episode6.5 sect2 ”それは二人だけのテロル”
戦いの結末など、火を見るより明らかだった。
「げほっ・・・」
これでも千影はよく戦った方だと思う。
確かに千影は通常の魔法士と比較するのがバカらしいような戦闘能力を有する。しかし、いかに彼女が強いと言っても、ほぼランク7と同格の実力を持つギルバート・グリーンに勝てる道理はない。見えない風に殴られ、弾かれ、打ちのめされ、十数分。千影はギルバートに一太刀を浴びせることすらなく翻弄されていた。
平和のために死ね。
いつだって正しい男がそう言うのに、千影は抗ってしまった。その反抗の持つ意味が、千影が背負わされた架空の十字架をますます大きく重く変えていく。
どうして、今なんだ。なんで、よりにもよって。千影は唇を噛んだ。屈辱的だった。別に千影は人並みの尊厳までをも求めていたわけではない。・・・ないけれど、それでも、ただこの世に生きるだけの、そんななけなしの尊厳すら踏みにじられた。
それなのに、ギルバートの考えはやはり正しいのである。千影自身がそう感じてしまうのである。どこの法律にも存在しない誰かたちの数えるほどの命だけで大きな諍いを未然に防げるのなら、何千何万、はたまた何億の罪無き命を守るために必要な犠牲がたったそれっぽっちで良いのなら―――。
反論した時点で既に、そいつはその瞬間から全世界共通の敵なのだ。
どうせ自分がギルバートに刃向かう様子もどこかから多くの人々に見られているのだろうな、と千影は思っていた。
本当は、どう頑張ったって千影がギルバート相手に10分も20分も食らいつける訳がなかったのだ。それなのにまだ千影の首が繋がっているのは、ギルバート自身が意図的に殺さずに遊ばせているから、なのだろう。そうでないなら、さっき転んだ瞬間にでも空気の箱で囲って圧殺されて然るべきだった。
ギルバートは敵を無意味に弄ばない。千影を軽んじて嬲り続けているのではないはずだ。この戦いが中継されているのなら、むしろ逆。意図的に戦闘を引き延ばし、辛うじて千影でも凌げる攻撃のみを行って、千影にも反撃の機会を与える。死にたくない千影はその一瞬の隙を突かざるを得ない。そしてそれを見た人々は分かりやすくオドノイドの危険性というものを認識することとなる。ヤバイとかコワイとか、そんな大雑把なファーストインプレッションで十分なのだ。市民にそう思わせた時点で趨勢は決している。
言葉も、行いも、そして思いですらも。
千影の全てが、千影を殺すための道具に作り替えられていく。
「そろそろ諦めてくれないか、チカゲ。それとも君はこのまま戦争で多くの人々が無情にも殺されていく時代が来るのを良しとするのか?」
「ッ・・・そ、そんなわけない!!・・・けど・・・」
なんだか、次第に千影は、なぜ自分がまだギルバートに立ち向かおうとしているのか分からなくなってきた。
理由が分からないのではない。千影はまだ生きていたい。この場所で、迅雷と共に。そんなちっぽけな権利すら奪われた悔しさを忘れたのでもない。
でも、だけど、そんな我儘を言うことが許されるのか?
『ワガママってのはさ、自分が幸せになるために言わなくちゃならないんだ』
かつて、迅雷は千影にそう言った。
その言葉に千影は一度救われた。
だとしても、今度ばかりは話の規模が違いすぎる。文字通り世界の命運が懸かっている。例外中の例外だ。千影が抗い続ければ、世界は戦火に包まれ人々はオドノイドを憎悪するだろう。いずれその戦乱の渦は迅雷を初めとして、千影の周囲にいた人間たちをも巻き込み、不幸にすることになる。
「・・・・・・あ、そっか」
そこまで考えたとき、やっと千影は気付いた。
これは別に、迅雷の言葉の例外ということでもなかったらしい、と。
だって、そうじゃないか。
そんなことになって、それでも千影は幸せになれるのか?
世界中から明確に疎まれ、嫌われ、憎まれて、親しかった人たちの日常すら奪い尽くして掴み取った先の人生を、千影は笑って過ごせるのか?
