episode6.5 sect5 ”69億9999万9998人の代行者”
夢は醒めて。
千影の手を取り、落雷の如く空気を斬り裂いて、迅雷は再び地に降り立った。
ギルバートと真っ正面で向かい合い、迅雷は『召喚』を唱えて両手に投げ飛ばした『雷神』と『風神』を呼び戻す。
両手に業物を携え果敢な目つきをする迅雷だが、その顔には玉のような汗が浮き出ていた。『制限』を解除された迅雷の莫大な魔力は、内も外も酷く傷付いた彼自身をも呑む勢いで見えない圧力を空間全体へと広げていく。
「これは―――素直に驚いた。まんまとしてやられたわけだな、私は」
ギルバートが、わずかに表情を強張らせた。
実は、ギルバートが迅雷と千影を空気壁で分断した直後から、全ては迅雷によって誘導されていた。たったひとつの仮定から、迅雷はこの結果を導いていた。
その事実は、不動とさえ思われたギルバート・グリーンの余裕を、わずかに、しかし確実に揺るがしていた。
「ギルバートさん」
「なにかな?」
「あなたならもう分かってると思いますが、俺がしてたのは信頼ですよ」
「そうだね。どうもありがとう」
唯一困惑したのは、迅雷の隣にいる千影だった。
「い、今のどこに信頼なんてあったの・・・?」
「簡単なことさ、チカゲ。トシナリは厄介にも敏かったようだ」
ギルバートから注意を外すことはせず、千影は迅雷の様子を窺った。
「ひとつ、仮定をしたんだ。”ギルバート・グリーンは神代迅雷を殺害しない。ただし千影は必ず殺害する”って。俺が死んでも構わないなら、ギルバートさんはさっさと俺にも千影に向けたのと同じ音も聞こえないし目にも見えない攻撃を選ぶべきだった」
「で、でもそんなの根拠なんてなくない・・・?」
「いくつかあった。実際そうなんでしょう?」
迅雷に話を振られたギルバートは首肯した。
「この場で君たち2人の反乱を鎮圧する場合に限るが、トシナリは現状我々IAMOの処罰対象にはならない。ここで彼を殺害すれば、私は市民を守る魔法士の総本山の代表者であるにも関わらず無罪の少年を殺したことになる。要するにただの殺人罪だ。IAMO含めオドノイドに関連するルールを持つ組織や国家は存在しないために生じた隙だ。また、私には罪を犯してまでトシナリを害する意味がない。オドノイドが憎いとはいえね。故に私はトシナリを生かしたまま無力化する他なくなる。そして、トシナリを殺せば今度は私がハヤセに殺される。よしんば恨みを買うにしてもチカゲ1人分で十分だ」
軽口めいた自供だった。迅雷もギルバートが自らペラペラと事情を詳らかに明かすとまでは思っていなかった。微笑して話をはぐらかすだけでも、ギルバートが迅雷に対してどれほどの害意を持って戦闘を行えるのかを不明瞭に保つことが、つまり迅雷と千影が抱いているべき危機意識の程度を極限状態のままにさせることが出来たはずなのだ。
なにか裏があるかと疑るが、ギルバートの表情からそれ以上のことは読み取れない。ポーカーフェイス。余裕がある。そういうことなのだ。
その程度のハンデは問題にならないと、既に一度出し抜かれた身の上でありながら、なおも。
「さて、『制限』を解かれた以上は私もそれなりに余裕がなくなってきたかな。どうするか―――」
直後、ギルバートはやっと異変に気が付いて、思わず笑ってしまった。
「まったく・・・実にいやらしいな、君は」
空気壁を作れない。
なにかの妨害を受けて、壁を作ろうとしても魔法が乱され気体分子を制御出来ない。空気壁だけではない。ただ風を起こすことすら、ギルバートは出来なくなっていた。
「確かにギルバートさんの魔法の技術はすごい。きっと初めからこの空間に満ちている気体全てを掌握してたんでしょう?でなきゃノーアクションであんな巨大な竜巻なんか使えない。・・・そんな高度な魔力制御、俺なんかじゃ絶対真似出来ません」
だけど、と。
挑戦者は考える。
敵が格上なら、自分が昇り詰めるのではなく、同じ場所にまで引きずり下ろせば良い。その方が手っ取り早い。
そのための切り札は、迅雷自身が持つ他を圧倒する異常なまでの魔力量だった。
