episode2 sect12 ”人間の世界にお帰りなさい”
「あの男、一体なんだったんだ・・・?」
薄ら笑いの青年が立ち去って数分。やっと生きた心地がしてきたのだろう、場の緊張感が一気に解け始めた。安堵の吐息があちこちから漏れ出して、生の実感を呼吸の形で蔓延させていく。
しかし、みながそうして地面にへたり込む中で迅雷だけは未だに汗も動悸も収まらずにいた。あの暗くて深い黄色の瞳は、迅雷を真っ直ぐ見つめていた。あの緩やかに解けた口元の薄ら笑いは迅雷を嘲笑うかのようだった。
もしかしなくても、『ゲゲイ・ゼラ』と相対したときよりも、さらに数倍まで膨らんだような死の実感。それはもはや、人間の形に無理矢理押し込めただけの、圧縮して濃縮された「死」そのものにも感じられた。そんな対象に正面から迫られて、ものの数分で生の実感を感じろという方が難しい話だった。
それに、あの気がかりな台詞。「お前だったか」と、彼は迅雷にそう言った。なにが、迅雷に当てはまっていたのだろうか。理由も意味もサッパリ分からないが、あの男に目を付けられたという事実だけが色濃く心の中に淀んでいた。見逃された幸運を上から塗りつぶしてしまいそうな得体の知れない恐怖が、そこにはあった。
結局、迅雷たちが行動を再開したのは青年がその場を去ってから20分近く経ってからのことだった。
とりあえず体の一部を引き千切られて横倒しになっていた『タマネギ』には止めを刺して、萌生と煌熾が先頭を歩く形で全班合同班は歩き出した。
●
その後も、道中ではたびたび『タマネギ』に遭遇した。しかし、その『タマネギ』はどれもこれも3枚の白皮がすべて引き千切られた無残な姿で発見された。やはり、これも先ほど出くわしたあの青年がやったのだろう。幾度となく自分たちを苦しめ、命の危機にすら陥れてきたはずの巨大な敵たち。それのなれの果てがこれかと思うと、学生たちはなかなか複雑な心境だった。青年に感じた敵意が強すぎて、今は『タマネギ』に同情すら覚える。
せめて安らかに眠れ、と昨日なら欠片ほども心によぎるはずもなかった感慨と共に、残骸のように横たわる『タマネギ』たちを葬って歩き続けた。
一方で、そうして『タマネギ』をちょくちょく見かける代わりに、特に他の一般的なモンスターに遭遇することはほとんどなかった。これは先日も2班のメンバーが初めて『タマネギ』と遭遇したあとに感じた通り、単に元々生息していたモンスターが住処を追い出されたからだろう。
もう新鮮みがないどころか、時間の過ぎた血生臭い道なき道を2時間近くは歩いただろうか。若干山に入ったようで、緩やかな勾配がある。そろそろ、このダンジョン実習のゴール地点だ。この先に教員用テントがあるはずだ。
「・・・とか思ってたら先生たちも『タマネギ』に襲われて吹っ飛んでたらどうしようか」
「そんな縁起でもないことを言わないでくださいな。洒落になりませんわよ、それ」
ふと思ったように迅雷がこぼして、隣を歩いていた矢生が顔色を悪くしながら迅雷を咎めた。
しかし、これもあり得ない可能性ではない。この2日間、それも実質24時間程度のダンジョン実習で既に何体の『タマネギ』に遭遇したことか。それにこの近辺にもああして『タマネギ』がごろごろ転がっていたのだから、なおさら可能性は高くなる。せめて吹っ飛ぶのが真波と由良ではなく、テントであって欲しい。
とはいえ仮にもマンティオ学園の先生をやっている彼女たちのことだから、これくらいの事態なら自分たちだけでなんとかしていそうでもあったが。
ちなみに、迅雷のその考えはまんま正解だったのは、このあと真波から話を受けて知ることになるのだが、それは別にどうでもいい話だ。
迅雷の懸念も杞憂に終わって、木々に隙間から教員用のテントが見えてきた。よく見ると、あちらからも誰かがこちらに気付いていたようだ。小さな女の子・・・ではなく由良先生が手を振って生徒たちを出迎えようとしてくれていた。なんという安心感。
『あああああ、由良ちゃん先生ー!!』
由良の大人とは思えないあどけない笑顔を見て、迅雷たちのいままでドンヨリ淀んでいた空気が生気を取り戻し始めた。40人近い人数の生徒たちが由良に殺到する。
「みなさん、おかえりなさどわあああぁぁぁぁぁ!?い、一体どうしたんですか!?そんなに恐い目に遭ったんですか!?」
