episode2 sect15 “『計画』“
「彼はダメです」
――――――神代迅雷は、駄目だ。
●
瞬間、なにかがプッツリと途切れた気がした。
ここを堪えてはならない、と声なき声が叫んだ。憤怒が頭蓋を内から打つ。
気が付けば、武器を手にとってドアを蹴り開けていた。突沸した感情は、あるべき人格を捨て置くかのように表出して暴力という形で世界に還元される。
「テメェ!誰がダメなんだよ、あァ!!もう一度言ってみろ、真っ二つにしてやる!!」
安い脅しなどではなかった。少なくとも、その瞬間だけは彼は本気であった。鞘から薄く煌めく鋭い金属が抜かれて、刀身に映る彼の瞳には並々ならぬ怒りが宿っていた。
その体からは、得体の知れない重圧すら感じた。得体が知れないのは、きっと平穏に暮らしてきた人間なら感じることのない殺意という重圧だったから。
怒気を厚く纏った叫声は暗がりの広がる深夜の廊下の奥まで響いた。
ただ、叫んだ少年は、迅雷ではなかった。
怒り、刀を抜き、扉を蹴り開けて、怒声をまき散らしたのは、|真牙だった。
「あ、阿本君・・・!?ど、どうしてここに?」
なにもかもあり得なかった。阿本真牙はここにはいなかったはずだ。彼だけではない。ドアの向こうには2班だった生徒たち―――――神代迅雷本人までもがいた。聞かれていた。あり得ない客人の襲撃に、振り向いた真波が目を剥いた。
それに、ここで敢えて彼が、彼らがこの場にいたことを肯定したとして、そもそも真牙がここまで自分たちに怒り、いや、殺意を向けてくる理由が見当たらない。違う。分からないわけではない。迅雷を否定したことが真牙の気に障ったのだろう。
だが。しかし。なぜ。どうして。そこまで。
完全に想像もしていなかった事態に真波は混乱を極めていた。
「阿本、落ち着け!どうしたんだ!?」
煌熾が咄嗟に真牙を取り押さえようとしたが、真牙は煌熾の手が届くより先に彼の鼻先に刀の鋒を突き付けた。一瞬だった。
「アンタじゃない。すっこんでろ。で、オイ。誰だ?アイツのことダメっつった野郎はよぉ!」
普段の真牙からは想像できない、ドスの利いた声だった。煌熾に振りかざした刀にも迷いがなかった。あと一歩煌熾が前に出ていれば、その鋒は彼の鼻を抉っていた。
「阿本君、刀を下ろしてください!そういう意味じゃないんです!違うんです!」
由良が涙目になりながら真牙に縋るようにして押さえにかかろうとしたが、真牙は片手で彼女の小さい体を打ち払った。刀を向けなかったのは、最後まで迅雷を擁護しようとしてくれていた由良へのせめてもの譲歩だった。
「アンタも違うんだ。下がってろ」
真牙の怒号は留まるところを知らず、沸々と熱を増して低く太く深く重圧を増していく。
『おやおや、思った以上に乱暴だねぇ。それにしても、うん、まずいねぇ』
間違いない。あの声だ。初老の男の緊張感のない声。
だが、声はするのに姿がない。
真牙は窓辺のテーブルに立てられているタブレット端末に視線を投げた。
そのまま、刀を肩に乗せてタブレット端末に歩み寄る。
「アンタかよ、教頭先生」
徐々にだが真牙の刀に魔力が通されていくのが見えた。テーブルどころか床までまとめて一気にタブレット端末を斬り裂くつもりらしい。今の彼ならそれも躊躇いなくするだろう。もしかすれば、間に入った人間すら斬り捨てかねない。
さすがに、これを止めないわけにはいかない。
「ま、待て待て!待て真牙!・・・この、待てって言ってんだろ!」
迅雷は一息に真牙に駆け寄って、彼の肩を掴んで思い切り引き戻した。急に予想外の力を受けた真牙が、今までの様相からは想像できないほど小気味良く背中から転んだ。彼もまさか迅雷本人に止められるとは思っていなかったのだろう。
「ぐあっ!?なんで止めんだよ!本当ならお前が一番頭に来てなきゃおかしいだろうが!!」
「来てるさ!来てるけどな、まずは一回落ち着け!・・・暴れたってなんにもならないだろ。叫べば叫ぶだけ人が集まってくるだけだ。見世物じゃねぇだろ」
