episode6 sect73 ”常勝不滅のスーサイダ”
「・・・・・・・・・けほっ。痛ッ・・・ぷっ」
雪姫は口内の血を吐き捨てた。左足が奇妙な曲がり方をしている。それと、背中も、何ヶ所も裂けたような激痛を訴えていた。
「・・・まぁ仕方ないか」
で。
フツーに立ち上がった。
崩壊した元学生食堂の壁かつ現コンクリート製の瓦礫のお風呂を崩し分けて。
彼女の挙動はとても滑らかで、精神を蝕む苦痛を微塵も思わせない。
―――目的はあっても機械的なプログラムのようなものだろうと思っていたから、ちょっとだけ意外だったというか、驚いた。
「なに?案外可愛げのある敵なのね。まさかビックリでもしたの?」
雪姫が嘲ったのは、瓦礫の山に踏み込もうとして足を止めた炎の龍だった。
龍は声を持たない。だけれど、今の彼は明らかに不自然な行動の停止に陥っているように見えた。ただの殺戮マシンだったなら、ここは間髪入れずに雪姫にトドメを刺していれば良かったトコだろうに。もっとも、追撃されたところで喰らってやるほどの優しさなんて、雪姫は持ち合わせていないが。
既に感触は掴んだ。
喀血は、龍が纏う炎熱で限界まで干上がった喉で無理に呼吸し続けた代償として呼吸器が摩耗しただけのことだ。左足がまた酷い骨折をしてしまったようだが、結局のところ氷で固定してしまえば無いも同じ事だ。出血も然り、背の傷は氷で塞いで止血していれば良いだけのことだ。
「来ないの?」
足の肉の内側に氷をねじ込んで地面を踏みしめ、手の甲で口元を汚す血痕を拭い去りながら、雪姫は困惑する炎の龍を衰えぬ眼光で貫く。
そもそもにおいて、透き通る宝石のような雪姫の水色の瞳に宿る眼光とは、”光”と表現出来るのはあくまで物理現象として眼球の表面から反射される波長380~760ナノメートルの電磁波の部分だけだ。
”闇”。あるいは虚無を埋め合わせる濃密な嫌悪と憎悪。それ故に天田雪姫に自己愛感情などというものは存在しない。どんなに傷付いても涼しい顔で立ち上がり続ける・・・狂気じみた戦意の源泉は、そういった自己内部で永久に煮え返り続けるグルーミーでフェロシャスな衝動だ。
元々はただの感情の一形態に過ぎないが、そのせいで痛覚が麻痺してもう久しい。
つまり、これ以上雪姫の瞳は淀まない。それほどまでに徹底的に自らの在り方を、感情を、錆び上げているのだ。この期に及んでただの難敵如き、彼女の心の不変性を揺るがすほどのことではない。
雪姫の発する殺意に応じたのか、炎の体を持つ西洋風の龍は首を低く構え、口から紅蓮の息吹を溢す。
第2ラウンド―――そう思って念じるが、雪姫が生成出来た氷は、精々出産直後の赤子程度のものを3つ、4つだけだった。ガス欠。魔力切れである。
心が戦闘続行を望んでも、魔力が尽きてしまった時点で雪姫の戦いはおしまいだった。
言い訳ならいくらでもある。昼間っからずっと要所要所で雪姫は大規模な魔法の大盤振る舞いを繰り返したうえ、休みなしで雑魚の小型ワイバーンの駆除に奔走し、挙げ句、空から舞い降りた炎の龍との大立ち回りを演じる傍らで山のような氷壁を維持し続けてきた。いかに雪姫が常人の倍以上の魔力を持っていたと言えども、ここまでして魔力が枯渇しない方がおかしかった。もっと言えば、今まで戦い続けられていた魔力のマネジメントが既に常人離れしていた。
舌打ちを一つ。
龍が口に蓄えた火炎が炸裂する。
なけなしの氷を砕いて粉雪に変え、薄っぺらな壁を作る。
雪姫は為す術もなく吹き飛ばされた。抵抗も、ほとんどしなかった。
食堂の中の、地震当時から放置されている、ひっくり返った残飯で汚れたテーブルたちを巻き込み、壁を破りながら、雪姫は厨房の奥にまで転がり込んだ。
それでも、雪姫は天井を見上げた。その表情には焦りや不安の色は浮かんでいなかった。
室内灯が明滅している。空の『門』が開いたときの地震の後、電気や通信といったインフラの復帰は早かった。
まるで雪姫は、ここまでの戦況を全て予測していたかのようだった。いや、もうこの際勿体ぶった言い方をする必要はないだろう。事実、彼女には分かっていた。正確には、こうなるように誘導した。
ひとつ、人間の使う魔法というものについて簡単におさらいしよう。
ズバリ、魔法とは魔力を使って「なにか」を引き起こすものだ。例えば虚空から氷の塊を生み出してみたり、それを勢いよく飛ばしてみたり。―――雪姫がよくやる戦法だ。
ちなみに、2つの行程に分けて書いたのは、別に、とりあえず文字数をかさ増しして今回の投稿分の文量を誤魔化そうとしたとか、そういうセコい考えあってのことではない。本当に、別々の作業だから分けて紹介したのだ。
さて、ここでもうひとつ、ものすごく簡単な質問をしようと思う。
0から1を生み出すのと、最初からそこにある1を使うの、どっちが簡単でしょうか?
