episode7 sect30 ”獣たちのバベル”
滑らかに水面を分ける音を聴いていると、少し穏やかな気分になる。
本物のネコミミメイド喫茶を後にした迅雷と千影は、まだしばらく残っている自由散策の時間を、マルス運河の遊覧船の上で過ごしていた。
交流式典の裏の目玉であるオドノイド―――すなわち千影がいるからか、テレビ局の取材班たちも迅雷たちについてきているが、気にしなくて良いと言われている。そう言ってくれた通り必要以上にちょっかいを出してくるようなことはないため、迅雷も千影もだいぶ自然体で観光を楽しめていた。
「あ、とっしー、見てみて!滝みたいなのあるよ!」
「ん」
「・・・えー、なんか素っ気なくない?」
「んー、いやー・・・なんかさっきのがまだ頭から離れなくって」
「ほーん」
おもむろに迅雷の股間に目をやった千影は、なにを確かめるつもりなのか手を伸ばして、迅雷に手をはたき落とされた。
○
事は20分ほど前に遡る。
「友好の証ということで、お、俺と千影も同じだけモフってください!!」
正直、迅雷も自分で自分に「なに言ってんだコイツ」とドン引きした。
いや、違うのだ。なにが違うのか分からないが、とにかく。
獣人のしっぽや耳をモフるのは一般的にセクハラ同然の行為らしく、千影らオドノイドの人間としての尊厳を取り戻したいと訴えている迅雷がネコミミメイド喫茶でメイドさんをモフるなんて後ろめたいのでやめておこうと思ったのに、当のメイドさん本人から人間と獣人の友好の証にと強く勧められて迷った挙げ句、出てきた自分で納得出来る対価がそれだったのだ。ここまで突飛だと「血迷った」という方が正しい気がするけど。
・・・が、そのネコミミメイド喫茶のメイドさん、マオは意外にも面白そうだからとOKしてくれた。
「それじゃあ『ミミ&しっぽコース』、3分間のモフり合いっこですね、ご主人?お嬢様もOKですにゃあ?」
「もちろん」
千影も迷いなくグッドサインを出した。あらぬ方向に進みつつあることに焦っているのは迅雷だけなのか。
「ところで、お2人一緒にモフられますか?それともお1人ずつ順番に?」
「え!?じゃあもちろん3Pで!!」
勢いよく反応したのは千影だった。
とりあえずネコミミを触らせてもらう方がマオにモフってもらうことに決めて、千影が先にネコミミを触らせてもらうことになった。マオがタイマーをセットし始めたあたりで迅雷はまたしても言い知れぬ背徳感を覚え始めたが、ひとつ深呼吸をした。
(合意の上、合意の上、合意の上・・・)
タイマーをオンにする前に、マオは背が低い千影の手が自分の頭に届くようにしゃがんでくれた。ついでに猫の手ポーズに猫口で撫でられ待ちといったオーラが全開である。
「ささ、お2人ともどうぞご遠慮なく私を可愛がってくださいにゃあ」
タイマーがオンになった途端、千影が辛抱ならなかったようにマオの白くてフワフワした髪に手を伸ばした。
「ナデナデナデナデ~・・・うはぁ、ふわふわ・・・ミミ毛もモフモフ~♡」
「おお・・・」
「ご主人も、どうぞ?」
ミミ以上にモフり甲斐のありそうなしっぽをチラつかされ、迅雷はゴクリと喉を鳴らした。恐る恐るしっぽの先っちょに指で触れてみると、マオはぴくっとしっぽを震わせた。マオが「ん」と小さい声を漏らし、迅雷の中にちょっといやらしい気持ちが芽生える。
続けて、迅雷はもう少ししっぽの中間あたりを優しく捕まえて、軽くにぎにぎしてみた。
まるで綿毛のような白毛の柔らかい感触はいわずもがな。だが、このモフりにさらなる奥行きを持たせているのはさらにその根元、ささやかな握力を加えるたびに脈打つ反応を返してくるしなやかなしっぽ筋なのだ―――。
迅雷が新発見に夢中になっていると、ミミの傍からグルグルという音が聞こえてきた。猫を飼っている人なら分かる音だが、迅雷はあいにく猫など飼ったことはないので何事かと驚き顔を上げた。
すると。
「おー、よーしよしよしよし♡」
ネコミミを触らせてもらっていたはずの千影が、もはやミミに留まらずマオに頬ずりしながら艶めかしい指使いで彼女の顎を撫でていた。
頬ずり。女の子同士でほっぺたすりすり。顔と顔の境界面で柔らかく2人の輪郭を分けるほっぺた。
千影のぷにぷにほっぺたに魅了されたほっぺたフェチの迅雷がその楽園と見紛う光景に思わずしっぽの感触すら忘れてしまうのは、もはや必然だった。
(ま、混ざりてぇぇぇぇぇぇ・・・!!)