迅雷の後ろでは、涼も光も、そして気が強いはずの矢生さえもが真牙に恐怖にも似た視線を向けていた。当然だ。隣で一緒に盗み聞きをしていた彼女たちだって、あの一言で真牙がここまで豹変して憤怒するなどとは思っていなかったのだから。
「・・・っ!?・・・分ぁったよ、くそったれが」
タブレットの画面に映る教頭のにこやかな顔を一瞥だけして、舌打ちと共に真牙は刀を鞘に収めた。頭にくる笑顔だった。ダンジョンで出会ったあの青年のニヤけ面とはまた違う気色悪さだ。
単に年の功、こうなることも想定していたかのような余裕の笑みだ。
「随分と大人なんだな」
迅雷の背中に呟きを投じたのは昴だった。迅雷は首を振る。
「そうでもないさ。ただ、ダメとか役立たずとかは慣れっこだからさ・・・。そういう昴こそもう少しリアクションしてくれても嬉しかったんだけどな」
「無関心で悪かったな」
昴は気怠げに頭を掻いて、大きなあくびを1つする。彼に悪びれる様子はないし、迅雷が別に昴に本心から自分のためになにか言って欲しいなんて思ってはいないことも分かっている。
ただ、彼とて本当に1日死地を共にした迅雷がダメ呼ばわりされても一切なにも感じなかったわけではない。そこまで無関心に生きていられるほど人間が出来上がってはいない。
迅雷は真牙の横を通り過ぎ、彼の前に1歩出てタブレット端末の画面に向かい合った。
「まず質問、1つだけ良いですか、教頭先生?」
確かに変な気分ではあった。不思議と、迅雷の心は穏やかだった。怒りがないわけではないのだが、しかし彼の心は水を打ったように静かだった。
画面の先で教頭は未だににこやかに笑っていた。迅雷にはその顔が優しくも見えた。教頭の発言の真意は分からないが、少なくとも今の彼の顔だけを見ればそう見えなくもない。
『なにかな?神代君。私に答えられることならなんでも答えてあげるからねぇ。遠慮は要らないよ。私も教師だからね、生徒の知りたいことは教えてあげたいんだ』
「テメェ、どの口が言いやがる・・・」
「真牙、いいから」
ただのデジタル画像に食ってかかる真牙を迅雷は片手で制する。それから一言、簡潔に尋ねた。
「『計画』って、なんですか?」
『・・・。・・・なんの計画かな?―――――なんて言っても意味はないんだろうねぇ。どこから聞いていたのかは分からないけど、うん、そうだねぇ。ちょっと早いような気もするけど。うん、「計画」については教えるつもりはまだないよ』
「なんでですか!?そんなの変ですよ!」
そう言ったのは涼だった。大人の理不尽には反発せずにはいられない。
『変もなにもないさ、これは』
しかし、教頭は画面の向こう側で少し困ったような顔をするだけだった。多少の罪悪感も感じられないが、形だけ申し訳なさそうにしているのが目に見えて静かに刺々しい。
それから、教頭は少し考え込んでから話し出した。
『まぁ確かに、もう潮時なのかもしれないねぇ。なにせ聞かれてしまったのだしねぇ。あんまり気乗りはしないけど・・・仕方ない。志一志田先生、一ノ瀬先生。後はお二人の判断に任せます。私はそろそろ次のようがあるのでねぇ。では、お休みなさい』
結局丸投げのような形にして、教頭はビデオ通話を切ってしまった。
通話が終わって真っ黒になったタブレットの画面を見て、涼が驚愕の声を上げた。
「な・・・!?逃げたの!?信じられない!」
「いや逃げたわけじゃないでしょ。あの余裕っぷり的に本当に次のお仕事なんじゃねぇの?」
昴は適当に涼の考えを正してから、真波の方を向いた。あくまで関心のなさそうな表情や目を装っているが、ここまで来たら彼も事態をなかったことにするような真似はしたくない。
最低限の質問には答えてもらわなければ虫が治まらないというものだ。
「他校の俺はカンケーないとは思うんですけど、まぁその、どういうことかって、その辺くらいは聞いときたいんですけど?」
