episode6 sect85 ”命の糧”
「ごほっ、げぼっ」
胃液と血液のノンアルコールカクテルを贅沢にぶちまけた。呼吸が出来ない。肺がどうも普通と違うところにズレてしまってどこにあるのか分からない感じだ。
ザリリ、と、足音が3つ。
「互いの位置を瞬時に入れ替える術だったか」
「どこまでも厄介な小娘だ」
「人間界にはこんなのがたくさんいるのか?」
涙で滲む歪んだ視界ながら、迅雷はそれでも目を疑った。腹を殴られた鈍痛で幻視を起こしたわけではなかった。
アルエル・メトゥが、3人いた。
「身・・・体強化じゃ、ない・・・?」
「なに?まだしゃべれたのか・・・頑丈な人間だな。いや、単に魔力による肉体強化が異常なだけか」
アルエルたちの1人が迅雷の頭を鷲掴みにして、持ち上げた。迅雷よりずっと身長の高いアルエルが掴む腕を高く上げれば、容易く迅雷の両足は地面から離れる。並々ならぬ握力を受ける頭蓋が軋みを上げる。迅雷が呻いても、アルエルは加える力を緩めることはしない。
「不思議か?そうかもしれんな。タネ明かしをしてお前たちがどう対応するのか見るのも面白そうだが、あいにくこれは遊びじゃないんでね。死亡を確かめてからそっと耳元に囁いてやるから、それまで答え合わせはお預けだ」
「んんんんッ!!んんんッ!?」
もう1人のアルエルが、千影の首を絞め上げているのを見つけてしまった。滝のように口から血を溢して既にグッタリしている。抵抗する素振りすらない。そんな状態の千影の首を絞めるのか―――?
「んッ・・・、っ、せ!!」
「む」
「千影から・・・手を放せェェェェェェ!!」
迅雷の嚇怒を体現するかのように、彼の全身が突然爆ぜた。
その瞬間、真っ黒な嵐のようなオーラが吹き荒れたようにも見えた。
ふたつ、確かに言えたことは、それがただ迅雷の体内から漏れ出しただけの魔力だったことと、迅雷を掴んでいたアルエルの手首から先がひしゃげたことだった。
何が起きたのか、それ以上のことは全くの不明。動転するアルエル。
次の瞬間、彼を本物の雷と見紛う剣閃が打った。
●
「ぅう・・・・・・?――――――ッ!?」
慌てて顔を上げた。夜空が広がっていた。ただ、光は人工のものだ。森があって、青く匂う風が髪を梳く。
刹那の放心から、千影は現実に気付いた。
(気絶していたっ!?どれくらい!?いや、それよりも!!)
それよりも・・・妙に湿った、なにかの倒れる音がした。
見なければならない。だが、恐くて首の筋肉が言うことを聞かなかった。しかし、千影が確かめなくても、結果が変わることはないし、なによりも結末自身、進んで千影の覚醒に気付き、彼女に干渉してくるのであった。
弱った声にいよいよ声が波立った。千影が失神している間に一体なにが起こった?分からない、追いつけない。その空白を、もうひとつの声が補完した。
「お早いお目覚めだな、お姫様」
その声は。
違う。
そっちじゃないだろう。
・・・いいや、分かっていた、分かっていた。
「アルエル・・・・・・メトゥ・・・」
へたり込む千影を冷たく見下ろしていたのは、深い傷を豪華と言えるほどたくさん身に纏った、2人の、騎士団長だった。
1人増えているだけで理解不能だったが、それよりもまず、なにより以前に、既に、千影の精神は自身の眼前に横たわる少年の力ない姿を目にした時点でなにもかもを放棄しかけていた。
「ね、ねぇ・・・・・・とっしー・・・?」
「―――――――――」
息はある。
・・・・・・今は。
数秒後は、分からない。
迅雷の呼吸が弱まるほどに、千影の呼吸はどんどん荒らぐ。まるで彼の命を糧とするかのように。
いや、実際そうしたのだ。現実を見ろ。千影はどうして気絶していながら目を覚ますまで生き長らえた?
