episode6.5 sect4 ”死ぬべき命と生きるべき命”
『相手が誰だろーと、なにだろーと、大切に思う気持ちにこそ意味はあるものなのよ。どれだけの人に反対されても罵られても軽蔑されても排斥されても、例え条約や法律や条令で禁止されてても、それがダメなことだとは思いません!本当の気持ちに素直にならないともったいないんだから!』
世界への反抗を宣言しながら、ふと、迅雷は以前母親が言っていたことを思い出していた。
彼女はこの言葉を思い出す日がきっと来るとも言っていたけれど、どこまで見越していたのだろう。あるいは、かつての記憶と迅雷と千影が重なって見えたのだろうか―――。
そんなことはどうでも良い。繋いだその手をもう絶対に放さない。
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「やれやれ・・・・・・。まぁ、こうなるだろうとは思っていたさ。仕方がない」
ギルバート・グリーンは肩をすくめる。
アリーナ内に満ちる空気が渦を巻いた。
明確に、なにかが、切り替わる―――。
「では、かかってくると良い。世界の敵」
迅雷と千影は肌に感じるプレッシャーに身構えた。
だが、そもそも身構えることに意味などない。
ミシリ、という音が聞こえて迅雷は唖然とする。
「な―――ぁ・・・!?」
まるで念力の如く、迅雷と千影は別々の方向へと弾き飛ばされていた。あっという間に2人は手を伸ばしても届かないほどに引き離されていく。
不可視の力の正体、それはただの空気だった。
当たり前だとも。なぜなら、ギルバート・グリーンは緑色魔力のみを持つごくごく一般的な魔法士なのであって、どうあっても風魔法以外は使えないのだから。
だが、それにしたって。
(クソ・・・いきなり無茶苦茶かよ・・・ッ!!起点すら全然見えなかった!!魔法陣くらい出るだろ普通!?)
空気弾は迅雷の脇腹を捉えていた。彼の欠けた肋骨を補う人工骨が、今の一撃で早くも嫌な軋みを上げていた。苦痛で全身から汗が噴き出す。
戦う前から迅雷の体は限界状態だった。医者には明確にもう二度と激しい戦闘は行うな、と言われるほどに壊れている。肝臓だって半分切除して、気分の時点から酷く悪いくらいだ。
床に転がった迅雷は、しかし、素早く受け身を取って起き上がり、千影の方に目をやった。
「だからなんだっての・・・!千影、大丈夫か!?」
無音のまま風が千影を襲っている。だが、千影は魔力に干渉出来る翼を駆使して直撃を避けながら迅雷に目配せを返した。
迅雷は千影の元へ走る。まずは迅雷の魔力を縛る『制限』を解除する。今の体調でうまく莫大な魔力をコントロール出来るか、そしてそもそも耐えられるのかは不明だが、そんな不安をするだけ無駄だ。アルエル・メトゥとの戦いの方がよほど酷かったはずだ。あの時に出来て今は出来ないなんてこと、あるはずがない。
「左手出して!!」
「ああ!!」
迅雷は全身を大きく使って目一杯に左手を伸ばす。その手首に刻まれているのは、『制限』の刺青に似た青い刻印だ。
だが、迅雷の指先は不可視の壁と激突して千影に届かなかった。迅雷は突き指した痛みで反射的に腕を引っ込める。手をさすりながら睨み返す先ではギルバートが呆れたように微笑を浮かべていた。
「知っていてみすみす君の全力を相手取るほど私は戦闘狂じゃないんだ。悪いがもう休んでいろよ、顔色だって酷く青いぞ」
「この期に及んでまだ言いますか」
迅雷の歯軋りはギルバートにも聞こえていただろう。どんなに大口叩いたって、魔力に枷を嵌められた状態の迅雷ではギルバートに敵いっこない。
壁はどんなものか、迅雷は様子を窺う。千影が回り込めないということは、相応の規模で見えない壁は敷かれているらしい。
思えば、結局迅雷も千影もギルバートの実力の底を知らない。彼の高度な風魔法の数々は、なにをどこまで出来る?