まだ剣呑な空気を漂わせる真牙と涼や、彼らを宥める迅雷、そして理解が事態に追従しきれずドアの前でフリーズしている矢生と光に代わって、昴は前に出た。
「はぁ・・・仕方ない、か。分かったわ。『計画』について、教えます。・・・これは私たち教師の・・・いえ、きっと豊園さんや焔君たち、ここにいる2,3年生のみんなの悲願を叶えるための『計画』なの」
そして、それは明かされる。
迅雷たち6人は真波の口に集中し、初めからこの部屋にいて話はすべて知っている由良や萌生らは真波にすべてを任せて目を伏せてなにも言わない。様々な緊張感が雑多に張り詰めていて、身動きを取るのも息苦しいほどだ。
「『計画』。・・・それは。その到達点は」
そう。それは――――――――
「『全国高校総合魔法模擬戦大会』での優勝」
『・・・・・・へ?』
見事に気の抜けた声がハモった。聞き間違いだろうか?それは確かに大層な話だが、あれだけ勿体ぶっていたのは一体なんだったというのだろうか。いやいや、優勝したいなら優勝するのが目的なんですとすぐに言えただろうに、よく分からない。テンション的にもっと壮大で、いろいろ犠牲を払うような良からぬ企みだと思い込んでいた。
「あのー、センセ?今なんて?」
今までの凶行から一転して完全にアホ面となった真牙が、思わず真波に聞き返してしまった。だがしかし、真波は至って真剣に言い直すのだから、どうしようもなく聞いたまんまのようだ。
「『高総戦』の全国優勝よ」
誰もかもが開いた口が塞がらなかった。ここまでして聞き出したのがオープンキャンパスで配布する学校のパンフレットにでも書いてありそうな目標だったのだから、なにも言えないし、なにも言う気にもならない。
しかし、真波はそれでも依然として真面目な顔で語り続ける。表情の真剣さは、由良も萌生たちも同じだ。
「あなたたちも知っているかもしれないけど、マンティオ学園は今のところ3年連続で『高総戦』全国2位よ」
「2位じゃダメなんですか?」
「ダメよ」
「知ってた」
迅雷がぼそっと呟いたのだが、その蚊の鳴くような声にも真波は敏感に反応して真っ向から叩き潰してきた。どこまで真剣なのか、変なところでよく分からせられた気がした。
「今年こそ、私たちはオラーニア学園を全国一位の座から引き摺り下ろし、その頂を極め、私たちの威厳を世に知らしめなくてはならないのよ!」
オラーニア学園とは日本にある国立魔法科専門高等学校で、マンティオ学園とは双極を成す存在である。良くある言い方をすれば、東のマンティオ西のオラーニアである。ちなみにオラーニアは西と言うほど西でもないのだが、そこは気にしてはならない。
過去3年間、オラーニア学園は高校総合体育大会、つまり高総体の魔法模擬戦版みたいなものである『高総戦』で全国一位に君臨し続けている強豪校であり、事実あそこの生徒の戦闘能力は総合的に見てもマンティオを上回っている。
「今年こそアイツらの鼻っ柱をへし折ってやるのよ!んね、みんな!」
だんだん1人で盛り上がってきた真波は、後ろを振り返って萌生や煌熾たちに同意を求めるべくにこりと笑う。所謂、笑顔の脅迫、恐い笑顔である。彼らも真波の意見に賛同しないわけではないのだが、教師陣ほどガチではないので苦笑いは必至である。引きつったやる気フェイスを整えて、萌生は返事をする。
「え・・・ええ、今年こそは私たちが天下を取りましょう!」
「今年はこれ以上負けると俺の尊厳も怪しくなりますしね」
「焔君それ気にしてたんだ・・・」
他4人のインストラクターの生徒たちも口々に賛同の台詞を(半ば強引に)言い、それを聞き届けた真波は満足そうに頷いて迅雷たちの方を向き直った。なにがしたかったのだろうか。
「・・・と、いうわけよっ!」
「いや待って!?『と、いうわけよっ!』じゃないでしょう!?俺がダメな理由は!?」
「ぁ」
「あ!?忘れてたよね、熱くなりすぎてそのこと忘れてましたよね!?」
