episode7 sect57 ”夢幻泡影”
「左手の調子はどうだい?」
「まだ・・・少し痛みますけど。でも、違和感とかはもう」
「そう。他の検査結果も一応は大丈夫そうだったから、今日でここは退院だよ」
「はい、ありがとうございました・・・」
9月15日。あの夜から、10回目の朝が来た。
人間界の、太平洋の中心、IAMOノア支部に逃げ帰ってきた後、迅雷はすぐにノア内の病院に救急搬送され、怪我の治療を受けさせてもらえた。
ジャルダ・バオースとの戦いの中で斬り落とされた左手は、ほとんど元通りに治してもらえた。おでんが、切断された迅雷の左手首を拾ってくれていたらしい。
だが、元通りになったのは手くらいだ。
殴られた右目は、外傷性散瞳―――瞳の拡縮が出来なくなる後遺症を負っていた。今後は、日中の活動には補助用のコンタクトレンズが必須だという。
銃で吹っ飛ばされた右耳も、耳介、要するに耳と言われて想像する外見上の構造の再生は叶わなかった。腕の良い医師による魔法治療であれば再生出来なくもないらしいが、生憎その医師も病院に不在で、そもそも治療費が馬鹿にならないから、諦めた。代わりに、出来上がりまで時間がかかるのでまだ手元には届いていないが、今後は肋骨よろしく人工物を取り付けることになりそうだ。
それから、戦いの最後に魔力を暴走させて肉体の限界を超えた運動をしたせいで、手足の腱や骨、血管、靱帯もろもろにもダメージが残っているらしい。魔法で修復はしたが、これからは靱帯とかが思いの外簡単にブチッといくかもしれないのだとか。現在の魔法治療では組織の疲労までは取り去れないようだ。
退院の準備をしていたら、病室に迎えが来た。
「とっしー。退院、おめでと」
「・・・うん。ありがとう」
「帰ろっか、ボクらの家に」
学校の先輩である豊園萌生は一足先に帰国した。マンティオ学園の2学期の始業式は、もう4日も前のことだった。真牙や慈音、学校の友達からはSNSでたくさんのメッセージが寄せられていた。電話も掛かってきたけれど、ちょっと、出る気分にはなれなかった。笑ってしゃべって、安心させてあげられる自信がなかった。今、口を開いたら、すぐどうしようもない感情をぶちまけて、みんなを苦しめるだけだと思った。
千影と2人で日本に帰る飛行機に乗るため、空港へ向かう。行きは3人だったのに。
帰り際、空港にはナナシとベル、それから迅雷は初対面となるロゼが見送りに来ていた。千影共々、彼らから色々と励ましの言葉をもらったような気がしたが、迅雷の頭にはあんまり入ってこなかった。ただ、迅雷は3人に、おでんにも「ありがとう」と伝えておいてほしいと頼んだ。彼女の選択は今でも受け入れがたいままだけれど、彼女は死力を尽くして自分の目的を果たし、迅雷と千影を救ってくれた。もうさすがに、頭は冷えていた。
迅雷を乗せた飛行機は天へと昇っていく。だけど、雲を抜けた先に、失った人々はいなかった。この世の地獄はあっても、あの世も天国もない。
あの一夜で、迅雷はあまりにも多くのものを失った。体の怪我のことばかりじゃない。目の前で、手が届くはずの距離で、たくさんの人が殺された。テムを見殺しにしてまで守ろうとしたアーニアも。相変わらず無茶苦茶なところは苦手だったけれど、”姉”と呼んであげるのも悪くないと思えた李も。そして、よもや不可能などないと思っていた父親も。そして―――。
往路では退屈に感じた雲海だったが、今はそれすらも感じない。心の中がずっと、テレビの砂嵐みたいだ。
「とっしー」
千影が、不安そうに迅雷の服をつまんだ。迅雷は、ただただ、気のない返事をするだけだった。
●
「・・・は?」
