人の過去に同情して、同情するだけで済ませてしまうなら、そんな情動など無い方が互いに幸せだ。
―――千影にもらった言葉を思い返す。同じ言葉でなくて良い。迅雷はただ、ここで思うだけ思って、言うだけ言って立ち去るような人間にだけはなりたくなかった。
「夏姫ちゃん、また今度、遊ぼうか。次こそ好きなもん食べさせてあげるよ」
「まだ餌付け攻略チャート続ける気です?」
「あ、バレた?ま、他にもお姉ちゃんに頼みづらいことあったらボチボチ手伝ってあげるから」
「ボチボチってなんですか。でもまぁ、ありがとうございます。じゃあさっそくなんですけど、算数の宿題あたしの代わりにやってください」
「夏姫ちゃんのためにならないことはしません」
○
夏姫の家までの帰り道でのことだった。
「迅雷くん」
ボクドナルドを出る頃から、なにかを言いかけては俯いてを繰り返してモジモジしていた夏姫は、20分くらい悩みに悩んだ末に、急に改まった態度で一歩前を歩く迅雷を呼び止めた。
「どうしたの?」
「さっきの話の続き・・・なんですけど。その、実はひとつ、迅雷くんにお願いしたいことあるんです。お姉ちゃんには頼みづらいお願いで」
夏姫の顔を見て、迅雷は茶化すのはやめた。夏姫は話し始めた後もまだなにか迷っているらしい。「あー」と気まずそうに声を伸ばしては思い直したように口をキュッと引き結んで、視線を右足と左足の爪先で彷徨わせる。迅雷は夏姫の次の言葉をじっくりと待ち続けた。
そうして30秒ほど道の真ん中で向かい合い、夏姫は再び迅雷の目を見た。それで決心がついたらしい。
「迅雷くん。お姉ちゃんを助けてください」
夏姫のお願いは迅雷にとって思わぬものだった。
なにか危ないことにでも巻き込まれているということだろうか、と問えば、夏姫は首を横に振った。
「そういうことじゃないんです。お姉ちゃんはすごいからピンチなんて一人でもきっとなんとかしちゃうと思います」
「うん」
「その・・・お父さんとお母さんのことなんですけど。あたしは気にしてないって言ったんですけど、お姉ちゃんは・・・すごく責任を感じてるんです」
「責任?どうして?」
「ど、どうしてって言われても・・・。お姉ちゃん、理由はちゃんと話してくれなくて。ただうちにお父さんとお母さんがいないのは自分のせいだって言ってたことがあったんです」
この世で一番雪姫と親しいであろう夏姫にすら分からない雪姫の事情を、迅雷が知る由もない。ただ”責任”という言葉の響きで、迅雷の掌には汗が溜まり始めていた。
「お姉ちゃん、ずっとそのことを気にして自分のこと責め続けてきたんだと思うんです。いっつも危ないことばっかりするのも、ケガしても辛い顔しないのも、誰とも仲良くなろうとしないのも、きっと、強くなって全部、全部お姉ちゃんひとりで背負い込もうとしてるんじゃないかなって・・・あたし思うんです。あたし、お姉ちゃんがなんでそんなに自分を責めなくちゃいけないのか分かんないですけどっ、あたし、お姉ちゃんの妹なのに、なんにも助けてあげられなくてっ!」
話す内に感情が昂ぶってきて、夏姫に目には涙まで浮かび始めた。往来の真ん中であることも忘れ、唇を噛んで嗚咽をこらえ、鼻をすすって。ハンカチなんて持ち歩かない迅雷は、それでもせめて、夏姫の背をさすってやった。
夏姫も夏姫でずっと考え続けてきたのだろう。自分と同い年の友達には相談出来なかったのだろう。十にも満たないらしい子供の語る悔しさとは思えなかった。
「この前、夏姫ちゃんを家に送ったときさ。天田さん、俺のことすごい警戒してたよね。毎日学校で顔合わせてるし、ライセンサー講習のときだってなんだかんだ一緒の班でさ、ダンジョン探索したり一緒にご飯食べたことだってあったんだけど、そんなの関係ねーよってくらいに。正直俺の信用なさすぎてビックリした。でもそれってつまりさ、そんくらい夏姫ちゃんのこと大事に思ってるってことなんじゃないかな?俺だってまだまだ天田さんのこと全然分かんないけど、それでも夏姫ちゃんがなんにも助けてあげられてないなんてこと、俺はないと思う。家に帰ったら夏姫ちゃんがおなか空かせて待ってるって思うだけで、きっと天田さんも家に帰るのが楽しみになるんじゃないのかな」