言えと言ったわけではないが、言わないで話を終わらせることはあり得ないと信じていた。結局、最後まで言わなかった。で、最終的になんだったというのか。
結局、迅雷は取り乱したのだった。
「はぁ。志田先生、あとは私が説明しますんで大丈夫ですよー」
由良が溜息交じりに真波を押しのけて強引にバトンタッチした。
真波を押しのけた由良は、迅雷に申し訳なさそうな顔をしながら説明を始めた。説明と言うよりは、どちらかというと言い訳にも似た弁解といった方が近いかもしれない。
「神代くんがダメだって教頭先生が言っていたのは、なにも君が根本的に戦力外だって意味じゃないんですよ?それなら君がライセンスを取ってここにいる道理がありませんからね。君は今の1年生の中でも十分に優秀な生徒です。先生たちはみんな神代くんの成長には期待してます。これは嘘なんかじゃないです」
由良はそこまで言ってから、躊躇ったように口をつぐんだ。なにか言いづらいことでもあったのだろうかと迅雷が首を傾げる。
しかし、少し考えて迅雷はこの件の結論に思い当たった。
ちょっと前にも見たような、そんな光景。迅雷は今度こそ、穏やかに話しに耳を傾けることにした。由良に、続きを促す。
「なら、どうしてですか?」
「それは、その・・・君の左手の・・・」
やっぱり、と言うのが正直な感想だった。やっぱりこれが原因だった。そして、やっぱり安易に怒らなくて良かった、と。なんとなく予想の範疇にあった理由だったので、迅雷には驚きや心痛はない。
この場にいる人たちの中で迅雷の左手首に刻まれたそれについて知っているのは、本人を除けば教師2人と真牙くらいのものだった。よって、それ以外の全員は意味が分からないという顔で迅雷の左手に注目する。
迅雷は浴衣とリストバンドで二重に隠されている左手首を右手で軽く触れ、それから1つ、息を小さく吐いた。
空気を見た由良は話し続ける。
「私たちが今欲しているのは、成長に期待が出来る生徒・・・ではないということです。万全の力が振るえない生徒も、です。今夏までに選抜し、より集中的に強化するのは、あくまでも即戦力以外の誰でもありません。もちろん他の生徒の指導に手を抜くような真似はしませんが、どうしても『高総戦』の勝利のためには実力の優劣に基づいた優先度が顕著に出てきてしまうんです」
由良の口から紡がれた大人の都合に、誰もなにも文句の1つも言わなかった。話者の表情を見ていれば、せめるところなど残っているはずもなかった。
それに、そういった類いの話はスポーツだろうが、勉強だろうが、良くある話だ。より優秀な人材は、優秀であるうちに更なる高みへと誘導するものだ。部活で全国大会に行ける生徒は、顧問が付きっきりで指導をすることもある。受験で難関大学に行けそうな生徒がいれば、学校の教師も塾講師も全力でサポートする。これは、基本的に顧問や教師、塾講師たち――――――つまりその所属する団体の利益のためである。今更卑下されるような戦術ではないのだ。
しかし、由良が申し訳なく思ったのはその程度が甚だしいものになるからだった。
学年などは問題ではなく、考え方から言ってしまえば実力があるなら経験やライセンスの有無すら、選考基準には入らないとすら言い切ることが出来るようなものだ。
ただただ、今この瞬間、この枠組みの中において、強者たるものが必要とされる。
大樹も若葉の時代に踏まれれば容易に倒れる。水を奪われた船は浮かばない。どこへも行けない。金があっても使えなければ、ただの錘にしかならない。
「私も残念ですけど、今の神代くんに本戦――――――全国に行けるだけの力があるかは、知れた話です」
「・・・ま、そんなことだろうと思いましたよね」
「怒らない・・・んですね」
迅雷はまだ穏やかだった。別にこの程度のことは、この前ギルドで千影に足手纏い呼ばわりされたときの気持ちと比べれば可愛いものだ。それに、そもそも『制限』が外れたところで今度は自滅するだけ。もしかしたら、と思う気持ちもあるにはあるが、試合が1日で何回もあった日には体が保つとも思えない。結局は、どちらにせよ戦力外といったところだろう。