研は、事務所―――荘楽組が首都圏に所有していたビルの一部をIAMOの下部組織になってから窓口として改装した場所―――に突然届けられた通知書に、口をポカンと開けて固まった。
「オイオイオイオイ嘘だろどうしてだなんでそうなるなにが起きたんだよオイ」
新ボスの落ち着かない声で、近くにいた用心棒係の焦と鍛も、研が持っている紙を覗き込んだ。
「英語かよ、読めやしねぇぜ」
「なんて書いてあるんだ?」
「・・・紺、帰ってねぇってよ・・・」
行方不明などと書いてはいるが、神代疾風ですら生死不明のあの状況。もはや死亡通知書が届いたも同然だった。
「ちっくしょお―――ンだよこりゃあ・・・。こっからどうすりゃ良いんだ、俺たちは・・・」
焦や鍛、荘楽組にはそこらの魔法士よりよっぽど腕っ節の良い連中は何人もいる。でも、紺が一番だ。あいつなくして、IAMOに吸収された荘楽組が荘楽組で居続けることなんて、無理だ。
それでも、研は選ばなくてはならない。ほとんど選択の余地のない決断を迫られている。本当に守るべきものはなんだ。「荘楽組」の名か、家族の生きる道か。
●
同じ人間界のギリシャで起きた事件に魔界が関与していたという報道があっても平常運転だったマンティオ学園も、今回ばかりはそういう雰囲気ではいられなかった。学内戦の熱狂という特殊な状況下でなかったせいでもあるが、それ以上に、今夏の出来事にはマンティオ学園も巻き込まれすぎた。
魔族(実際は紺だが)に生徒を一人殺害され、なにより『一央市迎撃戦』では多くの避難者を受け入れながら主戦場のひとつとなり、教員から何名もの重傷者を出してしまったし、アグナロスの業火に焼かれて遺体すら残っていない生徒もいた。そして、民連で開催される交流式典にスピーチのために送り出した生徒2人もあんな目に遭ったのだ。遠い異世界で起きた恐い事件では済ませられない現実味が、校内全体に漂っていた。
始業式では、今学期から特別魔法科のカリキュラムには新たに自衛力を養うためのより実践的な実地訓練が追加されることが発表された。いつ、どこで、なにから身を守るのか、なんて問いはナンセンスだ。
もう、なにが起こるか分かったもんじゃない。
教員らが思いつく限りの危険を、思いつくたびにカリキュラムに組み込むほかない。市内のベテラン魔法士を呼んで特別講習を行ってもらうのも良いだろう。とにかく、なによりも魔法士としての能力―――武力、サバイバル力、判断力―――は、可能な限り叩き込むしかない。窮地で最後にモノを言うのは、自分や他者を守るのは、チカラなのだ。
○
休み時間、通知音で慈音はスマホを開いた。
「としくん、今日帰ってくるって!」
「そっかぁ、とりあえず良かった良かった・・・」
慈音のスマホに届いたメッセージを覗き込んで、向日葵もホッと息を吐いた。もっとも、相変わらず迅雷の返信は簡素で、心の整理がまだついていないであろうことは、慈音には簡単に分かった。
「日本に着くのは夜になっちゃうから、今日としくんに会えるのはしのだけだね」
「おぉっと出ました、一つ屋根の下アピール。このこの~」
「も、もうっ、そんなじゃないよぉ・・・」
自宅再建の日はまだ遠く、夏休みが明けても未だ神代家に居候中の東雲家長女は、顔の前で両手をブンブン振った。本当に、それどころじゃないのだ。
「クソうらやま死に晒せェいッ!!・・・ってのはまだしばらく言ってやれそうにないわな」
「真牙くん」
真牙もまた慈音のスマホを勝手に覗き込み、小さく溜息を吐いた。