迅雷は、まさかこれでギルバートが全力を出しているとは思わない。ギルバートとアルエルの攻防はこんなにも悠長ではなかった。
分からないなら、今は想像するしかない。過剰でも良い。思い出せ。ギルバートはどんな技を使ってあのアルエルと単騎で渡り合っていたのかを。
(この壁はノーモーションで作ってきた。実は既に閉じ込められているのかもしれない。・・・確かギルバートさんはこの技でアルエルを圧殺しようとした。でも今はそれがない・・・)
どうせ、ギルバートとの戦いを迅雷と千影が切り抜ける手段など彼を出し抜くくらいしかない。残念だがそれが現状だ。場合によっては突っ込むフリしてアリーナから逃げ出すのだってアリアリの大アリの選択だ。それくらい、彼我の戦力差は開いている・・・と思う。
(いや、あるいは―――。なんにせよ、だな)
「『断風』」
迅雷は左手に『風神』を呼び出して、詠唱と共に千影と自分を隔てる壁を斬りつけた。しかし、鋭く整えられた気流を乗せた刃は火花を散らして弾かれる。ビクともしなかった。
分かってはいたが、しかし迅雷はそことは別に気付いたように、左手に残る感触を吟味していた。
それから、壁越しに迅雷は千影に叫ぶ。
「一緒に突っ込むぞ!」
「・・・う、うん!」
迅雷が駆け出して、千影はそれに並ぶ。2人はほぼ同じスピードで直線的にギルバートの懐を目指した。
途中、千影が不可視の空気塊に轢かれたが、すぐに追いついてきた。
迅雷にも、鋭い突風が唸りを上げて飛んできた。突風と言うと、やや印象が異なるか。直撃すれば、吹き飛ばされるどころでは済まないだろう。例えば、腹に文字通りの風穴を空けられる、とか。
恐怖に萎縮しそうになる筋肉を雄叫びで鼓舞し、迅雷は風を纏わせた剣の腹を滑らせるように弾道に差し込んで、突風を撥ね除ける。風は髪の毛数本を引き千切りながら真上へと飛んでいく。
だが、その一方で迅雷は思考を続ける。
やはりそうだ、と。
いいや、迅雷の覚悟とは裏腹に、案外当然のことだったのではなかろうか。
迅雷は千影がキチンと自分の近くにいることを確かめて、両手の剣に魔力を通した。轟音と共に飛来する風の砲弾を跳んで躱した迅雷は、そこで動きを見せる。
「飛べ!!」
迅雷は、いきなり『風神』・『雷神』両方の剣をギルバートに投げつけた。てっきりいつものように接近戦を仕掛けるものだと思っていた千影が、タイミングを外されて素っ頓狂な声を上げている。
すっぽ抜けた勢いで吹っ飛ぶ2本の魔剣は激しく回転し、それぞれに込められていた雷と風の魔力を放出して煌々と輝きながらギルバートに迫る。
でも、迅雷は予想していたはずだ。既に迅雷は目に見えない壁に閉じ込められている可能性を。
ガキンッ!!という音を立てて、迅雷の投擲した剣たちはギルバートの目の前で弾き返された。
そして。
なおもギルバートに接近を続けていた迅雷は跳ね返ってくる鋭利この上ない刃の嵐の間合いに正面から突っ込んでしまった。
「マ、ズ―――!?」
この二振りがどれだけの斬れ味を誇っているか、使用者である迅雷が一番よく分かっている。人間の肉など豆腐のように切り分けてしまうだろう。そのような具体的な想像をする時間的余裕は実際は存在しないが、つまりそれだけの体感記憶に裏打ちされた強烈な死の恐怖が迅雷を襲う。
跳ね戻ってくる剣の軌道は不規則で、思わず避けようとした迅雷はギルバートが設置していた見えない壁に肩をぶつける。それがラストアクション、『雷神』が迅雷の喉元に飛び込んでくる。
避けられないことを確信した瞬間、迅雷は剣のさらに奥の空間、そこから向かってくるものを見て青い顔のまま口の端を歪めた。
直後、迅雷の首を刎ねる寸前の『雷神』も胴体を貫かんとする『風神』も追い越して、猛絶な風が吹き狂った。地面に水平に走った、その特徴的な気流は、元々迅雷に迫る危機に注意を奪われていたこともあってか、千影ですら反応が遅れた。
「竜巻・・・!?」
迅雷や千影が高速移動用に使う『サイクロン』なんかとは比にならない。EFスケールで表すならEF4級の超規模竜巻である。EFスケールについては詳細を省くが、”改良藤田スケール”という単語でググれば、この竜巻が殺人的なんてチャチなものではないことが分かるはずだ。
草の根一つ残さぬ烈風が迫り、千影は咄嗟に鉤爪を床のタイルの隙間に突き刺して地面にしがみつく―――が、それにも関わらず千影の体は無数のタイルごとアリーナの天井付近まで一瞬で吹き飛ばされた。
「わ、ぁ、ぁぁぁぁあああああ!?」
テレビほどの大きさはある頑丈なタイルの吹雪の最中に投げ出されて絶叫する千影の視界の端を、迅雷の姿が通る。彼もまた為す術なく風に吹かれたのだ。
ガラスの割れる音がした。風圧がアリーナのステージと観客席を隔てる強化ガラスの隔壁をぶち破った音だった。信じられない光景である。本来、魔法戦の余波から観客を保護するための装置が、こうも呆気なく壊れるか?