押し潰されるかと思いきや由良が驚くべき手さばきで飛びついてくる生徒一人一人の頭を撫でては離し、撫でては離していく。
「よしよし、恐かったんですねー。大変だったですねー」
「聖母だ・・・。妹にしたい!」
「おいこら」
真牙が意味の分からないことを叫び、涼にどつかれて「あばらにクリーンヒットした」とか言ってのたうち回っている。それを見た涼が一転してあたふたしている辺り、もしかしたら真牙がのたうち回っているのはマジなのかもしれない。
すると、由良が真牙のところにやってきて彼の体をぺたぺた触ってそれから顔を真っ青にする。
「あ、阿本君!?ちょ、これあばら折れてますけど!?大丈夫なんですか!?」
「えぇ!?え、え、どうしよう!?ご、ごめんね、阿本君がそんなに虚弱だったとは知らずに!」
「いやいや、涼ちゃんがどついたくらいで折れないでしょ、普通。これあれだよ、昨日の」
慌てふためく涼を見て真牙が苦笑いをしている。結局それでも真牙が涼を庇ってあばらが折れたことには変わらなかったので、涼がひたすら真牙に謝っているのを見ているとなんだかシュールだった。怪我人には不謹慎な気もしたが、その場がどっと笑いに包まれる。
なんでこうも怪我に緩かったのかというと、それはもうここに由良がいるからというのが一番だっただろう。由良はすぐに真牙に上着をたくし上げさせて、治癒魔法を使い始めた。折れた肋骨を接ぐくらいなら、意外と簡単らしい。魔法医学専攻の生徒たちは揃って感嘆の声を上げていたので、その発言の真偽はやや怪しかったが。
「はい、これで大丈夫ですよー。あ、でもですね!ちゃんと安静にしていないとぽろっといっちゃいますからね!気を付けないとダメなんですからね?」
「さっすが由良ちゃん先生、ありがとう!」
「えへへ、ほ、褒めてもなんにも出ませんからね?先生として当然なのです!」
褒められて嬉しいと顔に書いてあるのが微笑ましい。先生としての威厳とか実力を生徒たちにみせることが出来てちょっと舞い上がってるのか、いつもの「ちゃん付けはいりません!」というツッコミがない。
それから、由良は他にも昨晩『タマネギ』にやられた怪我が治し切れていない生徒たちを集めて手当を始めた。こうして見ていると、彼女も実はやっぱりすごい人だったのだな、と実感せざるを得ない。人を見かけで判断するのは良くない。・・・が、やっぱり腕はともかくキャラが可愛い由良はどこまで行っても愛されキャラのようだった。怪我を治す度に頭を撫でられて嬉しそうにしている。本当に養護教諭なのだろうか?
「あら、みんな。やっと来たわね。夜、大変だったんだって?・・・無事で良かったわ。本当に」
真波が生徒たちの声を聞いて戻ってきた。ちょうど周囲の警戒で野営地点の外縁部を見回りして帰ってきたところだったらしい。
無事。そう、みんなこうして無事に帰ってきた。突然姿を現した謎の青年の話を真波は知らないが、それとこれとは今は関係なかった。全員、多少の怪我はあっても、きちんと揃って無事に帰ってきた。
●
「ふむふむ、なるほど。やっぱり昨日襲ってきたのと同じモンスターみたいね」
真波は帰ってきた治療を終えて手持ちぶさたに戻った由良と生徒の中での代表者だけ呼んで、昨夜襲われたときの話を合わせていた。呼ばれた生徒は、各班のインストラクターをしていた生徒と、最も『タマネギ』のに遭遇している2班のメンバーだった。
そうして例のモンスター騒動についての話を聞いて、真波は納得したように頷いていた。どうやら、彼女にも生徒たちのする話に心当たりがあったようだ。そこについて、矢生が尋ねる。
「もしかして、志田先生もアレに出会ったのですか?」
「まぁね。4体もいらっしゃりやがったから、ちょっと手こずったわよ?由良ちゃん先生にもお世話になちゃった」
たはは、と笑う真波。2人しかいなくて、しかも戦えるのは真波だけだったはずなのに、『タマネギ』4体のお出まし。生徒側からすれば笑い事じゃない気がするのだが、笑っているということは・・・。
「まぁつまり1人で倒したんすね・・・」
迅雷は改めてマンティオ学園の教師というのがどんな人間なのか分かった気がした。普段からなんとなくルーズな感じも醸している若手教師の真波でもそれだけの実力。そういえば4月にはランク4に昇格していたし、この戦果を鑑みればその中でもなかなか優秀な部類に入るのだろう。