結局、いっつもこうなる。なんで毎回、迅雷が一番苦しい瞬間に、真牙はそこに居てやれないのだろう。居たらなんとかしてやれただなんて思うほど傲慢ではないが、それでも迅雷の親友としてこれほど歯痒いこともない。ただ、とりあえず今は、帰ってきた彼を迎えるために自分たちは元気でいなくてはいけない。そうやって笑って迎えてやって、真牙たちの感情を汲めない迅雷ではないはずだから。
「お昼行こうぜ。慈音ちゃん、向日葵ちゃん。友香ちゃんも待ってるから、はよ」
「・・・うんっ!」
○
一限の数学、小テストで満点が取れなかった。それがなんだと言いたい人が大半だと思うが、天田雪姫にとっては由々しき不調だ。採点した隣の席のヤツも目を疑っていた。
悪いニュース、恐いニュースが多すぎて、授業の予習復習に身が入らなくなっている。今もテレビで見た、民連が滅ぼされる様が脳裏に焼き付いて離れないでいた。
心労と残暑で食欲もあまりない。持ってきたサンドイッチで昼を軽く済ませた雪姫は、机に突っ伏してスマホでネットニュースを流し見ていた。一時は完全に停止していた魔界の情報も、数日前から少しずつ入ってくる量が事件の前の水準に戻ってきた。最終的に民連全土まで波及した戦闘―――というより蹂躙か―――が落ち着いて、周辺国家のマスメディアがようやく安心して動けるようになったということだろう。
交流式典参加者の死亡・行方不明者リストは、今日も更新はなし。
行方不明者のリストにいつまでも残っている神代疾風と小西李の名前を見ていると、どうしても気になってしまう。
あいつ、どんな辛い思いをしたんだろう。立ち直れんのかな。
―――お姉ちゃんが人のこと気にしてるの、珍しいかも。
夏姫に言われたことを思い出し、嘆息をひとつ。
(仕方ないじゃん。かぶるんだから―――)
嫌になる。
雪姫は、思い出したようにスマホの画面をスクロールした。
(『IAMOのオドノイド魔法士に救われたという男性に直撃』、ねぇ)
交流式典でのIAMOは、オドノイドの大盤振る舞いだった。レオ総長の会見に呼ばれ、オドノイドとしての姿を公開した千影を初めとして、戦闘に介入したのもオドノイドたちだった。彼らが避難する人々―――人間だけでなく獣人をも守って皇国の騎士らに立ち向かっていくシーンは、雪姫も中継で見た。それを切り抜いた動画も各種動画投稿サイトに溢れかえっている。特に第2王女ルニアと共に《飛空戦艦》相手に大立ち回りを見せた千影と、それからナナシとかいう赤髪のオドノイドのヒロイックな活躍の反響は大きかった。IAMOの選択に、人々が共感できる行動が伴ってきたということだ。
雪姫が今見つけた記事は、しかしもう少し遡って、『一央市迎撃戦』の時のエピソードを取材したものだった。
『あの時、千影は私のことも忘れないでいてくれたのです。私はもう、本当に、あの異界の森で怪獣のエサになってあっさりと終わるんだ、と諦めかけていました。でも、彼女が来てくれた。見つけてくれたのです。森の中を彷徨っていた私を。彼女のおかげで私は妻と息子の元へと帰ることが出来た。あの少女は、私たちなんかよりずっと、人間でした』
良いエピソードだとは思う。でも、だからといって雪姫はオドノイドを受け入れることには賛成しかねる立場を変えるつもりはない。だって、この一連の騒動は、元はと言えばオドノイドの存在そのものが原因なのだから。
どのみち魔族の攻撃はあったという意見がある。雪姫もそうだろうとは思う。だが、そんな危ういバランスは雪姫が生まれるよりもずっと昔から続いていたことだ。オドノイドなどという”特大のボロ”さえ居なければ、IAMOはなんとでもして今後も上手く戦争だけは回避していけたはずなのだ。
だから、オドノイドが人を一人救ったくらいで褒め讃えるのは筋違いなのだ。芸を覚えた猿でもあるまいに、それくらいやってようやく帳尻が合うって話だ。
