episode7 sect54 ”亡滅を齎す者”
イブラット・アルクは、異変を感じて戦闘の手を止めた。
「ジャルダ様・・・?」
イブラットの6本腕という歪な肉体は、ジャルダの特異魔術『不全にして全能』の祝福を受けている。だからかは分からないが、ジャルダの状態が急変すると、イブラットも第六感的な悪寒を感じることが今までもあった。
「急に止まった?」
「チャンスよチカゲちゃん、攻め込むわ!!」
「待ってくれ!!」
イブラットは、チカゲとルニアを手に持った《飛空戦艦》のパーツで制止した。
「頼む、見逃してくれないか・・・!!」
台詞に見合わぬ気迫で思わず、千影もルニアもたじろいでしまった。
「急になに?」
「見逃してくれ。すぐに我ら兵団員も全て引き上げることを約束する。だから、どうか、頼む・・・」
「(・・・作戦のひとつ?)ボクたちがそれ信じる要素、あるかな?」
「信じてもらえないことは承知している!だが、頼む・・・この通りだ!我が主の命が危ない!!」
イブラットは、まだ生きていた《飛空戦艦》の武装を全て放棄して地上に降り立ち、頭を下げてきた。これで演技だったとしたら、それこそ歴史に語り継がれる名優だ。腑に落ちかねるところはあるが、千影とルニアは顔を見合わせて、頷いた。
「良いわ、行きなさい。魔族は約束をちゃんと守ってくれるものね」
「恩に着ます、ルニア王女」
「絶対だからね!!」
「ああ。ありがとう」
イブラットは、唯一残していた特殊グライダーですぐに南東の方角へと飛び去ってしまった。
「はァ!?ちょぉ待てやコラァ!!どこ行くねんこのハゲェ!?」
一人だけ虫の居所が収まらない空奈が怒鳴ったが、千影とルニアが押さえて留めた。開幕前から既に3人の中で一番重傷だったにも関わらず、恐ろしい腕力だ。
「おち、落ち着いてクーさん!見逃してもらったのはむしろボクたちの方だよ!!」
「そうよ、このままやってたらどっちが先にやられていたか分かんなかったわ!」
「知らんわんなこと!!止めんといてください!!ウチはあんクソボケにデッカい借りあんのですゥ!!ブッ殺さなアカンねん!!」
あの厄介者の小西李を上手く制御している普段の空奈からは完全に乖離していた。まるで狂犬だ。味方にまで魔法を向けないだけの理性はあるようだから、ギリギリ安心すべきか。
30秒ほど暴れ続け、空奈はようやく少し大人しくなった。
「女の子の頭ァ大火傷させたんやぞ、あのハゲ・・・。ウチと同じだけハゲ散らかさせたらなアカンやろ・・・」
「ま、魔法で頭皮は治せるからさっ、ね?」
「とにかく、先を急ぎましょ!」
ルニアは、無理矢理空奈に肩を貸して、崩落して切り立った崖同然になった大橋をよじ登り始めた。
イブラットは「我ら兵団員」は引き上げるとしか約束していない。生まれも育ちも魔界の王女であるルニアがその程度のことを聞き落とすことなどあり得ない。遊撃中の七十二帝騎あたりがすぐに駆け付けてきてもおかしくないのだ。魔力の残りも心許ない。可能な限り早くこの場を離れるべきだった。
だったのに。
白髪の男が立っていた。断絶した橋の、ルニアたちが登っているのとは反対側の岸だった。だから、本当ならまだ無視して全力で逃げるという選択肢を採ることは可能なはずだった。だが、それを最も実現可能な力を持つ千影が、その男を見た瞬間に釘付けにされてしまった。
正確には、その男が手に持っていた、誰かの生首を見て。
「う、そ・・・だよね・・・?」
生首がゆらりと動く。男が、わざわざ掲げて見せたのだ。
生首と顔を並べた男の表情が、冷ややかな笑みを作る。
「ようやく会えたな、荘楽組のオドノイド」
その生首の顔。
千影が分からないはずがない。
「紺・・・なの?」
だというのに、疑問形でしか言葉が出て来なかった。当たり前だ。なにしろまず千影は彼が民連に来ていることなど知らなかったし、おでんと一緒に紺も来るだなんて想像も出来なかったのだから。そしてなにより、あの紺が、あんな無惨な首だけの姿にされるなんて事が、千影にとって圧倒的にありえない状況だった。
だって、紺は戦いでの強さで言えば岩破を凌駕していたのだ。1人では岩破にすら戯れさながらにあしらわれる千影から見れば、紺は疾風らランク7魔法士にも比肩する異次元の強者のように思えていた―――その、紺が。
「し、んじゃった・・・の?」
千影の頭の中が無限のクエスチョンマークに埋め尽くされ、処理落ちした視野が狭窄し、聴覚も水底へ沈んでいく。
「チカゲちゃん!?なにしてるの、早く!!・・・チカゲちゃん!!」
なにがあったのか、完全の凍り付いてしまった千影を回収するためにルニアはせっかく登った橋の残骸を滑り降りた。しかし、それは大きな失敗だった。ルニアは千影を見捨ててでも空奈と一緒に先に逃げるべきだった。・・・もっとも、男が掲げる生首の主を知らないルニアには、考察材料が不足していて、その最善手にすぐ踏み切ることなど出来ようはずもなかったか。千影はルニアにとって、心を救ってくれた恩人であり、共に難敵に立ち向かった友なのだ。
