episode7 Last section58
「慈音さん、どうぞ」
「あ。ありがとう、なおちゃん」
慈音は、直華が注いで持ってきてくれたアイスコーヒーのグラスに口を付けた。ガムシロップでちょっぴり甘めの味に、少しだけホッとする。
迅雷は、さっき家に帰ってきたかと思えば、風呂にも入らずに「ちょっと寝る」とだけ言って自室に籠もってしまった。そのときの迅雷は笑っていたけれど、あんなのは慈音からすれば疲れ切っているようにしか見えなかった。・・・だけど、迅雷はなにも話してはくれなかったし、慈音もなにも言えなかった。
迅雷は寝てしまったが、一緒に帰ってきた千影は、慈音の向かいに座ってテレビを見ている。慈音は今くらいは気を紛らわせたら良いのにと思ったのだが、千影がつけているのはニュース番組だ。だからといって、そこまで真剣に見ている風でもない。きっとまだ落ち着かず、迷っているのだろう。本当は千影だって、やっとこの場所に帰って来られて心を休ませたいと思っているのに、どうしてもチャンネルを切り替えることに躊躇いがあるのだ。
「千影ちゃんは良いの?」
「うん・・・。とっしー、今は一人の方が良いかなって思って」
「じゃあ、今日はしのと一緒にお風呂入ろっか!お疲れさま~って感じでお背中をお流ししてあげるよ」
「うん。じゃ、ナオも一緒にね」
○
さすがに3人で入る風呂は少し手狭だ。椅子も2つしかないので、3人の中では一番身長の高い慈音が最後列で膝立ちすることに。
「な、なんかすみません慈音さんだけ」
「いいよいいよ、なんかむしろお姉ちゃんポジションって感じがするよ!」
兄弟がいない慈音は、案外そういうのに憧れていたのだろうか。ちょっと目をキラキラさせている。
「ボクら3人、血は繋がらずとも固い絆で結ばれた運命の三姉妹。いざ契りの盃をば!」
一方、天涯孤独の身でありながらも荘楽組出身の千影にとって、義兄弟の概念は割と身近だ。任侠モノの時代劇みたいな単語の羅列に置いていかれた長女と次女が目を点にしている。
さて、背中の流し合いっこをしながら、慈音は鏡を見てちょっと眉を寄せた。
「どしたの、しーちゃん?」
「いや、うーん・・・・・・なんか」
首を傾げる千影をはぐらかし、そっと慈音は自分の胸に手を当てた。発育の良い直華と比べるのは空しくなるので早々に諦めたのだが、ここにきて少し不穏な流れが出てきたかもしれない。
「イヤ、ナンデモナイデス」
ホントダヨ。
・・・まぁ、それは置いといて、だ。
「そういえば、お兄ちゃんと千影ちゃんがネコミミメイドさんともふりあいっこしてるの見たよ。羨ましいなあ、私もしっぽとか触りたくなっちゃった」
「あー、こっちでも放送されたんだっけ?マオにゃんって言うんだよ、あのメイドさん。・・・いやあ、マオにゃんは最高だったよ。動物のモフモフにスベスベのお肌で、スリスリするだけで超気持ちよかったもん」
「しのはねー、メイドさんも良かったけど、やっぱり首相さんが一番モフモフしたかったなー」
「おぉっと、しーちゃんまさかの親父趣味」
「なんでそうなっちゃうの!?」
3人は千影の土産話で盛り上がりながら、あと、ちょっとばかりのセクハラ合戦で悲鳴を上げながら体を洗い終え、湯船に浸かった。こっちも当然3人で入るには狭いので、3人体育座りで横並びだ。ともあれ、千影もようやく、ホッと一息。
「帰って来れたんだ、この家に」
「うん。お帰りなさい、千影ちゃん」
直華が、そっと千影にもたれかかった。
「大変、だったよね」
「まぁ、ね。でもボクは大丈夫だよ。むしろ、ナオの方が心配なくらい」
「お父さんのこと?」
「うん」
沈黙は1分ほど続いた。
この家の大黒柱が家に帰って来られないのは、いつものことだ。神代疾風は世界で一番忙しい魔法士だから。
でも、帰って来ないのは、初めてのことだ。神代疾風は、世界で一番頼れる魔法士だから。