迅雷がワナワナしていると、マオがタイマーを見て緩みきった声を出した。
「んにゃあ・・・そ、そろそろ1分半ですにゃあ」
しかし。
しかしだ。
しかしなのだ。
日頃から千影のほっぺたを触り慣れている迅雷がこれくらいでその後20分以上にわたって悶々とし続けることはない。本当の事案はこの後に起こった。
千影とポジションを交代した迅雷がコリコリするネコミミの付け根を触らせてもらっていると、突如マオが変な―――というか率直に言ってエロい声を出してもんどり打った。迅雷は自分がどこか変なところを触ってしまったのかとビビったが、すぐにそうではないと気付く。
「んにぃっ、んあっ」
「ほほう、ココがイイんだね~?」
「ちょ、おじょっ、さぁひっ!?♡!?♡!?」
そこから先は千影の独壇場だった。
さすがに迅雷だって、喘ぎながら床に這いつくばって目に涙を浮かべながら痙攣を堪えるマオの頭を弄り続ける勇気は持ち合わせていない。・・・が、かと言ってなぜかマオを鳴かせる千影を止めようとしても言い出せない。男子の性か。
千影は奇妙な手つきでマオのしっぽを揉みしだいたり、迅雷が手を離してフリーになっていた彼女のミミにそっと息を吹きかけたり、好き放題だ。ここまで来ると千影の正体が娼館の見習いと言われても驚かない。
そして、ついにタイマーが地獄のモフモフパラダイスに終わりを告げた。
「ふにゃあっ~!!お、お嬢様、じ、じか、んんっ。3、ぷ、経ったからぁっ!!」
「ハッ・・・!?想像以上のモフり心地につい夢中になってしまった!!だ、大丈夫?ゴメンね?えっと、いや、まさかこんなになるとは思わなくって、ね、ね?」
「ら、らいじょうぶれひゅにゃあ・・・・・・にゃ、にゃんのこれひき・・・」
グルグル目のマオはテーブルを頼りに立ち上がり、なんとか服装の乱れを整えた。
「ご、ご主人も・・・ご満足いただけましたかにゃあ?」
「そのー・・・なんかもう、いろいろごちそうさまでした」
迅雷は蕩けた表情を努めて営業スマイルに保とうとするマオを直視しかねて、余所見気味にお礼を言った。健全な16歳の男の子には刺激の強い3分間だったかもしれない。
それと、余談になるのだが、会計を済ませた後、店を出る迅雷と千影を見送ってくれた店長がなぜか今にも成仏しそうなほど安らかな顔をしていた。あれは一体なにがあったのだろうか。
○
回想を終えた迅雷は、溜息まじりに千影のほっぺたを指でつついたり、摘まんだりして気を紛らわせた。
「もちもち」
「痛い」
多少は気も済んだところで、迅雷は遊覧船から見える景色を見上げた。マルス運河には両岸に高い石垣の壁があって、その壁の上や、または中腹にいくつも空いている穴からは千影が言っていたような細い滝が流れ込んでいた。それら無数の滝がそこかしこで巻き上げる水飛沫が淡い霧となって満ちる水面付近は少し肌寒く感じる。まだまだ涼しい格好をしていた千影は迅雷とくっつくようにして寒さを凌ぎながら景色を眺めていた。
「昔ゃねェ、人間のお客サン。この川の水位はあん一番上かんの滝と同じ高さだったのよ。んであっこから街の隅々まで水を行き渡らせてたのさ」
遊覧船の船長をしていた老齢の獣人が、訊いてもいないのに説明を始めた。
彼曰く、壁の上から流れ落ちる滝の向こうも昔はマルス運河の川底だったらしい。高さが段々に分けられていて、当時の貨物船の船着き場もその位置に連なっていたそうだ。言われてみれば、バスで通ったときもそんな地形になっていたような気がした。
今の水位がかつてより低いのは、移動や運搬の主力が自動車に移ったため、大雨のときに時折氾濫を起こしていた当時の水位を保つ必要がなくなったからだとか。現在は西部の河川とマルス運河を繋ぐ大水門の改修がなされてマルス運河の水位を細かに調整しているそうだ。歴史的な街並みを観光資源とするノヴィス・パラデーにも、歴史の流れで失われた景観は存在するらしい。
「オイラがガキん頃はよう浅ェとこで水遊びしたもんさ。ちょっと奥まで泳ぎゃ海みてェに深くなってたワケだから母ちゃんにゃ危ねェからほどほどにしろっつわれてシバかれたもんさ。ひゃひゃひゃ」
「へー、良いなぁ。今も浅瀬があったらボクも遊びたかったのになぁ。こないだとっしーに水着選んでもらったばっかりだし」