「その術式、煩わしいとは感じてないんですか?」
由良はまるで、少しは教師の理屈に反抗して欲しいと言っているようだった。
しかし、愚問。
「いやいや、助かってますよ?アイツにもこれっぽっちの恨みもないですから」
アイツ、というのはきっと由良には分からないだろうけれど、迅雷は言っておきたかった。千影には感謝している。命の恩人なのだから、当たり前だ。それに、『制限』の解除も彼女に頼めば一時的とはいえ可能であり、実際何度か魔力慣れのために外したことはある。
「それに、由良ちゃん先生はそういう『大人の事情』みたいなのがあんまり好きじゃないみたいですけど、俺はああいうのって結局は最善の一手であることが多いと思うんですよね。文句を言ったところで、もっと良い手段が考えつくのか?考えたとして実現するだけの器があるのか?実現できるだけの器があったとしてその手段は現実的に可能なのか?そういうことですよ」
つらつらと言いながら、自分の妙なところでのリアリストっぷりに舌を巻く。案外迅雷も自分が思っている以上に醒めているのかも知れない。ただ、それでもこれは本心だ。
迅雷は浴衣の袖を捲り、リストバンドも外して、その下に刻まれた深い紺色、痣のような色とでも言えるかもしれない紺色の紋様を眺める。
「神代、それはなんだ・・・?」
先ほどから迅雷の左手を注視していた煌熾が、その手首に刻まれていたその奇怪な紋様を見て訝しげに尋ねた。
しかし、迅雷は笑って誤魔化した。事細かに喋ってしまえば、目的如何に関わらず千影は犯罪者だ。
「企業秘密です」
「なんだそりゃ・・・。まぁいい。分かった。これ以上はなにも聞かないさ。すまない」
「あぁ!すいません、焔先輩が謝るようなことじゃないんですって!」
急に煌熾に謝られてなんだか逆に申し訳なくなった迅雷が慌てて謝り返したところで、真牙が数分ぶりに口を開いた。
「なぁ・・・迅雷」
「ん?どうした?これで分かっただろ、お前がわざわざ怒ってくれるようなことじゃないんだって」
「あぁ・・・分かったよ。よぉーくな。だけど・・・」
そうは言っているが、迅雷には未だに伏せられたままの真牙の顔は見えないので、彼の心情は読み取りにくい。ただ、わななく肩の震えだけは見えていた。
「真牙・・・」
「オレのプッツンを返して!?」
瞬間、時が止まったような気がした。
「ねぇそれって今現在の迅雷が学校の戦力としてはイマイチってだけで、根本的にカスウンコだって言われてたわけじゃないってことだよね?だったんだよね!?」
「今ダメより酷い言われ方されたような気がする」
「ああああっ!!ダメだ、恥ずかしい!勘違いして本気で怒っちゃったとか!キャーッ!切腹したいでござる!」
真牙の恥辱にまみれた甲高い声が、また廊下の奥まで響いた。先ほどの怒声と違って威圧感がないただの馬鹿騒ぎに、今度こそ廊下の方からドアを開けて様子を見に来る人たちの足音が聞こえてきた。
―――――本当に切腹して欲しいでござる。
●
5月1日、午後11時、一央市繁華街にて。
とある居酒屋には、賑やかな店内においてさらに一際やかましい男が2人。3軒目で、もうなかなかのテンションのようだ。いい大人2人が注文するものも喋っていることもなんだか適当で馬鹿な感じしかしない。
「かーっ、やっぱこれはビールに合うなぁ!よっしゃ、もう今日はビールだけでイイや!うはははは!」
「おい紺!俺のビールまで飲むな!ねぇなら注文しやがれ!」
紺色の髪の青年と、格好はラフなものの理知的な雰囲気の男。
「まぁまぁ、そうかっかすんなって!おーい、お姉ちゃん!ビール、瓶で3本くらいちょーだーい♡あっはっはははは」