疾風がどんな大変な仕事に出掛けていてもちっとも心配する素振りを見せなかった母が、半日、物置部屋に籠もって鍵をした。直華はその扉の奥から、生まれてから一度も聞いたことのない、母の押し殺すような嗚咽を聞いた。
千影は、そんな出来事があったことまでは知らない。でも、真名の口数が少なくなっていることには気付いていた。この家に来て半年も経たない千影にも分かったなら、娘である直華は、どうだったろう。生みの親の顔も知らない千影だって、今なら確信を持って言える。親の不安は、子供に重くのしかかるはずだ。
「ねぇ、千影ちゃん。教えて。あっちで、どんなことがあったの・・・?お父さん、どうしてた?・・・話したくないことは、話してくれなくても良いけど、私、せめて、知りたいの」
「はやチンは、たくさんの人を助けてたはずだよ。それで、最後はボクやルーニャ・・・ルニア姫も助けてくれた。・・・いろいろいっぱいあったから、すごく長くなるよ」
3人は、温泉宿に行ってもしないような長湯をした。でも、不思議とそれほどのぼせなかった。千影の海馬に刻まれたバッドエンドのストーリーだけが、浴室にいつまでも木霊していた。
●
ずい、と慈音は布団の中で体をよじって、枕元の時計を確かめた。3時10分。もちろん真夜中の方の3時だ。これまたもちろんだが、こんな時刻にアラームを設定していたわけでもない。隣の布団では、母親の晴香が静かに寝息を立てている。さらにその隣では、父の雄造も。起きているのは慈音だけだ。
「うむむ・・・全然眠れないよぅ」
千影からあんな話を聞いてしまっては、寝ようにも寝付けない。聞かない方が良かったなどとは少しも思っていないが、聞いて良い気分にはなれようはずもなかった。
それに、風呂での話は直華が疾風や迅雷、そして千影自身が一体どんな経験をして、どんな思いを抱えているのかを知ろうとして訊いたものだ。慈音が水を差せるものじゃなかったし、第一に、慈音だって直華の想いや覚悟は理解出来た。
もう布団に入ってから5回は手に取った目覚まし時計を元の場所に戻して、慈音はまた天井を見上げる。気になる天井。正しくはその向こう。
「としくん・・・」
彼があの夜、なんのために、どんな敵と戦ったのかも、千影の口からつぶさに伝えられた。でも、千影はその話についてはほとんど迅雷本人から聞いたわけではないらしかった。曰く、迅雷を助けてくれた友人の方が細かく状況を教えてくれたのだとか。
今の迅雷の心中を想うと、慈音まで辛くなる。本当に、辛くなる。動悸が激しくなって、しまいには心臓が痛くなりそうだ。天井が見える限り、今夜の慈音は眠れそうにない。
(明日だって学校あるのに~。寝なきゃ、寝なきゃ・・・)
寝返りを打ってなんとか気分を落ち着かせようとするが、そういう行為は大抵の場合逆効果だ。無理に瞑った瞼が苦しくなって、結局また目覚まし時計のライトを点けてしまう。3時40分。明日は目の下の隈が確定だろう。
もういっそ起きて、ジョギングでもして、帰ってきたら朝ご飯を作ってみんなを起こして、早朝の静かな通学路を久々に迅雷と2人で歩いて、いつもは慈音より先に学校に来ている友達をビックリさせてやろうか。・・・なんてね。
これだけ起き続けていたので、さすがにおしっこがしたくなってきた。トイレに行けば少しは気分も落ち着くものだろうと決め込んで、慈音は布団から起き出した。
東雲家が借りている寝室は和室で、隣がリビング。寝ている家主と家族を起こさぬよう、慈音は忍び足で襖を開けてフローリングへ踏み出した。もっとも、踏んで軋むほど古いフローリングでもなかったが、気遣いの範疇だ。それで、トイレはさらにリビングを抜けた廊下の左の奥。リビングのドアは迅雷が小さい頃から雑に開け閉めし続けたせいでガタついているので、そっと開けるべし。
2階への階段の前を過ぎて、玄関とは反対側の暗がりへ。慣れた間取りなので、夜でも電気は点けなくても大丈・・・。
(・・・んん?)