無理だ。
無理に決まってる。
その瞬間、千影の中に芽吹いていた生きていくことの希望に、決定的な亀裂が入った。
抱えていたはずの様々な感情が過去の微笑ましい思い出のように急速に変質していくのを千影は感じていた。
「・・・そうだよね。そんなわけがないよ」
千影は両腕をだらりと下げて、小さく笑った。異質な黒に染まっていた眼球も、おどろおどろしい黄金の瞳も、悪魔の翼も、長く鋭い爪も、しなやかな尾も、全てが元の無抵抗な幼い少女の姿へと戻っていく。
こうしている今も、ギルバートに負わされた数々の傷口はどんどん塞がっていく。
それは力尽きた悪役としての演技だったのか、あるいは己の罪科を認め首を差し出す咎人の姿に自らを重ねたのか。
千影は崩れ落ちるように膝を突き、頭を垂れた。
「思い直す前に、どうかひと思いにやってよ」
「そうか。すまないな。本当に、ありがとう。あの少年には私も誠意をもって謝っておく。君の犠牲は絶対に無駄にしない。―――他に、なにか言っておきたいことはないか?」
「そうだなぁ・・・強いて言うなら、ボク以外のオドノイドたちは許してあげてほしい、かな」
「それは特に、彼と、彼女のことかな?状況的に難しいところはあるが・・・考えておくよ」
仕方のない答えだった。
ギルバートの周囲で明確に空気が動きを変える。千影は静かに目を瞑った。
(ごめんね)
ただ一緒の日常を手に入れるというだけの二人の願いは、もう叶わない。
○
一人で勝手に納得し、死を受け入れようとした少女の思考に横槍を挟むように。
電子ロックで固く閉ざされていた分厚いアリーナのゲートドアが、思わず耳を塞ぐほどの音を立てて吹き飛んだ。
それはギルバート・グリーンが千影に手を下す1秒前の出来事であり、しかし、その1秒後に彼が予定通りの結末へと無理矢理落ち着かせることもなかった。
○
千影は閉じた瞳を再び開き、その一点を凝視していた。
清掃された屋内で塵埃が沸き立つようなことはなく、彼女の目には既にこの処刑場へと踏み入った誰かの姿がはっきりと映っていた。
その誰かもまた、千影のことを見ていた。
その誰かは、とても外出するような服装ではなく、より具体的に言うなら寝間着代わりのゴムが緩んだジャージ姿だった。
その誰かは、千影の正体を知ってなお千影と共に日常へ帰りたいと願ってくれた、千影がもう諦めた夢を一緒に掲げてくれた、神代迅雷と呼ばれる少年だった。
●
迅雷の視線はギルバートへと移る。
「・・・千影から、離れてください」
敬語でこそあったが、迅雷の声は低く落とされていた。そして彼は、ギルバートと千影の間に立った。
距離に意味などないとばかりに肩をすくめ、ギルバートは5歩ほど下がってやった。
迅雷が背に庇う千影の体はどこもかしこも血で汚れていた。どの傷も浅く、既に塞がりつつあるようだが、どうせこれも趣味の悪い演出の一環なのだろう。
―――また、怯えた目だ。
どうして、千影ばかりがこんな目に遭わなくてはならないのだろう。彼女の今の表情を少しでも拡大して映像にしてやるだけで、最低でも世界の半分はなにかを感じただろうに。
死にたくない。生きたい。助けて。
ここにいるのは、そんな言葉ですら、怯えて飲み下してしまう少女だけじゃないか。
「とっしー・・・なんで・・・」
駆けつけてくれたことは―――もう不思議には思わない。千影は迅雷がそうしてくれる人物であることはよく理解していた。
でも、それでも今の彼はどう見たってあまりに傷だらけ過ぎる。覚束なさを隠すような足取りはかえって誰にでも分かる程違和感がある。指で押せば倒れてしまいそうなほどに、その体の芯は揺らいでいる。
けれど、それで心の芯までもが揺らぐことなど、ない。
「立てよ、千影。今更、わざわざ訊きなおしたりなんかしないぞ」
そう言って、迅雷は雷と風の神の名を冠する二振りの魔剣を『召喚』により抜き放った。
「・・・嬉しい。嬉しいよ、来てくれたのは。だけど、これはボクやとっしーのワガママが通るような話じゃないよ・・・」
「分かってる。お前がいなくなれば戦争にならなくて済むんだろ?分かってるよ、そんなことくらい。こちとら寝たきりでテレビ見るかスマホいじるくらいしかやることなかったんだから、もう散々ニュースで見たよ」
「だ、だったらもう諦めようよ!?たとえボクが死ぬとしても、それでとっしーがもう戦争なんかに巻き込まれないで済むなら!ボクはその方が良い!!」
「千影まで折れてどうすんだ?俺は千影の犠牲の上に成り立つ平和なんざ願い下げだっつってんだ!もしそうなったら、その時は俺の方から反IAMO活動だろうがなんだろうが起こしてやる。テメエらの方針はクズのそれだ、魔族なんかよりずっと非道だってな!」
「それはっ、とっしーの発言は、世界中を敵に回すよ!!そんなのどうしたって幸せになんかなれっこない!!」
「なれる!!」
「ッ・・・!?」
少年と少女の、それぞれが抱く想いのぶつかり合いの果てに、少年はそう断言した。
「なれるよ。幸せを勝ち取るためなら、俺は世界にだって立ち向かってやる」
ここに来るまでに。
少年の中に萌芽したその感情は、分厚いコンクリートの大地に咲く花のように、時間は長くかかったが、確かに表出し始めていた。
数ヶ月前の神代迅雷と今日ここに居る神代迅雷は、もう同じなんかじゃない。
たくさんの事件があった。たくさんの人と出会った。そんな中で虚無を知り、そして心の在処を示された。意味を見つけた。
だから、そう言い切った。
千影さえいれば、戦争になってもテロリスト呼ばわりされても構わない、と。
あぁ、ダメだこれは―――と、千影は自分でも状況にそぐわないと分かりながら笑みすら浮かべてしまった。
そして、立つ。
「・・・いつからそんなワガママ大王になっちゃったのかな、とっしーはさぁ。大体、なにそれ。そんなにボクと一緒がいいの?もしかして愛の告白?ロリコンなの?」
「じゃあもうロリコンでも良いよ」
だからさ、と。
「ずっと、一緒だ」
「・・・は、い。・・・・・・・・・はい!」
世界の敵の、目が眩むほどの笑顔があった。