紺がバイトの女の子に注文を出しながらその高校生くらいの少女の体をイヤらしい目で見るので、バイト少女の方は引きつった顔で「承りました」とだけ言って逃げるように厨房の方へ言ってしまった。紺のテンションは既に完全にヤバイ人にしか見えない。いや、「ヤバイ人」で間違ってはいないのだが。
「おいおい、そのニヤケ面で舐め回すように見てやるなよ。まだあの子高校生くらいだろ?」
「この顔は素みたいなものだから仕方ないんだよーん!つか研ちゃんなら知ってるだろーが。うん、JK。見る分には素晴らしいよね。ホントイイ。お触りは、まぁどっちでもイイけど。あ、来た来た」
バイト少女は注文の品を持ってきて、紺の顔を見るなりすぐまた逃げるように他のテーブルへと行ってしまった。お触りが出来ることを前提みたいに喋る紺に生理的嫌悪感でも感じたのだろう。
「ありゃりゃ、研ちゃん!嫌われちゃったよ、あっひゃっひゃっひゃ!」
「それだと俺が嫌われたみたいじゃねぇか!」
「え?ちゃうのー?」
喧嘩を売っているとしか思えない紺の顔。研の脳内でプッツンという音が聞こえた。喧嘩の合図だ。
研が無言でトレーナーの裾をたくし上げて拳を握ったのを見るなり、紺も口元のニヤつきを深くする。
「お、やるかい?」
「・・・・・・ッ!やめだやめ、これ以上の悪目立ちは酒には合わねぇよ。そもそも腕っ節は弱いんだよ、俺ぁ」
椅子から上げかけた腰を再び落ち着かせる研。紺が「ちぇ」と言って瓶を開けるのを見て、なんとかなったと内心ほっと息をつく研。取っ組み合いで彼に勝った奴なんて、片手で数えられるくらいしか見たことがない。もちろん研もその片手の外だ。
研は話題を変える。
「で、それはなに?」
先ほどから紺が美味しそうに食べているそれを見て、研はドン引きの目を向けることを厭わなかった。完全に正体不明である。アレは人の食べるものではないと本能が叫んでいる。近くに人・・・というか店員すら寄ってこない理由の50%はそのおつまみ(?)のせいだと言っても過言ではないだろう。
「ん?やっぱり食べたくなったの?イイよ、ほれ」
「いや、いらな・・・あ!?マジやめっ、緑色の液体が垂れ・・・たじゃねぇかこの野郎!死ねこのカス!」
研がその謎のなんか緑色の液体が滴っている食べ物を渡そうとする紺の手から唐揚げを守ろうとしたのだが、一歩遅く、唐揚げには緑色の液体がべっとりと垂れかかってしまった。もうこれは生ゴミ決定である。可哀想な鶏さんには黙祷を。泣き叫ぶ研だったが、紺は気にする様子もない。
「ちぇ、ツレネーなぁ。こんなにウマいのに」
美味しくても絶対食べたくない。まだウンコ味のウンコを食べた方がマシな気さえする。野菜のソースです、と言われて安心と信頼のレストランで出されてもきっと食べない。だって緑色のスライムを垂らしたようにしか見えないのだから。死ぬ。絶対食べたら死ぬ。
結局、紺はつまんでいた例の謎のおつまみをひょいと口の中に放り込んでから、緑色の液体がかかって廃棄が決定した唐揚げも食べてしまった。
そのおつまみは、見た感じはイカの刺身みたいな白くて弾力のありそうなものだったのだが、しかし色は白と言っても少し黄色がかっていて、そのうえ正体不明の毒々しい緑色の粘着質な液体で覆われている。
どうやら紺はそれを、元々大きななにかから細かく千切って食べているようである。ただ、彼は『召喚』を使って空間越しにそれを取っているので元の大きさが分からない。それでも店内に持ち込めないほど大きいことは察せるのだが。一応紺の展開している『召喚』の魔法陣の中を覗けば分かることなのだが、わざわざ見たいと思うようなものでもない。
「で、紺。それホントになに?なんなの?食いたくないというか生存本能が全力で拒絶してんだけど」
研に尋ねられて紺は何の気なしに答えた。
「あぁ。今朝ダンジョンに行ってさ、気晴らしでもしようかな、と思ってさ。ほら、一央市はギルドがあるし。したらさ、なんかデッカいタマネギみたいなのがわんさかいてよ、試しに殺って食ってみたらこれがなかなか」