「いやっ・・・」
○
『ねぇ、お願い46番。ウソはやめてよ・・・?』
『らからっ、嘘なんて言ってない!!・・・31番は、お前はみんなを糧にして今日まで生きてきたのら!食ったのさ、みんなの肉を・・・命を!!ここに来てから、初めから、ずっとッ!!』
『でも、実験のお手伝いで出かけてるだけだって、先生は』
『気付けよ、認めろ、認めるしかなかろう・・・?あいつらみんな、お前の腹を満たして、今はもうお前の血となり、肉となったのら・・・』
○
「ボクが・・・ボクのせい、ボクは、また、あへ・・・ボクがボクがボクで嫌だ嫌だ嫌だ嫌ッ、嫌ァ!!やだぁッ、もう、やだよっ、食べたくない食べたくない食べたくないィィィィ!?なんでェ!?」
食物。それは命。そして生きる為の糧。誰かの犠牲の上に成り立つのが自己。
牛や豚なら気に留めない。都合の良い差別だが、気にすることはない。牛や豚だったなら。
千影は喰らう側だった。望まない内から既に。
愛したみんなの命を喰い散らかしてのうのうと生きて、もうこんなの懲り懲りだ。もういやだ。たくさんだ。
泣き喚いても迅雷は治らない。自らの皮を剥いで血に浸して必死に祈っても誰も戻ってこなかったように。
それでは困る。だから医療魔法を勉強した。泣くのではなく、意味のあることを探して学んだ。抱き起こした迅雷の裂けた腹肉に魔法の光をかざす。・・・必死に勉強したのに、付け焼刃が関の山だった。重傷だった。手に、負えなかった。
結局、また泣いて諦めるしかなくて。愚鈍な自分が悪いくせに、初めからありもしない奇跡を寄越さない現実に拗ねるしかなくて。
「鬼気迫るものだったぞ。その男。気を失ったお前を庇って、5分以上も私と渡り合った。あと10秒も早くお前が目を覚ましていれば結果は違っていただろうな」
「ボクがぁ・・・ボクの・・・せいだ・・・だよね?あのとき?そ、それともあのとき?いやだよぉ・・・とっしー起きてよ死んじゃやだよっ」
「・・・。聞こえちゃぁいない。さすがに見るに堪えん。私まで辛くなってくる」
これ以上可哀想に思ってしまう前に、ひと思いに止めを刺してやろう。2人のアルエルは、それぞれが黒色魔力を成型して作った闇の槍を掲げた。矛先は、少年と少女の首だ。
だけれど、少年の手が少女の濡れた頬に触れたことで、アルエルのせめてもの慈悲はあえなく無碍にされてしまった。
「バカ、死ぬわけないだろ・・・」
溜息と共にアルエルは構わず槍を振り下ろしたが、千影の背から噴出した翼に押し返された。
しかし、そもそもアルエルはこの人間の子供らにこれほどまでに拘泥していて良かったのだろうか。立てるとは思えない少年と、彼に縋って涙を流し続ける少女がこれ以上アルエルを脅かすとは思えない。ではなぜアルエルはこの場を離れられないのか、自問自答する。
そう、それでも、アルエルはここで”芽”を摘んでおけるのなら、それこそ最善に思えた。だからギルバートを追う選択をしなかったのだ。
「・・・させない」
槍を弾かれ、後ずさったアルエルの前に千影が立ちはだかる。さっきとは逆のシチュエーションだった。2人のアルエルは1人に戻る。
千影の背中から生える魔族的な蝙蝠型の翼は、胡乱に淀んでいた。弱って魔力の結合に綻びが生じたというよりも、むしろ噴き出す魔力の勢いが強まった結果今までの整った形状を保てなくなっているのだ。千影の黄色く変色した瞳はさらに輝きを増して、妖美に、儚く、夜闇の中に浮き上がる。
「つくづくしつこいな。筋肉の強張りが不自然だぞ。その力、完全に使いこなせていないのでは?」
「そうだね。加減が効かないかも」
「そのようだ。―――私もこの傷で戦うのは危ないな」
アルエルの変化に気付き、千影は言葉を失った。
「時に、私はさっきお前の胃腸を叩き潰したはずなのだが、どうしてそんなに平気そうなんだ?・・・実に凄まじいな、その『再生力』は」
「は?え?な、なんで・・・そんな・・・」
迅雷との戦闘で負った裂傷の数々が、断裂した筋肉や腱が、ひび割れた骨が、痛々しい出血が、みるみるうちに消えていく。
みるみるうちに万全の姿を取り戻していくアルエルは、迅雷が生きていてくれたことで千影がやっと取り戻した希望を、いとも容易く砕き去った。
●
本人が語らぬと宣言した以上、そろそろここらでリリトゥバス王国騎士団、団長アルエル・メトゥの”特異魔術”に分類される特殊能力について説明しておくべきだろう。