『46番ダンジョンで食殺死体!またもや謎の人喰い怪物か!?』
これも、交流式典直後の話だ。多くのダンジョンで、IAMOの記録にもないという謎の大型モンスターと遭遇した、という報告が相次いでいる。その件数は、各日、現れたダンジョンの数を1件単位で表すとして、実にこの10日間で3件。今日で4件目だ。遭遇した延べ人数は既に数十人単位に上る。尋常なことではない。
なにより性質が悪いのは、そのモンスターというのが徹底した人肉食という点にある。他の動物には目もくれず、人間を見つけるなり闇の中から突如襲いかかってきて、大暴れするのだとか。そして、殺された人間は例外なく頭だけを喰われて、あとはその辺にポイ、だ。写真がないのでどんな風かは分からないが、とにかく奇怪な外見らしいことも相俟って、パニックホラーに出てくる悪意マシマシの化物みたいだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・は?」
ピロン、と軽い通知と共に出てきたポップアップの文面が衝撃的すぎて、ポップアップが消えるまでの数秒の沈黙の後に、雪姫は思わずマヌケな声を出してしまった。慌てて通知を遡り、ニュースのページを表示する。
「民連が事実上の消滅って・・・?」
●
議定書にサインをするときのクースィ・フーリィ首相の屈辱と後悔に塗れた表情といったら。さすがのアスモもちょっと可哀想に思ってしまったほどだ。
晴れて民連の新たなリーダーの座を得たクースィだったが、実態は首都機能を完全に喪失し、その上国内各地の主要インフラをも皇国に掌握されたビスディア民主連合の責任者、という十字架を背負わされただけだ。彼に道を選ぶ自由などなかった。
今日から発効する『ビスディア技術開発特区設置に関するサントルム議定書』の定めるところにより、ビスディア民主連合は名称を「ビスディア技術開発特区」に改め、その主権は皇国皇家に移譲された。今後、ビスディア技術開発特区内の事業や研究等は全て皇国の管理下に置かれ、国営化される。要するに、皇国はかつての民連が他国に対し誇っていた圧倒的テクノロジーを丸ごと手に入れ、かつ今後も優れた研究開発環境を使ってさらなる利益を得る算段が整ったことになる。
特区には一定の自治権が認められ、元首相のクースィはその知事という形に収まった。まさに三日天下である。だが、これでもクースィはよく粘った。10日も皇国の吹っ掛けに抵抗して、自治権の内容をそれなりに充実させたのは、間違いなく彼個人の手腕の為すところだ。伊達に謀反を企図していたわけではなかったということだろう。あるいは、アーニアの最後の言葉に後押しされていたのかもしれない。
ただ、なんにせよ、これでビスディア民主連合という国家は滅亡した。約2世紀続いた自由は夢まぼろしと消えたのだ。
「実に有意義な話し合いになったよ。さすがは妾のルーじゃ」
「勿体なき御言葉です。我は肝心の会議には出席が叶わなかった身ですから」
アスモは、神代疾風との戦闘で負った怪我で療養中のルシフェルの見舞いがてらに、議論の結末を報告してやった。皇女自らこんなことをする道理はないが、アスモが単純にルシフェルに会いたかっただけだ。
「またまた。そんなこと言って、ちゃんとカンペを書いて渡してくれたじゃないか。ルーのおかげで妾が思っていた以上の利益が出たよ。ご褒美に、ほっぺたにチューしてやる!」
「ふ。お戯れを」
「あ、お前今鼻で笑ったな!?ねぇさすがの妾もちょっと傷付くんですけど!?」
この男はいつもアスモの好意に対して、冗談でも喜んでくれない。別に靴を舐めろと言っているわけでもないのだし・・・権力が欲しいのなら素直に手を取ったら良いじゃないか、と思うのだが。