「っ、ぐすっ。えへへ・・・そうなんですかね。でも、確かに、お姉ちゃんってあたしには笑ってくれます」
「ほら。ね?」
少し落ち着いてきて、夏姫は改めて迅雷にひとつの簡単なお願いをした。
そう、簡単なお願いだ。
言うだけならば。
「迅雷くん。お姉ちゃんと友達になってあげてください!」
●
そのとき握った汗の温度は、まだなんとなく肌に滲んでいる。血の気が引いたように冷たかった。雪姫のことが分からない故に、彼女の背景を想像し、自分と重ねると悪寒が走るのだ。初めて彼女のギラギラしているのに虚ろな目を見て引き込まれたときの感覚に色が付くようだ。
迅雷には夏姫の願いを叶えてやれるビジョンが浮かばない。雪姫の笑顔さえ見たことのない迅雷に、夏姫が変えられない雪姫の心を動かす力があるとは到底思えない。
でも、思い返せば、迅雷の心を揺すぶった千影も元々は他人だった。土足でズケズケと人の心に踏み込んで思ったことを思ったように言う不躾な他人だった。ならば、もしかすれば迅雷にも、雪姫にとっての千影となれる可能性があるのかもしれない。
夏姫がそこまで考えてあの願い事をしたとは思わない。あの子はただ必死で、やっとその心の内を姉以外の誰かに打ち明けることが出来ただけなのだ。だから、これは迅雷自身の内に芽生えた動機だ。迅雷も、雪姫の笑っているところが見てみたい。
―――回想を終える。
ハンドルを握る疾風は、バックミラー越しに迅雷の表情を見ていた。
「なあ、父さんって2人の両親のこと知ってた?魔法士だったって話だけど」
「ああ、知ってるよ。天田晴之さんと、彗華さん。2人とも氷魔法のスペシャリストで、実力もあったって聞いてる。父さんは結局一緒に仕事する機会がなかったけど。それから、すごく子供思いで優しい夫婦だったなぁ」
「話したこともあるってこと?」
「あるさ。だって迅雷と雪姫ちゃん、幼稚園一緒だったんだから。俺も天田さんトコもお互い忙しかったからしょっちゅうって程じゃなかったけど、お迎えで一緒になったときなんかはよく話したもんだ」
「・・・え、待ってそれマジ?同じ幼稚園って」
「なんだ、憶えてなかったのか。結構仲良かったのに」
「ええええ!?」
衝撃の事実。迅雷、雪姫と幼馴染みだった。
「な、なんつー燃えるシチュエーションッ!!これは帰ったら卒園アルバム掘り出してチェックしなくては!!」
「ねぇとっしーさんや」
「なんだい千影さんや」
「さっきから他の女の話ばっかりして!この浮気者ぉ!!」
「そういう話じゃないじゃん!」
「じゃあとっしーはあの子に好きです付き合ってくださいとか言われたら
「反射で『はい』って言うかも」
どうす・・・」
千影は全力で迅雷の脛を蹴った。激痛で飛び上がった迅雷が車の天井にぶつかって、車体までガタンと揺れる。
「・・・お前ら、車ひっくり返るから暴れんなよ・・・」
○
『うっひょー!!ショタとっしーかっわ♡』
『わあ、なつかしー!千影ちゃんそれしのにも見せて~』
『うわはぁあ~、お兄ちゃんちっちゃ!可愛い!弟にして全力で甘やかしたい!』
本棚から掘り起こした迅雷の幼稚園の卒園アルバムは、小学校、中学校の卒業アルバムもろとも千影に持ち去られ、直華の部屋で鑑賞会が開かれている。キャーキャーと盛り上がる女子3人の会話が悉く羞恥心にクリティカルヒットするので、迅雷はイヤホンを着けてベッドに転がった。
独りの時間、静かに思考を巡らせる。
卒園アルバムの中に天田雪姫は、陽光を反射する銀世界のように明るく笑っていた。