気のせいだろうか、今、廊下の突き当たりになんかいたような。
睡眠不足で幻でも見たかと思って慈音は目を擦り、もう一度廊下の突き当たりに目をやって、
「ひぃっ!?やっぱなんかいるーっ!?」
「なにゃとォ!?なになにだれオバケ!?」
慈音が悲鳴を上げたら、なぜかオバケの方もオバケにビックリしてドタドタと転がった。慌てて照明のスイッチに飛びつく慈音。
暖色灯に照らし出されたのは、尻餅をついたまま謎のファイティングポーズで構えた千影だった。疾風の亡霊でした、なんて展開じゃなくて本当に良かった。
「・・・って、しーちゃんかあ。ビックリしたんだけど、もー」
「それはしののセリフだよ~。てゆうか、え?こんな時間にそんなところでどうしたの?」
「あーっと、えっと、うん・・・」
千影はどうにも歯切れが悪い。転んだ格好から、千影は膝を畳んで抱え込み、ぴたりと合わせた両膝の間に顔を埋めた。
「としくんとなにかあったの?」
「ううん。そうじゃなくて。たださ、まだちょっと、居辛くて、ここにいる感じ」
「ふぅん・・・そっか」
慈音はそう返して、トイレのドアノブを握って・・・でも、やっぱり手を止めた。
そっか、ではない―――はずだ、と思った。そんなに自信とか確信があってのことではないけれど、千影の言葉が慈音の心に引っ掛かって、耐え難くもどかしいのだ。
「しーちゃん?トイレでしょ?行かないの?」
「うん、あとでいいかなって」
「・・・え、え?なになに?」
千影が驚いたのは、急に目の前でしゃがんだ慈音に肩を掴まれたからだ。じっと目を見つめられて千影がたじろいでいても、慈音の表情は真剣なまま変わらない。だんだんそれが伝わってきて、千影は押し黙った。
「千影ちゃん。今からでも、としくんのところに戻ってあげて」
「・・・出来ないよ。とっしー、一人にして欲しいって言ってたんだもん」
「それでも、戻ってあげて」
「・・・やだ」
「千影ちゃん」
「やだよっ!・・・ホントに、出来ないの。全然分かんないの・・・・・・」
先に怒ったのは千影だったのに、慈音を睨んだ千影の目に溜まっていたのは涙だった。
「千影ちゃんの、一緒に居辛いって思った気持ちは、分かるよ。なんて言ってあげたら良いか分かんないんだよね。なに言っても慰めてあげられない、どころか、もっと傷つけちゃうかも。・・・分かるんだよ、しのにだって」
「わ、分かんないよ!」
「分かる。しのには、としくんがどんなに辛い思いをして、そのことでどんだけ悩んでて苦しんでるかなんて、想像はしても分かったようなことは言えないし、言いたくない。だから、なんとか助けてあげたいけど、恐くて話しかけられなかったの」
「ぅ・・・・・・」
「でもね、千影ちゃん。これで良いと思う?・・・・・・しのは思わないよ。これじゃダメだよ」
「でも分かんないんだもん、分かんないんだってば!しーちゃんだって分かんないんじゃん、分かんないのに戻れるわけないじゃん!」
「じゃあしのがとしくん取っちゃうよ!!」
唖然―――だった。
あまりに唐突で、千影はまるでぶたれたような気分だった。
「え・・・?な、んでそうなるの・・・?」
「しのも、としくんにどうしてあげたら良いかは分かんないよ?でも、多分、なんとか出来ちゃうよ。だって、しのは今でもやっぱり好きだもん、としくんのこと。千影ちゃんが来るよりずっと前から好きだもん。だから、千影ちゃんがなにもしないんだったら、しのがなんとかしてあげたい」
千影の肩を掴む慈音の握力が、じわり、じわりと籠もっていく。少し痛いくらいだ。
千影がなにもしないなら、なんて言ったが、本当はそれどころじゃない。千影がどうだろうが関係なく、慈音がなんとかしてあげたいはずなのだ。
だけど、と慈音はこぼす。
「だけどね、千影ちゃん。やっぱりそれじゃダメなんだよ。しのがそうしちゃったら、意味ないよ。今、としくんが一番近くに居て欲しいのは、しのじゃない。千影ちゃん、なんだよ・・・?」
いっそ、恐ろしくなった。この、東雲慈音という少女の心の強さは―――広くて深くて、まるで巨大な穴でも覗き込んだようで、千影は本当に鳥肌が立った。
千影が常々嫉妬するほどに、迅雷のことならなんでも分かるしなんでも以心伝心だった慈音が、ハッキリとそう告げたのだ。
千影は、肩を掴む慈音の手を外して、立ち上がった。
「・・・ありがと。なんか、なんとなく、分かった」
2階へ戻っていく千影を見送って、慈音は一度だけ鼻をすすった。