「それでも、俺にだってギルバートさんの魔法を掻き乱すくらいのことは出来る。空間全体に乱雑に緑色魔力を撒き散らしてやれば良い。それだけであなたの魔力は思い通りに離れた位置の空気まで届かなくなる。そして届いたとしても外部のノイズのせいで制御が鈍る。手を誤れば暴発して俺を殺してしまうかもしれない」
例えば、毎秒雷が直撃し続ける通信線を使って安定した通信を行えと言うような。
例えば、溶岩の中に沈んだまま必要な熱だけ取り出して美味しく肉を焼けと言うような。
例えば、街を押し流す津波の最中で華麗に波に乗れと言うような。
不可能である。どんな超人にも出来るわけがない。
迅雷は今、確実にギルバートを同じ目線に引きずり下ろしたのだ。
「すごい・・・。こんな作戦、とっしー以外の誰にも真似出来ない。そうだよ、これがとっしーの戦い方なんだね―――!!」
「まぁ、思いつきなんだけど・・・でも、これで挑戦権は得た。いこう、千影・・・!」
「うん、とっしー!」
迅雷と千影が、同時に飛び出した。
もう見えない壁に分断される不安も死角から突如生じる烈風に怯える必要もない。
ここからは2人のターンだ。
金色の雷光が尾を引く。魔力を解放した迅雷が右手の『雷神』に許容限界まで力を注ぎ込んだのだ。『マジックブースト』による身体能力の向上も著しく、『制限』解除前の倍以上の速さで駆け抜ける迅雷はギルバートに肉薄した。
封殺された魔法の遠隔起動、ギルバートの取り得る選択肢は。
(回避・・・ッ)
既に、一介の高校生の身でギルバート・グリーンにその行動を取らせた時点で快挙だった。
だがもはや、迅雷の快挙は留まるところを知らない。
剣の振り下ろし様に、迅雷は『雷神』の柄部分に取り付けられた魔力貯蓄器に溜め込んでいた分まで含む膨大な量の黄色魔力を全て一度に解き放ち、斬撃の形にして薙ぎ、放つ。
「ぶっ飛べ―――!!!!」
「くッ―――」
さりとて、ギルバート・グリーンは魔力の制御技能に関してランク7の面々をも凌ぐとさえ言われる男だ。いかに苛烈なジャミングを受けようと、彼は自らの周囲の空間のみの、最低限の支配領域だけは保持していた。
迅雷の『駆雷』の射程を含まない計算で行ってしまった回避の補正は、魔法で生み出した気流を用いた姿勢制御法によって実現する。具体的には、先日の戦いで高速ヘリを追うための飛行手段として用いた、あの魔法である。あれを応用すれば、さながら無重力空間を漂う宇宙飛行士のように浮遊、滞空することも出来る。あとは体を捻ることで、攻撃範囲のギリギリ外側の位置取りを行えば良い。
・・・が、彼にとっての敵は2人いる。
ギルバートの眼前を飛び去る眩い雷光。
その陰から覗く、別の光。
『オリハルコン』製の刀身からの反射光。
すなわち、千影の刀、『牛鬼角』。
千影は雷光の陰に身を隠し、刀を突き立ててギルバートの真上に飛んでいた。
重力加速度すら、千影の能力の前では9.8m/s^2に囚われない。緩やかだった落下速度は一瞬で銃弾のような速さへと飛躍する。
千影は、雷光に眩むギルバートの視界が開ける頃には既に彼の腹に刀の鋒を突き刺そうかという位置にいた。
見事な連携だった。
バトル漫画なんかでは時折こういう、味方の攻撃を盾にして接近したキャラが「本命はこっちだぜ!」みたいなコンビネーション技を見かけるかもしれないが、現実ではそんなバカな動きが出来るやつはいない。
考えれば分かると思うが、普通、人間は飛び道具と同じ速さでは走れない。銃弾はおろか弓矢―――というか、もはや一直線に飛ぶ前提で言えば少年野球のピッチャーの球ですら、100メートル世界最速の超人を余裕で背中から撃ち抜けてしまう。つまり、飛び道具の陰に隠れた本命(笑)は盾に置き去りにされた挙句、あえなく敵から丸見えのまま突っ込んでいく羽目になる。
そもそも、飛び道具自体、人間ひとりを隠せる大きさを持つ方が稀だ。これは魔法による射撃にも言える。少し話を逸らすなら、一人の背後にもう一人を忍ばせる連係攻撃(の妄想)でも同じだろう。いかに千影の体が小さくとも、敵は必ず彼女が控えていることに気付く。
だが、迅雷と千影はそれを可能とした。常人を凌駕する魔力量を存分に振るう迅雷は千影の全身をギルバートの視界から完全に隠し通すだけの一撃を放つことが出来、千影は速さを自在に上げられる異能によって高速で飛ぶ斬撃の背にぴったりと張り付くことが出来る。