つまり。
「あたしの勝ち」
4足歩行で巨体には低すぎる天井の屋内を進んでくるアグナロスの眷属は、雪姫をこの場所まで追い詰めた時点で詰んでいた。
業務用のデッカい冷凍庫が、突如として砲弾と化す。
ここまで吹っ飛ばされる間に雪姫がその身をぶつけて手繰り寄せてきた雑多な全てを再び巻き込んで、幅2メートル、高さ2メートル、奥行き1メートルの業務用冷凍庫砲は音速に迫る。
例えるならば、瓦礫の津波。
誤魔化しの利かない巨大な質量の奔流が炎の龍を押し流し、一瞬のうちに吹き消した。
砂を噛むような決着であった。
勝者に生存の感動はなく、残るのは嵐が過ぎ去った破壊の余韻くらいのものだった。
●
雪姫がしたことは、非常に単純だった。
冷凍庫の中身がなんであるかは、もはや考えるまでもないと思う。当然、保存物の表面や内部には融点を下回り凝固した水、すなわち氷が存在している。
先ほどの簡単なクイズの答え合わせだ。自分で氷を作ってから動かすより、最初からある氷を動かす方がエネルギーが要らないに決まっている。雪姫は、冷凍庫の中にあった微小な氷の群体に魔力を与えて動かしたのだ。
動かすだけなら大した魔力消費はない。全ての氷粒子に方向を揃えた猛烈な速度ベクトルを与えることで、全ベクトルを内包する冷凍庫はあれだけの破壊力を生み出した。
足が折れても肉が裂けても魔力が底を突いても自分が死ぬまで敵を殺す手段を講じ続ける。それが天田雪姫だった。
雪姫は壁に背を預けて座ったまま、服に付いた砂と埃を払い落とす。力尽くで引き千切られた冷凍庫の電源コードが埃でショートして、危うい火花を散らしている。面倒臭そうな顔をしつつも雪姫はコードの断面を凍結させて絶縁した。それから、雪姫は半壊した食堂から這い出た。
(・・・立てない)
全く足に力が入らない。骨折の影響もあるが、それ以前に酷い倦怠感に全身が支配されている。いつぶりだろうか、この感覚。魔力切れを起こしたのは本当だ。今し方、コードの火花を止めたので出し尽くしてしまった。
そのせいで、氷で杖を作ろうとしたが、ガスコンロの着火に失敗したときの火花のように、虚しく光の粒が舞うだけだった。地面に這いつくばる雪姫のもとへと足音が集まってくる。今になって思えば、なんともまぁ、最悪も最悪の屈辱だ。
「あぁっ、いた!!天田さん!!」
一番乗りは志田真波、クラス担任だった。
「・・・良かった・・・生きてて良かったぁ・・・!!」
こっちは良くねぇ。
・・・いや別に、クールに勝ってクールに凱旋することに拘りなんてないが、でも、こんな無様を他人に見られるのはさすがに癪に障る。
「立てないの・・・?そうか、足が・・・。背中の怪我が酷いじゃない。とりあえず医務に、さ、肩を貸すわ、天田さん」
「嫌だ、触らないで。1人で歩けます」
「えぇ・・・」
雪姫は側に落ちていたプラスチックの棒を掴んで杖にした。途中で折れて先が尖っているが使えなくはない。多分、元々は食堂が期間限定メニューの宣伝に使っていた幟のポールだったものだろう。
不安そうに、いつでも支えてやれるように腕を半端に構えた真波を睨んで一歩下がらせる。
「あのさ・・・さっきの炎の龍は、あなたが倒したってこと?」
「あたしが生きてるんだから分かるでしょう?」
「そう・・・そうね。なんか、さすがっていうか・・・で、でもやっぱり許せないわ!!」
「はァ?」