「それはそうと、今日で入院9日目か。神代疾風も取り逃がしたわけだし―――。あの男はどうやら本物の怪物らしいな」
「・・・壮絶な戦いでした。あと一歩のところまで追い詰めはしたのですが・・・。ヤツは我とサマエルを同時に相手取りながら、それでもサマエルの攻撃が逃げる人間どもに向かわぬよう丁寧に立ち回っていました。攻め手が逆だったならば我も今頃どうなっていたか」
「深手を与えたんだろう?逃げたとして、生きていると思うか?」
「ええ、恐らく」
一手誤れば死ぬような戦いの思い出に、ルシフェルは口元を綻ばせていた。今は頭の中で疾風の戦い方を反芻し、次は勝てるようにとイメージを練り上げているのだろう。
権威、武力、名声。誰よりも高みへ登り詰め、今まで自分を笑いものにして来た者たち全ての頭を押さえつけ、この皇国をも手に入れる。ルシフェルは、そのためにいかなる努力も惜しまない。全てを天から与えられたアスモはその生き様に魅せられた。だから、あらゆる立候補者を押し退けてこのどこの馬の骨とも知れぬ男を自らの摂政に選び、将軍の地位を与えて戦場に出る権利も保証した。
「バオース侯もいなくなり貴族派の勢いも衰えていく。いずれまた神代疾風とも対峙することになったなら、そのときは必ず勝つんじゃぞ、ルー。ここからじゃ。存分に力を示せ。今その手にある『運命』が逃げる前に」
アスモは寝かされて動けないルシフェルの手を取り、その掌の堅いしわを指でなぞった。ルシフェルの面持ちも自然と強張る。不遜な態度ばかりが目立つが、しかし、ルシフェルも自分がこの皇女にチャンスを与えられている立場だということはハッキリと理解していた。
「さて。妾はもう帰るが、寂しくなったらいつでも連絡してくると良いぞ♡」
「護衛はつけておられるのですか?」
「ザリックを連れて来たよ」
「また彼ですか・・・。あれは有事の際に姫を守れるほどの力はないと何度も―――」
「良いじゃないか、可愛がるくらい。それに虫除けには丁度良いチカラだと思うぞ?」
嫉妬する(してない)ルシフェルに投げキッスをし、彼のたしなめをサラリと聞き流しながらアスモは病室を後にした。
「ザリックー?妾は帰るぞー」
「は、はいっ、アスモ様!」
アスモに呼ばれ、廊下の窓辺で小鳥と戯れていた、やや背の低いエメラルドグリーンの髪の人物がやって来た。その人物はアスモの前でビシッと立ち止まるが、振る舞いに似合わぬ短いスカートがはためいて、慌ててその裾を押さえた。なんだか可愛らしい外見のこの人物が、ルシフェルに代わってアスモの身辺警護を任せられている、ザリック・サレン・スリエラだ。
容姿から、アスモと並んで歩かせるとまるで小学生の妹に対する中学生のお姉ちゃんみたいだが、ザリックについては2点ほど注意することがある。
まずひとつ。ザリックは皇国七十二帝騎第三十二座、すなわち皇国騎士最高峰が一人である。
そしてふたつ。
だが男だ。
いくらフリフリのミニスカートを穿いていたって、キュートにもみあげを結っていたって、女々しいアクセサリの数々を身に付けていたって、股にはちんちんがついてるんだ。
ちなみに、アクセサリというのはアスモが無理矢理”装備品”と称して押し付けたマジックアイテムだ。可愛いぞ。
さて、病院を出たら車を呼ぶ。無理矢理女装をさせられる等々お姫様からパワハラの限りを受けているザリックだが、これでも一応は七十二帝騎の高貴な地位であるから、車の運転などはしないのだ。嘘だ。まだ免許を取れる年齢じゃないのだ。だから運転手も別にいる。
