episode6 sect103 ”拾う生、易からず”
「うわ・・・」
一央市立病院に到着した千影は、思わずそう呟いていた。未曾有の危機の後に残された混乱に翻弄され、せわしなく動き回る職員の方がよほど病気のような顔色に見える。だが、それでも彼らが働き続けねばならないほど大勢の人間がこの病院に運び込まれたというのが事実であることなど、言うまでもない。
その様子を見て、直華が母親の服の裾を摘まむ。場の空気に精神を冒されれば、不安に対して過剰に敏感になってしまうのも致し方なしか。疾風は娘の頭に手を置く。
「あれだけの戦いの後だからな。病院が賑わうのは確かに良くないことだけど、まぁ、葬儀屋が予約待ちにならなかっただけ何百倍もマシさ。本当、直華がなんともなくて父さんは安心した」
入り口で立ち尽くしていても時間が無駄になる。疾風は、直華ら子供組3人に、病院内にある花屋で見舞い用の花束を用意してくるように伝えてお金を渡し、それから真名と連れ立って、受付で面会許可証を受け取るための長蛇の列に並んだ。
次から次へとやって来る新しい訪問者によって人集りのような列に埋もれ、2人からは子供たちの姿があっという間に見えなくなった。溜息を吐いたのは、疾風だった。
「・・・実際は、葬儀屋も大概だけど、な」
「あなたが気負うことじゃないわ」
リリトゥバス王国の虎の子、炎の体を持つ双頭の竜にして王国の栄華を象徴する太陽神、アグナロス。彼が、人間界に顕現した直後に放った、たった一条の熱線。吐息ひとつで生み出された破壊は、そのとき既に壊滅的としか言い表せない、おぞましいものだった。陸を引き裂き、山をも貫いたその火線上には、人間が生活していた痕跡など残っていなかった。一央市は当然として、M県すら軽々と越え、隣接する県や、さらにその向こうまで―――あまりにも多くの人々が、この上なく理不尽に殺された。
亡くなった者たちの、一体何人が魔族側の主張していた”禁忌”とやらを関知していただろうか。あるいは皆無でさえあり得るだろうに。なぜなら、それなりに様々な世界を渡り歩き、ランク7の魔法士としてIAMOの深い部分にも触れた神代疾風ですら”禁忌”が具体的になんであるかなど、未だに確信を持てずにいるのだから。いっそ、理不尽に攻撃を行うための口実として後から適当な理由をでっち上げられる「便宜上の表現」だったと言われた方がしっくりくる。
なんと惨いことだろう。今もなお、かの火竜の一撃が残した膨大な魔力は一央市内を漂っており、焼けた大地の上ではその濃密な魔力の影響で大規模な位相歪曲が頻発しており、ようやっと派遣されてきたIAMOの魔法士たちがモンスターの駆除作業にかかりきりになっている。言うまでもなく、行方不明者の捜索活動や復旧工事の進み具合など大したものではない。
疾風は、そうなる前に間に合わなかった。
痛恨極まりない。表現のしようがないほど悔しい。無力さを実感した。世間じゃ”最強”の魔法士だなどともてはやされちゃいるが、どこまで上り詰めても疾風は1人の肉体を持った人間でしかないのだ。その場にいなければ、なんにも、出来やしない。
「それこそ、どこにでも一瞬で行けるような能力が俺にもあったらな―――と思ったよ」
「そんなことが出来るなら毎日家族揃ってご飯が食べれるわねー。ま、それでもあなたは人間なんだから。普通の人間なんだから」
「あぁ・・・分かってるさ、真名。俺は・・・これからも、自分に出来ることで世界に貢献していくんだ」
●
受付を終えた夫婦がロビーで待っていると(ベンチは埋まっていたので見えやすい位置に立ったまま)、ようやく直華と千影、それから慈音が戻って来た。