迅雷を包む空気の渦が赤い霞みに変わっていく。ガラスの破片をも呑み込んだタイルの吹雪に全身を刻まれた裂傷と、開いた傷痕、あるいは口からこぼした血液が、重力に勝る風によって迅雷の体を覆うように巻き上げられているのだ。
「いや、ああああッ!?」
自分も同じだけの傷を負いながら、千影は迅雷の惨状に悲鳴を上げた。
その声が、音すら歪ませる暴風の中で迅雷に届いたのかは分からない。
だけれど、確かに、迅雷は笑っていた。千影を安心させようという優しい笑みではない。あれは、勝負師のエクスタシーだ。彼はなにかに勝った。なにかとは、一体なんだ。つまり。
迅雷の口が三音を紡ぐのが見えた。千影にはうまく聞き取れなかった。
だが、千影の能力は速さだ。そして、それを御する彼女の脳もまた、それだけの速度に耐えられるのは当然である。迅雷の表情を見たことで最後の冷静さを取り留めた千影は、今ここに吹き荒ぶ暴風すらそよ風に感じるほどに感覚を加速する。動きが鈍る世界で、入念に迅雷の口の動きを観察し、推察し、考察して。
(『う・し・ろ』・・・?)
体を包む激流の抵抗を受け流すように体を捻り、千影は背後を振り返る。
千影に、迅雷が放り投げた後、風に巻き上げられた2本の魔剣が異様な正確さで迫っていた。
迅雷との連携のために彼と速度を合わせたままでいたら、千影は反応出来ずに刻まれていただろう。しかし、今の千影の思考速度は音をも超えている。
風圧で体の自由は制限されているが、千影はそよ風に乗って飛来する危機をほんのちょっと姿勢をずらすことでやり過ごす。
そこで、次の変化が千影の至近で現れた。頸動脈を肌の上から撫でるように過ぎ去る『雷神』を見送り、脇腹を浅く抉って飛び去ろうとする『風神』―――を追うようにして魔法陣が浮かんだ。
(これは・・・『召喚』の魔法陣?・・・ッ、なるほど、そっか、そういうことなんだね、とっしー・・・!)
かつて、迅雷は敵に対して投げつけた剣を即座に『召喚』で手元に引き戻したことがある。
『召喚』とは、空間の連続性を無視して登録された物品のある場所と手元の空間を繋ぐ魔法だ。つまり、本来あり得ない場所や物に手で触れる術である。
迅雷はいつも『風神』を左手で使っている。
以上の事実から導かれるのは。
千影は翼に力を込め、自身を煽る風に乗って『風神』に並んだ。そして、『風神』にピッタリと張り付く『召喚』の魔法陣から現れた左手をしっかりと掴み取った。
「どんだけ無茶苦茶なのかな・・・ホント、バカなんだから・・・」
笑ったら良いのか、それとも・・・。迅雷と繋がって千影の手は震えていた。その選択は、報われるのか?
千影の指先が、迅雷の左手首に刻まれた『制限』の紋様に触れる。流れが変わる。
「千影なら気付いてくれるって、信じてた!!」
千影の頭上で、轟々と風が渦を巻く。ギルバートの竜巻ではない。抗うことさえ許されないはずの天災に抗って千影の手を掴み取り、神代迅雷はその名の如き力強さで再びギルバートの前に降り立った。