「おアツいねェ。獣人も人間も若ェってなぁ良いもんだ。ちなみにオイラの船ば乗ってった観光客カップルはみーんな幸せになってるそうだぜ、ひゃひゃ。ガキんちょ連れてまた乗りに来てくれたカップルもいたねェ」
「うおお!、とっしー!意外なところに縁結びに神様だよ!!子供は分かんないけどとにかく結婚したら報告しに来るからね!!」
「おうさ。いやぁ、こいつァオイラもまだまだくたばれねェな、ひゃひゃひゃ」
「待って俺を置いて勝手に決めないで?」
本当は満更でもないのだが、迅雷はテレビのカメラも回っているのではぐらかした。
マルス運河は極めて長大な円状のお堀なので、遊覧船の船着き場も山手線の駅のようにグルリと一周の間にいくつも設けられている。午後のバスツアーの集合時間も迫っているので、迅雷と千影はテレビ局の人たちと一緒に乗った場所から3つほど先の船着き場で遊覧船を降りた。
おしゃべり船長と手を振って別れ、ここからは徒歩で集合場所に向かうことに。運河の壁の上まで運んでくれるエレベーターの中で、迅雷は呟いた。
「なぁ千影。今度はさ、プライベートで、ゆっくり遊びに来たいな」
「話の流れ的にそれほとんどプロポーズじゃない?」
「いや、それはそれとして!」
というか、迅雷は既に千影に対して一世一代の大告白をした後だったはずなのだが―――掘り返さないが吉か。
●
元々一般道でもスピードを出しているようには感じていたが、高速道に乗った途端にバスは時速200キロをあっさり越えた。運動能力や動体視力に優れる獣人ならではの法定速度が定められているのだろう。ともあれ、ビックリしたのも初めだけ。魔法士としてはスピードに大幅に能力値を振っている迅雷や千影にとっては時速200キロも理解出来ない世界ではない。
山間部に差し掛かったあたりで革命時代の史跡である「栄光の丘」を訪れつつ、バスに揺られて1時間弱。さすがに、沿岸部に近付いてきた頃には日も傾き始めていた。
まだ目的地まではそこそこ距離がありそうなのに、早くもこのツアー最後の目玉が見え始めた。迅雷は、昨夜の寝不足も相俟ってウトウトしていた千影を揺り起こして、東の遠くに見えるものを指差した。
「すっげぇ。なぁ見ろよ千影。あれ、軌道エレベータなんだってよ」
○
軌道エレベータとは、大雑把に言えば地球の地表と宇宙を繋ぐエレベータである。我々がエレベータと言って想像する昇降装置とは厳密には全く異なる仕組みを持っているが、乗った人にとって結果はほとんど同じだからそう呼称されている。SF界隈ではポピュラーな未来技術だ。
天高く聳え立つその建造物の麓に到着したのは、初めてその姿が見えてからさらに3、40分も経った後だった。バスが停車したのは、沿岸部の港町に突如現れた巨大な鉄の大地の上だった。バスを降りた迅雷たちを先導するイヌミミのガイドが、両手を高く掲げてその見上げるにあまりある高さの尖塔を示した。
「さぁ皆様。この雲を突き抜ける高さの塔が本日最後の目的地、『ノル・トゥーリム』です!実は今私たちが立っているこの島は人工島でして、『ノル・トゥーリム計画』は人工島の建造から全てが政府主導の下で行われています。今でも十分高いのですが、なんとこれでもまだまだ未完成なんです。『ノル・トゥーリム』の最終目標は大気圏の向こう側、宇宙なのです!!」
「まだ軌道エレベータじゃないじゃん」
千影にツッコまれて迅雷は苦笑した。厨二心をくすぐられて気が逸っただけだ。
とはいえ、こう見えて実は物理学の知識がある千影は『ノル・トゥーリム』を見上げて素直に感心していた。軌道エレベータの原理や課題点をなんとなく知っているからこそ、そも建造をスタートするにまで至っている民連の科学力への感動もひとしおというものだ。
「ケルトス首相が自らの経済政策の効果をアピールする目的で開発が始まった『ノル・トゥーリム』でしすが、これが完成すればなんと、あの機界すら抜いて全世界初の軌道エレベータが誕生することになります」
機界とは、その名の通り世界のほぼ全て、すなわち人も社会も大地までもが機械仕掛けに置き換えられた科学の世界のことだ。それと比較される科学技術の結晶とは、さすがに恐れ入る。・・・と言いたいところだが、今の解説の中に実はイヌミミのガイドすら又聞きの知識故に気付いていない誤謬が混じっている。しかしそれも言わぬが花だ。