「あーあ、トイレするだけだったのになぁ・・・・・・」
●
もう午前4時にもなろうかという頃に、千影は迅雷の部屋の戸を叩いた。
「とっしー、入るよ」
今まで言ったことが一度あったかも怪しい断りを入れる。
返事はない。
でも、迅雷もまだ起きていた。壁の方を向いて、少し背を丸めた格好は、千影が逃げ出した3時間前と全く変わっていない。
「ごめんね。一人にしてって言われたのに」
「・・・んん」
「ベッド、ボクも入って良い?」
「ん」
芋虫みたいな緩慢さで、迅雷は壁側に体を寄せた。いつも通りの、千影の特等席。皺の寄ったベージュのシーツを眺め、千影は動悸が速まるのを感じていた。
慈音に言われた言葉を反芻する。その意味を。―――大丈夫だ。もう千影は逃げない。
迅雷が腰半ばまで掛けたタオルケットの中に、千影も一緒に潜り込む。そっと手で背中に触れて、それから、にじり寄るように、額もその背に預けた。それでもその背は千影にとって、とても暖かかった。
「とっしー」
「千影」
声が重なる。
10分の沈黙が続いた。
千影は黙って待ち続けた。家に帰って来てからようやく、迅雷が千影のことを呼んでくれたからだ。
「千影。俺、人を殺したんだ」
今更の自白だった。
でも、千影は静かな相槌だけを打った。
迅雷の言葉は、疎雨の如く、ポツリポツリと続いた。
「今も感触が戻ってくるんだ」
「夢にも見た」
「何度も何度も、寝そうになるたびにかならず」
「恐い」
「ちゃんと話をしとけば良かったんじゃないかって」
「そしたら、違ったのかなって」
「テムさんを見殺しにしたのに」
「アーニア様も、李さんも」
「なんも、残んなくて」
「ただムカつく敵を話も聞かずに殺しただけだった」
「家、帰って来て、みんなの顔見て・・・・・・そしたら、なんか、もう恐くてダメなんだ」
「こんなの、背負いきれねぇよ」
正当防衛だったかもしれない。アーニアを守って戦ってくれた迅雷に、あの国の獣人たちは結果など問わず感謝するだろう。
だが、罪は罪だ。愚かで短絡的な選択を重ね続け、迅雷の手には消えない汚れだけが残ってしまった。殺した相手からもらった言葉も、今となっては自責の念に勝ることはない。こんな自分が、家族や友人の輪の中に戻って良いのだろうか。それは命の恨みを買った人間として正しいのか。悩んで、悩んで、泥の中。
そうして言葉を紡いで、最終的に、迅雷は感覚で理解した。
かつてはすげなく突き放された問いだった。
だけど今は違う。
今こそ、それを問うべき人に問うべき時なのだ、と。
迅雷は、四半日ぶりの寝返りを打った。
紅玉の瞳には、自分の顔が映っていた。
見るに堪えない、涙が涸れ果てた泣き面だ。
「教えてよ、千影。俺は、あの日、どうすれば良かったんだ・・・?」
「とっしー」
―――違うよ、そうじゃないんだよ。
迅雷の一連の言葉は、その全てが本気で本心だと分かった。打ち明けてもらえたことの喜びはあった。でも、それ以上に、彼の心の叫びを知った瞬間に、千影の心の奥底から湧き出した想いがあった。
それをなんとかして伝えるなら、そう。
「大丈夫。ボクは、ここにいるよ」
多くを失ったのだろう。
罪を犯し、苦悩しているのだろう。
選択を間違えたと思って後悔しているのだろう。
だけど、まだここには千影がいる。
例え迅雷が逮捕されて何年何十年の懲役刑に服することになっても、千影がいつまでだって帰りを待つ。
なにがベストだったかなんて誰にも分からないけれど、こうして一緒に居られる選択が間違っていたわけない。
だから、違うんだ。
あの日どうすれば良かったか、じゃなくて。
これからどう生きるか、なんだ。
「一緒に頑張っていこう」
開いた窓から涼やかに風が舞い込んで、カーテンを揺らして夜明けの兆しを運んできた。
言葉より先に涙が出てきた。もう流し尽くしたと思っていたのに。嗚咽が漏れ出す。
迅雷は、千影を強く抱き寄せた。無性にそうしたかった。千影は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑って、迅雷の背に腕を回してくれた。小さな掌の温もりが、そっと背を撫でてくれた。
声が引きつりそうになる瞬間をぐっと我慢して、迅雷はもう一度、千影の目を見つめた。
「千影」
「なぁに?」
「愛してる」
9月16日、有無も言わせぬキスをした。
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”ここにいる”