共に異常、故に必定。
然るべくして、普通を失った少年少女の刃は歴戦の士をも追い詰めた。
「Mint―――」
その瞬間、ギルバートは気付けば口元が緩んでしまっていた。誰が予想出来ただろう。ギルバートに出来なかったというのに。賞讃する他ない。
そして。
そして。
「なッ・・・・・・!?」
千影の突き立てた刃はギルバートの皮膚表面から1ミリにて押し留められた。
「ッ、千影避けろ――――――!!!!!!!」
言葉は間に合わない。
複数の目に映らない弾丸が千影の全身を貫いた。
衝撃で床を転がった千影は数秒の後、咳き込みながら血を吐いた。
「がっ、は、ぉげっ・・・!?」
「ウソだろ・・・ち、千影!!くそ、くそ、くそ!?しっかりしろ!!」
駆け寄り抱き起こした千影の有様を見て迅雷は愕然とする。
頭部や心臓は辛うじて無事なようだが、肺やその他臓器に加え、恐らくは骨盤も―――普通の人間なら致命傷となる深手をいくつも負っていた。しかも手足の腱や関節部まで著しく損傷しており、身動きすら取れない状態に陥っている。
凄まじい量の出血だ。口から血を噴き出しながら、片肺を失った千影は変な音を立てながら激しく呼吸を試みている。
そして、迅雷は思い知った。いいや、思い出した。一体、自分たちは誰と戦っていたのかを。
革靴の立てる足音は、変わらぬペースでこちらへと近付いてくる。迅雷は唇を噛んだ。
「俺の・・・俺の見立てが甘かったんだ・・・。ちょっと魔法を使える範囲を制限しただけでどうにかなると思ってた!!それが・・・くそ、これかよ・・・!!俺が馬鹿なせいでっ、千影がまた・・・!!」
「―――っしー。だ・・・じょぶ・・・から・・・」
震える小さな手に撫ぜられると、むしろ泣きたくなった。実際、涙はすぐここまで来ていた。
これが世界の意志。69億9999万9998人分の平穏と幸福に弓引く者に立ち塞がる高い高い壁。
ギルバートにとって、じゃれついてくる子供2人を返り討ちにする程度、体表数センチのごく僅かな空気さえあれば十分だった。支配圏を奪い、人間を超える速度で一撃必殺を狙えば勝機があるかもなんて、思い上がりも甚だしかったのだ。
「そんなことはないさ。正しく私は追い詰められた。久々に思い出したよ。死の恐怖を。素晴らしかった。君たちは強い。単純な戦闘力だけで評価しても、恐ろしいほどに。ただ、私は予測していた。それだけのことさ」
「それだけ出来るならもう立派なエスパーですよ・・・」
「怪我の功名さ」
たったの一撃で千影は虫の息だ。もう彼女は戦えない。これ以上の抵抗は絶望的だ。
「・・・もう許してくれないか?」
「・・・嫌だ」
迅雷一人では、どうすることも出来ない。千影を抱きかかえて逃げ出すことさえ、許されない。
「チカゲを放すんだ。君の妨害の効きが良すぎるせいで上手く魔法を操れないんだよ。私は君を殺すわけにはいかないんだ」
「嫌だッ」
でも、それは抗うことを諦めなくちゃならない理由にはならないはずだ。剣すら投げ捨てて、千影を包み込むように抱き締め、迅雷はうずくまる。
「俺はっ、俺は決めたんだ!!千影にとって生きづらいこんな世界を変えてみせるって!!」
「そう言ってくれる君のような存在がいるだけで、チカゲはとうに救われていたんじゃないかな」
そんな悲しい救いの形があって良いのか。そんなはずない。血を流し、傷に喘ぐ少女が報われているように見えるのか。
やはり、認めるわけにはいかない。こんなにも心優しい、誰かのために頑張れる少女すらオドノイドというだけで生存権を剥奪してしまえる世界を否定する。それが、迅雷のやっと見つけた為すべきこと―――やりたいことなのだから。
ギルバートは、迅雷のゴムが緩み始めた頃合いのジャージの背面中央あたりをしっかりと掴んで、持ち上げた。千影を放すまいとする腕は見えない壁に阻まれ、次の瞬間にはギルバートの拳が直接迅雷の腹を打ち据えた。
自身の胸部から奇妙な音を聞いたとき、迅雷の視界は明滅して千影の姿まで眩んでいた。肋骨に取り付けられた人工骨を正確に突かれた。胃酸が喉を灼く。
直前の暴力とは打って変わっていやに丁寧に地面に寝かされた迅雷のすぐ頭上で、千影が蠢いていた。