「お母さん、お待たせ!」
「あらー、なんかハツラツって感じね」
とりあえず元気な色を揃えましたと言わんばかりに色の数に欠ける花束を抱えた子供たちを迎え、真名は首からかけられる面会許可証をそれぞれに渡した。
「ようし。それじゃ行こうか。603号室な」
疾風の先導で、千影たちは真っ白な道程を進む。
擦れ違う悲喜交々。次の自分たちはどちらだろうか。避けては通れない。
いくつかある病棟のひとつの、その6階。病院なんて静かで然るべき場所であることは重々承知した上で敢えて感想を言うと、薄気味悪いほどの静寂が一面に淀んでいた。容態の重篤な患者たちを可能な限り喧噪から遠ざけるために設けられた事実上の隔離空間と言うべきだろう。
エレベータホールと病棟の境目にある防火シャッターの枠の、目に見えない敷居をまたげずにいるうちに、ふと無音空間に波が立った。遅々とした弱い足音だった。肩を抱かれ、顔を手で覆う女性だった。彼女の体を支える少年が、エレベータホールで突っ立つ奇妙な集団にお辞儀をして、自動昇降装置の扉の奥へと引っ込んでいった。
「・・・行こう」
千影は一言、そう言って沈黙を締め括った。
例え、どんな結果であれ、いかなる結末であれ、千影にはそれを知り、受け止める義務がある。それは、迅雷にも。2人の我儘の、2度目のチェックポイント。2人の切望した新しい日常を受け入れるための、最初の一歩を踏み出した。
603号室。
名前は、神代迅雷のひとつだけだった。
戸に手をかけて、千影は10を数え上げていた。背後で互いの手を握る直華と慈音の視線は、千影の頭頂部を掠め、扉の磨り硝子に吸い込まれていく。疾風と真名の、左手と右手が、幼い彼女の両肩をそっと押した。
カラカラと、扉は呆気なく開かれた。
千影は目を逸らさない。どんな現実でも受け入れて、そしてその上で迅雷に「生きていてくれてありがとう」と伝えて抱き締めるために。
「とっしー――――――」
「はい、あーん」
「あ~ん♡」
「・・・・・・・・・・・・・・・あ”?」
・・・なんか、ベッドに横になったまま巨乳で美人なナースさんに餌付けされながらだらしなく鼻の下を伸ばしているクソ浮気野郎がいた。
千影は目を逸らさない。
クソ浮気野郎は、部屋の入り口からした音に気付き首だけを動かして、そして千影と視線が合ったところで目を輝かせた。
「あ!千影!来てくれたヒィッ!?」
「オイとっしーさんや」
手に持っていた元気カラーの花束を迅雷の顔面に直接お見舞いしてやった千影は、にっこり笑って花に彩られた迅雷の引きつった顔を覗き込んだ。
「な、なんでしょう、千影さんや・・・?」
「うまいか?ぽっと出の乳がデカいだけのオネーサンに食べさせてもらう病院食はうまいんか?お?」
「いやあの、なにをそんなに怒ってらっしゃるのでしょうか・・・」
「むっきゃーッ!!失血のショックで自分の性癖すら忘れちゃったのかな!?年上の女にデレデレしてさぁ!!毎晩ボクを抱きながら寝たあの日々を思い出せぇぇぇい!!」
「ぶっふぁぁぁぁぁ!!おまっ、そういう誤解を招く言い方す―――」
「この浮気者ぉ・・・」
噴飯(物理、ただし笑えない)して千影とその他看護婦さん含む女性陣の顔を見比べる迅雷だったが、その次の瞬間には千影に覆い被さられるようにして、抱き締められていた。
「ヘラヘラしちゃってさ・・・。ボクが、ボクたちが、どんだけ恐かったかも知らないで・・・」
「・・・」
慌てて千影を迅雷から引き離そうとする看護婦を、迅雷は視線で止めた。
「千影、ごめんって。でもさ、仕方ないんだ。俺、今さ、自分で寝返り打つことすら出来ないんだ」