なんで目に付いたモンスターを試しに殺して食うのか、一般人でもそうでなくても疑問に思うところだろう。本気で意味が分からないが、よく考えたら紺に限っては珍しい行動でもないので、もう研はそこについて考えることをやめた。それに、紺にはそういった栄養摂取はある意味必須である。
「タマネギ?デカいのか?」
それと、ここまで聞いていた時点で研はあるイヤな予感を感じていた。デカいタマネギみたいなモンスターどこかでチラッと資料を見たような気がする。なんのときだったかはもう覚えていないが、チラッと聞いた情報でもキモかったので考えるのをやめた奴だ。
確か、それは―――――
「なぁ、そいつって3枚に先端開いたり、エリマキ付いてる触手が生えてたりしたか?エリマキって言うと、エリマキトカゲみたいなやつなんだけど」
「あぁっと・・・うん、開いてたし生えてたりしたな」
「やっぱ絶対食わねえからな、それ!俺はまだ死にたくねぇ!」
紺は死ぬとはまた大袈裟な表現だな、と思った。まさか美味しいものを食べた感動で死ぬというわけではないのだろうけれど、それならきっと食中毒みたいなものだろう。よく分からないが、まぁ紺には無縁のものだ。たまにカビゴンとか言われることもあるし。
キョトンとする紺に研は溜息交じりに説明を続けた。酔いが一気に醒めてしまったので、頭の回ること回ること。記憶が結構しっかり残っている。
「あのな、それ刺身の1枚でも楽しんだらどんなに頑丈な人間でも1ヶ月は病院で寝たきりだぞそれ。お前ホント馬鹿かよ」
確かそのタマネギもどきの肉には、人間の体に入ると強烈な神経毒として働く成分があったはずだ。十数年前だったかは、どこかの国の首相を暗殺するために使われたとかなんとか。
しかし、紺はポカンとした顔のままチュルッと口に咥えていたそれを吸い込んでしまった。彼にはまったく危機感というものがない。そもそもあれだけ食べていたので手遅れではあるのだが。
「モキュ・・・、へぇ。それじゃ、俺かあいつくらいしか食えねぇな。ざーんねん」
「あいつでも分からないな、それは。お前がおかしいだけだろ・・・。今度血液検査しても良いか?なんか興味沸いてきたわお前の体」
「いやん♡」
身をよじる紺は無視。研は命を賭けても男の裸に興味なんてない。
それにしても、本当に紺の体はどうなっているのだか。本来なら彼女はともかくとして紺ももちろんアウトなはずなのだが、それがこれだけ大量に頬張ってもケロリとしているとなると・・・。
そこまで考えて、研は俄然研究意欲が沸いてきた。本当なら指の1本、内臓の1つでも取って調べてみたいところだっただが、それはさすがに僅かに残る良心が痛むのでやめた。この青年はお偉いさん方でさえ扱いに困るのだから、あんまり研究しても知識欲が満たされるだけである。
「あ、そういやさ」
話の区切りを察したのか、紺は新しく話題を挿してきた。
「今日行ったダンジョンでさ、たまたま学生の連中に遭ったんだけどさぁ」
「たまたま?嘘こけ。ちょっかいかけたかっただけだろうが」
「んなことねぇって、へへへ。・・・んでさ、面白い坊主に会ったよ。イイ匂いしたぜ?」
イイ匂い。鼻の利く紺がそう言ったのだから、そうなのだろう。
急に研も興味深そうな顔になった。この話は恐らく、真面目に聞いておいても損はないと判断した。
「へぇ・・・どんなガキんちょだった?」
「黒髪で目とか鼻の辺りとかがちょっと中性的でさ、ちょっとカワイイ顔してたぜ?アッハハハ!アレが神代疾風のお坊ちゃんだろうね。似てたし。いやー、俺の顔見てビビりまくっててさ!ハハハッ、愉快だったぜ?」
「お前の面見て恐がんねぇやつがいるかよ」
人の感情が無さそうな貼り付けた薄ら笑いを、研は眺めた。
元話 episode2 sect35 ”『計画』” (2016/9/14)
episode2 sect36 ”大人の都合と正論” (2016/9/16)
episode2 sect37 ”次元が違う” (2016/9/17)