とりあえず、ひとつだけ先に断っておく。彼の能力は千影が予想した身体強化ではない。断じて違う。
この能力は、彼が王国最強の戦士たる由縁でもある。読者諸君は、ここまでの彼の行動を追う内に、ひょっとしたら「なんでもアリ」だなコイツ、と思ったかもしれない。その感想はあながち間違いではない、と言っておく。言うなれば、これは「世の中上には上がいる理不尽」を体現する能力である。
王国騎士団長アルエル・メトゥ、その能力は、”対象の『力』を自らに上乗せする” ことである。
ギルバート・グリーンの作り出す空気壁の『耐久力』すなわち強度を自身に上乗せした。だから、ただの拳で鋼より固い空気壁を粉砕せしめた。
千影の『牛鬼角』、『オリハルコン』製の刃の『耐久力』を自分に上乗せすることでこの世のなによりも硬い刃をただの肉で受け止めた。
千影の『速力』を自分の足に上乗せすることで《神速》たる少女を速さで凌駕した。
迅雷の斬撃の『威力』を己の腕に上乗せすることで、巨大獣をも斬り伏せるであろう必殺の一撃を相殺し続けた。
そして、敵が優位たり得た最大の要因だった『数の力』を自分に上乗せすることで、元の1人に敵の人数分、つまり当時は2人の自分を追加した。
簡単に要約しよう。つまり、アルエル・メトゥはおおよそなにかしらの『力』として捉えることの出来るあらゆるものを己の『力』に加算することが可能なのだ。
もはや『概念』の領域へと到達しているこの能力は、その曖昧模糊で変幻自在な性質により、正しく「なんでもアリ」と言うべき柔軟かつ完璧な対応力を生み出している。その猛威たるや―――いや、もう想像には難くあるまい。どんなに自信に満ちた顔をしていた猛者も、アルエルと戦った直後には絶望の表情に変わるのだ。
ただし、いくつか注意をしておく。
まずひとつ。アルエルが一度に上乗せ出来る『力』はその時の瞬時値1つだけだ。分身しながら千影の速さに追従は出来ないし、鍔迫り合いの最中に迅雷の剣に込められた力が増し続ければ、その都度改めて適用し続けなければならない。
ふたつ。肉体的なパワーを上乗せする場合、あるいは魔力を上乗せする場合、どうしても肉体的な限界に至ることはある。事実、激昂して暴走状態の迅雷が繰り出す苛烈な攻撃を、その『威力』を上乗せすることでいなし続けたアルエルの筋肉は何ヶ所も断裂した。
みっつ。こうは書いたが、そもそもアルエルの肉体は能力無しでも、そこらのランク4や5くらいの魔法士となら存分に渡り合える程度には鍛えられている。従って、基本的にアルエルが自分の能力を最大限に活用しても自滅するようなことは、まずない。迅雷の魔力量や千影の速力が非生物的だっただけで、普段のアルエルに限界と呼べるような制限は存在しない。
以上の能力を以て、アルエルは音を置き去りにする千影の臓腑を殴り壊し、半狂乱で暴れ回る迅雷をも斬り伏せ、ここに君臨した。
ちなみに、彼のこの素晴らしい力に名前は無い。名を付けるということは、誰かにその存在を知らせるための、意味を拡張するなら、広くその存在を知らしめるための行為だ。だが、それは戦において情報アドバンテージを捨てることと同じである。故に、名は無い。故に、敵対者の誰もがアルエル・メトゥがなにをしているのか理解出来ない。故に、最強の座は揺るがない。
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そして現在、千影の眼光に未だ油断ならぬと直感したアルエルは、千影が発揮する驚異的な『再生力』を己が身に上乗せした。
深かった傷痕が嘘のように塞がっていくのは、自分の体でありながら不気味に過ぎた。魔族を辞めて化物になってしまったようだ。
ただ、同時に感動も覚えた。こんな能力が常に備わっていたら恐いものなんてなにもない。千影を見てみろ。さっき、アルエルの剣は確かにあの少女の腸を斬り、肩の肉を削いだのだ。にも関わらず、破れた衣服の下に見えるのは綺麗で真っ白な柔肌ではないか。そして、アルエルの肉も、すっかり元通りだ。
少し体温が上がった気もした。出血した分の血液まで再生しているのだろう。至れり尽くせりとはこのことじゃあるまいか。
千影の悲愴的な顔を見て、アルエルの悪魔的な心に快楽が満ちゆく。心と体の極上の癒やしにもっともっと浸っていたいとさえ思った。