苦笑する迅雷の顔に浮かんだ汗がただの冷や汗ではなかったから、千影は迅雷の体を放した。腕の血管になにかのチューブを繋げられ、迅雷は手の自由すら利かない様子だった。こうして笑っていても、迅雷の体は依然として壊れたままなのだと理解した。少し強く抱き締めただけでも、今の迅雷は気を失うかもしれない。
生気の薄い千影の顔から、迅雷は視線を床に落とした。
「足、ちゃんと治ったんだな。良かった」
「うん。まぁ、そういう体質だからね。ボクの方は4、5日くらいで元通りだったよ」
「そっか。ちょっと羨ましくなるな」
「あんまり、良いものじゃないってば」
「・・・。なぁ、千影。俺たち、ちゃんと生き残ったんだよな。あの戦いで」
「うん。ちゃんと生きてる。ボクも、君も。・・・・・・ありがとね」
「・・・?」
唐突な礼に、迅雷は少し戸惑った。だが、なんとなく千影の言いたいことが分かった気がして、小さく息を吐いた。
「それを言うなら、俺もそうだよ。ありがとな、本当に」
迅雷は、千影の後ろに視線をやった。初めは千影の暴挙に顔を青くしていた直華と慈音だったが、ひとまず落ち着いた様子だ。
「えーと、久し振り・・・?なんだよな?」
「1週間ぶりです。・・・1週間ぶり、です」
なぜか敬語で、しかも2回も言って強調する直華。瞳に映る光が小刻みに揺れている。慈音もそうだ。結局、迅雷はまた心配をかけてしまったわけだ。反省を生かせない、馬鹿で不甲斐ない兄貴または幼馴染みである。
「本当は恐かったし、寂しかったんだから。1週間ずっと」
「そりゃそうだよな・・・心細かったよな。本当に・・・。ナオもだけど、そういや・・・安歌音ちゃんと咲乎ちゃんも置いていっちゃったわけだし、2人にも謝らないといけないな・・・」
迅雷は、直華の友人2人のことも思い出して肩を落とした。もっとも肩を落とそうにも寝たきりでは出来ないのだが、さらに直華は迅雷に追い打ちをかけるように付け足した。
「2人のお父さんとお母さんにもね」
「うぐっ」
全くもってその通りである。忘れてはいけないのが、元々成り行きとは言え、迅雷は電話越しに女子中学生2人の安全を、彼女らの保護者に任せてもらった身の上だったのだ。・・・なんというか、安否に関わらず絶対に許してもらえない気がする。
「ナオ・・・俺のせいで2人の家と関係悪くなりそうだったら俺が全部責任持つから嫌いにならないでぇ・・・」
「ふーん?具体的にどうしてくれるのかが楽しみですねー。まったくもう」
直華の深い溜息で迅雷はみるみる萎んでいく。もっとも、直華とて自分の兄を糾弾しようと思って見舞いに来たわけではない。
「まったくもう。そんな心配、今は要らないのに。真牙さんとか、慈音さんとか、みんな助けてくれて、全員無事だったんだから。お兄ちゃんだって千影ちゃんが大切だったから決断したんでしょ?私、ちゃんと分かってるから。それに、ちゃんとお兄ちゃんも帰ってきたから、良かったって思う」
千影のために必死で頑張る兄を見送ったから頑張れた。なにかを掴んだ兄に憧れて少しでも近付きたくて。だから、少なくとも直華の結論はそういうものだし、それで良いのだろう。
「あぁ~、ナオ様マジ天使・・・」
「ま、真面目に話してるんだから茶化さないでよっ」
「ごめんな、本当。ナオはそう言ってくれるからさ、甘えちゃうんだよ、俺。しーちゃんも、ありがとう。色々任せちゃったよな」
「ううん。気にしなくて良いよ。それよりさ」
慈音はゆるゆると首を振って、それから迅雷と千影をそれぞれ見て、微笑んだ。ひょっとすると、この数ヶ月間最も迅雷を支えてきたかもしれないその微笑と共に、彼女は問う。
「としくん、やり遂げられた?」
「おう」