リリトゥバス王国に続いて、ビスディア民主連合まで陥れ、皇国は大賑わいだ。アナッテ地区の闇市にもさっそく仕入れた品物が流通し始めているようだ。結構なことである。ジャルダの喪失という打撃はあったが、全体としてみれば景気が良くなっている。
それに、あの少年がジャルダを殺害したという事実が、非常に好都合だ。まだ公表はしていない。今後のゲームメイキングも想像が膨らむばかりで、アスモは今から楽しくてしょうがない。
「あ、アスモ様そういえば」
「なぁに?」
ザリックの話題に、アスモは小首を傾げた。
「先ほどアレが帰ってきたそうですよ」
「おー、そうか。じゃあ妾が労ってあげないとだな!」
「あはは、きっとアスモ様にお迎えしてもらったら喜びますね!」
ああ、今日も可愛らしい笑顔だなぁ―――と、なんだかんだ憎めないハラスメントプリンセスにザリックは心を和ませるのだった。
○
皇都サントルムに2つある『門』の管理施設のひとつ、『タイアマァトの塔』または『秘門塔』、地上数十階までズラリと『門』をコレクションした尖塔の、その地下空間。
きちんと整備され、地上フロアの延長にも見えるが、そんなのは氷山の一角に過ぎない。秘門塔の真髄は、この地下空間にこそある。
秘門塔の地下迷宮。発掘は時代と共に進んでいるが、その規模は未だ未知数。数年に一度は古代の『門』が発見され続けており、一説には最奥に神の住む世界へ繋がる『門』が隠されているなどとも語られている。
そんな秘門塔の地下迷宮の奥に、未だ一般の立ち入りが許されていない一画がある。そこにアスモはやって来た。
一応、部屋としての体裁は整えられているその場所に居た皇国騎士たちが気付いて、その場で跪いて迎えた。
「これは姫様、ようこそいらっしゃいました」
「よい、面を上げてくれ。アレが帰ったと聞いてな」
「あ、お、お待ちを。今日の試験は早めに切り上げたのでまだ少し興奮が残っており危険です!落ち着くまではこちらでお待ちください!」
「えー、たまには良いだろ?妾だってまたあの姿を見たいのに」
アスモは駄々をこねて騎士らを押し切り、さらに奥の部屋へと進んだ。天井の高い空間に、本来なら入った時点で目に飛び込んでくるはずの大きな『門』の魔法陣を覆い隠すほどの、黒い巨体が横たわっていた。
歪な人型の肉体に、何本もの触手が生えた大型の怪物だ。
「おー、相変わらずこっちの見た目はおぞましいなー!」
「ちょ、アスモ様、それ以上近づうぎゃーッ!?」
部屋全体を揺らすほどの威力で、怪物の触手がアスモの爪先寸前の床を穿った。護衛のはずのザリックがアスモの背後で腰を抜かす中、アスモは笑みを崩さなかった。
「気分はどうじゃ―――と、聞こうと思っていたが、良くはなさそうだな」
やがて、怪物の肉体は黒い粒子となって霧散し始めたが、アスモは構わず用意してきた労いの言葉を怪物に投げかけた。
「ご苦労じゃった。今日のところはゆっくり休むと良い。落ち着いたら、また妾にも話を聞かせてくれると嬉しいな」
すっかりシルエットの縮んでしまった怪物は、気を失っていた。新しいお気に入りにおやすみの挨拶を残し、アスモは今度こそ城への帰路へ就く。
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快楽愉悦を求めないことは、世界への冒涜だ。
興味の赴くままに生きねば道理に合わない。
例え、それが成れば世界の平等性すら狂わせてしまうかもしれないと分かっていても、躊躇うことはない。
心ゆくまで求めると良い。
我々が思う以上に世界は平等なのだから。
恐いもの見たさに狂わすつもりくらいが丁度良い。
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