さて、実際に建物の中に入ってみる。すると、内装はどこかIAMOのノア支部を思い出すような整然としたもので、工事中のような様相は隠されているようだった。
エントランスにある展示の前に案内されると、ここで見るとは思わなかった、ある意外な建造物の写真が飾られていた。
「これって・・・」
「『ノア』ね」
迅雷と萌生が声を揃えた。2人の言う通り、これは人間界の太陽系第3惑星地球の太平洋のど真ん中に浮かぶ鋼鉄の人工島の空中写真だ。
「実は『ノル・トゥーリム計画』は皆様が魔界に先んじて建造、実用化した海上学術研究都市『ノア』にインスピレーションを得たものなのです。謂わば『ノア』と『ノル・トゥーリム』は兄弟というわけですね。それではいよいよ、現在の『ノル・トゥーリム』の最頂部までご案内いたしましょう!」
現在の最頂部展望台に続くルートには、実際の軌道エレベータ用ケーブルラインではなく、既存技術で用意されたエレベーターが別個に用意されていた。だが、それすら既に雲海を遙か下に見下ろす前代未聞のバベルの塔だ。意外なほどにほっそりしたタワーはひょんな衝撃でポッキリと折れてしまいそうだが、気を付けるように言われたのは気圧差だけだった。しかも、それすら加圧装置などのおかげで杞憂に済みそうだ。
「すっげー。新幹線みたいな速さで空に垂直に上がってるぞ」
「もう街があんな小さいよ!あっ、あれニルニーヤ城じゃない!?」
「んー?どれだ・・・?」
迅雷と千影はエレベーターの窓に張り付いて今日見てきたものを探していたが、ほどなく地上は雲に隠れてしまった。
「ひょっとしてこれより上に展望台があっても仕方ないんじゃ・・・?」
「雲がなければ地表も見えるんじゃない?」
迅雷や千影と一緒に窓の外を眺めていた萌生に「ほら」と言われて、迅雷は別の方角を向いているエレベータの窓を見た。そちらは既に外人の俳優らで占拠されていて見えにくかったが、辛うじて迅雷は人と雲のダブル隙間に陸地を見た。
イヌミミのガイドは、湧いている俳優たちに今見えた場所が、実は民連領ではないことを教えた。
すなわち。
「今、あちらに見えたのはなんと皇国領になります!」
「Wow, really ?! Is that the Empire !? Foo !!」
この高度に至れば、国境すらもが地平線より内側にあった。
そこからまた少し上昇して、ついに展望台に到達した。高度5万フィート、高所恐怖症の人でも高すぎていっそ恐怖を感じないのではないだろうか。それほどの高さだ。地上人の感覚で言えば半分宇宙みたいなものだ。
展望台の床は何ヶ所かが透けていて、真下の景色も見られるようになっている。改めて、皇国(とイヌミミのガイドが言っていた土地)を見下ろしてみる。まあ、人間の視力じゃそれが本当かどうかなんて確かめようもない。
「この絶景は絶対自慢出来るな。帰ったらナオとしーちゃんにも見せてやろっと」
そう思って迅雷がスマホのカメラ(通信は出来なくても内蔵機能だから問題なく使える)を起動したら、イヌミミのガイドに慌てて止められた。
「すみません!撮影はご遠慮ください!」
「え、なんでですか!?せっかくこんな絶景なのに!?」
「そりゃとっしー、こんな技術の塊が外に流出しちゃマズいからでしょ?」
「そうじゃないんです」
「え"!?」
ドヤ顔で迅雷に講釈を垂れた千影も固まった。
「もしも皇国領の端っこでも写った写真を不用意にSNSにアップなんかしたらどんな難癖を付けられるか分かりませんので・・・」
「どんなヤクザだよ!?」
「ヤクザでも今どきそこまでタチ悪くないでしょ!?」
マジックマフィアに育てられた千影さえもが驚き呆れる理不尽さである。
だが、知っての通りスマホのカメラの解像度は非常に優秀だ。それこそ、SNSに自撮りをアップしたら瞳の反射を解析した情報から最終的には住所を特定されかねないほどに。その高解像度がこの高高度にどれだけ対応出来るのかは分からないものの、皇国は頭上から領土を覗き見されることを快く思っていないのだ。
実際、以前ここで撮った写真をネットに上げた獣人の青年に皇国の国防大臣名義の脅迫状が送りつけられたことすら、あるとか、ないとか。さすが皇国、そこに怯える怖気立つゥ!!
SNSに上げないことを誓っても写真を撮らせてはもらえず、泣く泣く人間のツアー客たちは成層圏から見下ろした景色を己の網膜にだけ焼き付けて『ノル・トゥーリム』を降りた。