加えて、ルニアは生首を掲げている方の男のことは知っていたことも、彼女の油断に一因していた。
(ルシフェル・ウェネジア―――なんでこんなところにあの人形使いがいるのよ?将軍に任命されてるって言ってもお飾りの役職じゃない)
ルニアは、空奈を支えるのと壁をよじ登るので両手が塞がるので、千影の服に噛みつき、再び上を見上げた。
ルシフェルから、目を離してしまった。
爪をアスファルトの壁面に突き立て、第1ストロークを漕ごうとした瞬間。
ドスリ、と。
「ん"ん"ん"んんんんんんんんんんんんッッ!?」
黒い細身の剣が、ルニアの左手を壁に刺し留めた。気が付けば、どうやって移動してきたというのか、ルニフェルはルニアの頭上にいた。
「逃げられるとでも思ったか?ルニア・ノル・ニーア・ニルニーヤ」
目が合った瞬間、ルニアはようやく己の認識の甘さを心の底から思い知った。今まで公の場でどうやって隠してきたというのか、ルシフェルの目に宿る凶気は、獣人の鋭敏な本能に死を予感させるには過剰だった。殺される、と思ったときにはもう反抗する気勢すら薄れて全身が弛緩してしまっていた。
(い、や・・・せめて、この2人だけは――――――いぁあ"あッ!?」
ルニアの思考は激痛でブツ切りにされた。不必要に乱雑に、ルシフェルがルニアの手を貫く剣を引き抜いたからだ。固定を失ったルニアの体は落下を開始するが、ルシフェルが空中で身動きの取れない彼女の首を刈り取る刃の方がさらに速い。
ルニアは咄嗟に、咥えていた千影を投げ離した。
(はぁ・・・私、ここまでかぁ。みんなは・・・アーニャ姉様はちゃんと逃げ切れたかな。逃げられたよね・・・)
大丈夫。ルニアだって、エンデニアのところへ行くだけだ。ちょっと早すぎるけど、きっとエンデニアも怒りはすまい。だから。
―――だから?
横暴な死神の沙汰が下される寸前で、ルニアの目に光が蘇った。
(まだよ、私にはまだ、やんなきゃなんないことがたくさん・・・あるんだからああああああああああッ!!」
ルニアが咆哮するのと同時、ルシフェルが突如横合いへと弾き飛ばされた。
「あー・・・ぇ?」
だが、ルニアはまだなにもしていない。マヌケな声が出た。魔力の爪を形成し終えたのも、事の後だった。
神風が吹いた。夜闇に溶けて翻る漆黒の外套。鈍く輝く巨刃。微かに尾を引く電光。
「あなたは・・・」
人々は、彼を《剣聖》と呼ぶ。たった独りで龍を屠るという、奇跡の人間は、紅蓮の血潮に汚れて舞い降りた。
「失礼」
短い断りを入れた後、ルニアは疾風に抱えられた。一瞬の浮遊感に鳥肌が立ったときには、もう橋の上に下ろされていた。ルニアが担いでいた空奈も無事だ。
「千影ぇぇ!!なにしてる!!しっかりしろォ!!」
疾風の怒号を聞いたとき、ルニアは皇国の騎士でさえ恐怖する《剣聖》の正体もまた、人並みの焦りを抱く”普通の人間”なのだと思った。彼の切羽詰まった声に意識を叩かれた千影が、すぐにルニアに追いついてきた。
「はやチン・・・」
「頼むぞ」
疾風の姿が風と共に消え、千影もルニアを立たせた。千影の顔色はまだ優れないが、辛うじて今なにをすべきかは思い出していた。
「行くよ、ルーニャさん。クーさんも」
ほとんど千影が引きずるようにして、3人はマルス運河流域から離れていく。
だが、ルニアが背後を指差した。
「チカゲちゃん、あれ・・・なにかしら・・・?」
彼女たちの背後に、どこからやって来たというのか、山のように巨大で血のように赤黒い体躯を持つ怪物が現れた。身じろぎひとつで轟々と地鳴りを起こすその怪物は、六対もの翼と腕を持つドラゴンのようなシルエットであったが、ひとつ、決定的に足りない部位があった。頭部だ。しかも、よく目を凝らせば赤い体色の正体は、皮や鱗ではなく剥き出しの血肉そのものの色だ。その赤龍は、首なし死体だった。
だが、死体は動いていた。まるでムカデのように数多ある腕で地を這い、頸部の断面から声にならぬ咆哮を響かせていた。対抗しているのであろう疾風の特大魔法がちっぽけに見える。遠近感が狂うスケール感の恐怖が、ノヴィス・パラデーの市街地を蹂躙していく。
千影は今度こそ、とにかく逃げることを選んだ。疾風まで紺の二の舞になってしまったらと思うとすぐにでも戻って一緒に戦った方が良いのではないかと考えてしまうが、それが正しいはずがない。あんな意味の分からない怪物に千影が対抗出来るビジョンが浮かばない。まだ疾風を独りにしておく方が彼の生存率もマシになるだろう。
その考え方自体は間違いではなかった。
しかし、千影が感じた恐怖はあまりにも楽観が過ぎていたようだ。
屍赤龍の失われたはずの口元へと黒色魔力が収斂されていき、南東へ、闇に先立つ細い閃光が瞬いた。