「もっと私たちを頼りなさい!!あなたが強いのは十分知ってるけど!こんなズタボロになってまでどうして独りに拘るの!?一歩間違えたら死んでたかもしれないじゃない!みんなで協力すればもっと上手く退けられたはずよ、そう思うでしょ、あなただって!」
雪姫について真波は生きた心地がしなかったのだろう。真波の悲痛な叫びを聞いて、雪姫は目を丸くした。真波にとって、雪姫がこんなに重い傷を負っている場面が初めてだったのも手伝っているはずだ。それだけに、いつも以上に真波は自責の念を感じていた。なにより、もうこれ以上自分の教え子に無茶な戦いはして欲しくない、という想いにやっと具体的な印象が伴い始めた瞬間でもあった。
実際に血を流し、立つこともままならない雪姫の姿を見てしまった以上、これまでのような「とりあえず本心なのは間違いない」だけの言葉とは比べものにならない重みがあった。
驚く雪姫の瞳は、いつもの美しい水色の澄んでいた。その瞬間―――真波の目と雪姫の目は互いに真っ直ぐ見つめ合わされ―――真波は目が潤んだ。確信があったのだ。今の自分の気持ちが、やっと雪姫の心に届いた、という確信が。だって、こんなにもはっきりと雪姫の瞳を捉えたのは、今回が初めてだったのだから。
「ね?天田さん・・・」
「あー・・・。・・・・・・く、くっふ・・・」
「な、なによ」
雪姫が笑った。
なにか笑うようなことを言っただろうか。今度は真波はビックリさせられる番だった。
その笑顔がとてもとても歪だったから。
「話にならない!」
「え」
「『え』じゃないでしょ。お話にならなくないです?アグナロスの警戒を全部1人の生徒に奪われて、挙げ句の果てに最後まで心配そうに見てるしか出来なかった人たちがそれを言うの?ねぇ、さすがに滑稽が過ぎません?」
言葉の途中から嘲笑すら消えていた。そして、それは禁句だった。とっくに雪姫の魔力は尽きたはずだったのに、時間すら凍った。
停止した世界に背を向けて雪姫は鼻を鳴らす。
「フン、なんか言い返してみろよ」
死んでいたかもしれないだなんて、ちゃんちゃらおかしい。死ぬことなんてちっとも恐くない。誰かを殺すことに比べたら。そのために雪姫は死ぬ気で戦い続けているんじゃないか。・・・むしろ―――。
雪姫が歩みを再開したときだった。
雪姫は、天に座す竜神様が自分の後ろ暗い願望に気付いてしまったのかと思った。
しかして、龍型の眷属が2頭、雪姫の真っ正面に舞い降りた。
今、必死に倒したばかりの『ゲゲイ・ゼラ』以上の怪物だぞ?軽く死ねる。雪姫にはもう、既存の氷を操るだけの力も残っていないのに。
そして、見ろ。真波も、彼女の言葉に賛同した他の教師連中も、酷い顔だな。怯えているんだろう?恐いなら、逃げてしまえば良いのに。やる気があるのはそこの年老いた教頭だけみたいだぞ?ここは任せてさ、ホラ、さっさと逃げてしまえよ。
・・・。
足が竦んで動けない大人たちを目にしたとき、雪姫は「嗚呼」と嘆いた。
まだ、雪姫は終われない。それでは駄目なのだと。
今度こそ本当に一切の手段を失くしたはずの少女が未だ目に力を宿し続けていることを、あの龍たちは、そしてアグナロスはどう感じただろう。
後に、火神アグナロスはこの日の戦いの中で3番目に感銘と関心を覚えた人間として、天田雪姫の名を挙げることとなる。
神命は下された。
震天は眷属たる龍の声無き陽炎の咆哮より。