千影は、オドノイドだ。例え腱を切られようとすぐに再生して動き出す化物だ。迅雷が稼いだ十秒が、彼女を突き動かす。左右で瞳孔の大きさも揃わず、もはや光を映しているのかも怪しい黄金の瞳は、それでも強くギルバートの目に訴えかけていた。
だけれど、無言のうちに再び空気の散弾銃が千影の体を炸裂させた。粘質な音が撒き散らされ、血を噴き上げるだけの噴水と化した彼女の体は、それでも執拗なまでに無慈悲な散弾の雨に曝されて床の上を何度も跳ね回った。
「千・・・影・・・」
胸の内側でのたうつ不快な苦痛に耐えて、迅雷は手を伸ばす。左手―――ほんの少しでも千影に近いその手を。
不意に、その手首で青白い光が明滅した。
体表から浮かんでいた『制限』が効力を取り戻し始めていた。
そして気付く。
千影は、こんなときでさえ衰弱した迅雷の体にかかる負担を思って『制限』の解放時間を短くしていたのだと。
光の腕輪は、みるみる縮んで、その輝きを失っていく。これが完全に鎖じれば迅雷にはもう足掻くための足がかりすら残らない。
「なんで・・・クソバカ・・・!!これじゃ・・・こんなっ、余計な世話だろうが!!」
迅雷の怒号に千影はなにも応じない。既に応じるだけの生命力すらないから。
彼女は結局、迅雷の言葉を受けた後でさえ、ずっと心のどこかで、どうせこんな結末になると分かっていた。そして、過程はどうあれ現実は彼女の想像通りとなった。それだけのことだった。
それでも、千影は、迅雷のことを心から信頼していた。これだけは絶対だ。何人も、なにがあっても、千影が迅雷に向けた信頼を否定するのは許さない。
彼がいたから理不尽に対して唾を吐きつけられた。彼だからこそ報われた。彼をおいて他に千影のパートナーはいなかった。
千影はここで死に、迅雷はその悲しみを乗り越えて生きていく。ただそれが”神の御心”だった。
「ダっ、ダメだ、ダメだ、ダメなんだこんなのはぁぁ!!止まれよ、止まってくれぇ!!千影はぁぁぁぁッ!!」
運命は止まらない。
ギルバートは魔法の手を緩めず、そして、『制限』は鎖じた。
○
よく頑張ったじゃない。もう十分。仕方ないよ。これで平和が保たれるんだもの。・・・落ち込まないで?これ以上やったって、傷付くだけじゃない。トシ君は、悪くなんかない。ダメなんかじゃない。本当に頑張ってた。だからもう、良いのよ。
良くないの?・・・なら、なにをしているの?このままじゃあの子、いくらなんでも死んじゃうわよ?良いの?また、失ってしまうわよ?
嫌なんでしょう?辛いもの。あんな苦しい思いをするのは。思い出して。トシ君。約束、したじゃない。みんなを守って・・・って。
―――うん。・・・けど違うんだよ。悪いけど少し静かにしててくれ。
・・・へぇ、そうなの。そっか、もう違うのね。ふぅん・・・・・・なら、どう違うのか、見せてね――――――。
○
「・・・千影は!!」
そして、運命はかすかに停滞した。
封じられたはずの迅雷の魔力が、再び空間を支配してゆく。
正義の執行者はその手を止め、振り返る。
『制限』の腕輪状の魔法陣が、未だ蒼い輝き放ったまま、迅雷の右手に掴まれて甲高い唸りを上げていた。
肉の焼ける異臭がした。想定外の抗力を受けた『制限』の術式が無理矢理本来の動作を継続しようとするエラーが音と熱の形で激しく放出され始めたのだ。
左手首が焼け落ちるのではないかと思うほどの苦痛に打ち克ち、迅雷は天に吼えた。
「千影は、俺が守ってみせる!!今度こそ、他の誰でもない、俺の意志で!!」
長かった。本当に長かった。遂に、その一言を自分で口にすることが出来た。
意志は、言葉にすることで初めて絶大な力をもたらす。無力感からの迷いを断ち切り、誰に言われるまでもなくその心の奥底から湧き上がる彼自身の想いが、その剥き出しの一単語をこの世界へと解き放った。
その右手に渾身を込めて、決別しろ。
「オ―――」
ガラスの割れる清々しい音と共に無数に散った燐光が、その最後の役目であったかのように、迅雷の進むべき道を照らし出す。
「―――ォォォォオオオオオオオオ!!」
右手に『雷神』を掴み取った迅雷を荒れ狂う漆黒の嵐が包み込み。
握り締める刃には、全てを焼き尽くすだけの雷光を乗せて。
そして刃は振り下ろされた。
episode6.5 sect5
”そして今、この場所から”