「つくづく思いますけど、ウチの学校の先生が血気盛んなバーサーカーの集まりじゃなくてホント良かったです」
「なにそれ、失礼しちゃうわね。ふふ」
そう言って優しく微笑む真波だった。ただ、暴力で鎮圧されるような粗相だけはしでかすまいと心に決めたのは、迅雷だけではなかったはずだ。
余計な話は切り上げて、真波は話題を戻した。
「ええと、いいですか?それでですけど、さっきその『タマネギ』?について調べてみたんですが」
「調べたのは結局わたむぐっ」
真波は由良の口を指で押さえて話し続ける。2人のパワーバランスが謎である。
「あの『タマネギ』の正式名称が分かりました。ええと、『アリルプロピルジスルフェイド』って言うらしいです」
「へふ」
口を押さえられたまま、それでも由良なりの意地だったのか「です」と言おうとしていた。まぁ調べたのが彼女なら意地を張るのも分からなくはないが、微笑ましいだけだった。
真波の言った『タマネギ』の正式名称を聞いて、迅雷は首を傾げた。他数名も、どこかで聞いたような名前にキョトンとしている。
「あれ、先生、それ犬が食ったら死ぬって言うタマネギの成分じゃないですか?」
「違う違う。それは『アリルプロピルジスルファイド』よ」
「・・・」
リアクションに困る。どうにもボケで言っているわけではなさそうだし。というか、命名したやつの発想力には斜め上ベクトルの敬意を示したい。どうしたらそんなややこしい名前に漕ぎ着いてしまったのだろうか。
と、真波が苦い顔をしている生徒たちに思い出したように説明を加えた。
「あぁ、そうだ。でも『アリルプロピルジスルフェイド』を食べると人間は・・・死ぬわ」
『なにそれ物騒』
聞いていた全員の声が重なった。
―――なにそれ、死ぬの?死んじゃうんですか?物騒すぎるでしょ。
「まぁともかく無事に全員集まったのでオッケー!よく頑張ったわね、お疲れ様!」
真波はそう言って健康的に笑った。最終的に、そう言われてしまうと納得するしかなかった。なぜなら、結局それが一番大事なことだったのだから。
しかし、その上で萌生が会話の区切りを破った。面持ちは極めて真剣に、彼女は真波を見つめていた。
そう、まだ真波たちに報告していない、恐らく今回最も危険だった出来事の報告が済んでいないのだ。
「ここに来る道中で出会った不審な男について、報告します」
●
「んあー!帰ってきたぜ、オレの世界へ!」
「お前のじゃねぇだろ」
帰還直後、開口一番に世界を己がものとした真牙から、迅雷が一言で世界を救った。
ボーッとしていてまたモンスター、特に『タマネギ』の襲撃を受けても大変だということで、報告会終了後はすぐにダンジョンから元の世界に帰ることとなった。真波と由良たちのテントから最寄りの、約1kmほどのところにある転移ステーションから生徒教員合わせて40名の合宿講習会参加者は全員、人間の世界へと帰還した。
なぜだか無性にひさしぶりにさえ感じる自分たちの世界の空気に心が安らぐ。街のアスファルトとコンクリートに熱せられた蒸れる空気でも、あの異世界の経験の後なら美味しく吸える気がした。故郷というには規模が大きすぎるかもしれないし、開けていた時間も短すぎるかもしれないが、こうして自分たちの知らない世界を見てきた後では、こうして帰ってきたことを「帰郷」と表現したくなる。
門をくぐってギルドの「渡し場」に戻ってきて、そのまま会議室に移動する。
「それでは、ダンジョンでの実習、お疲れ様でした!いやー、予想外のことばっかりで私も少し焦りましたが、なんとかなりましたね。ううん、違うわね。みんなが自分たちだけでなんとかしてみせたのだもの、よくやってくれたわ。本当に、お疲れ様。正直びっくりするほどの成果よ」
会議室でのミーティング。真波は胸に手を当てて、生徒たちの活躍に感謝とも取れるほどの賞賛を贈った。『タマネギ』こと『アリルプロピルジスルフェイド』なる凶暴な大型危険種モンスターとの遭遇と全員無事での殲滅成功。その後の的確かつ迅速な判断。不審人物と出会うも、これもまた全員無事生還。
毎年行っているこの合宿講習会であったが、これだけのアクシデントに見舞われたのは少なくともここ十数年では初めてだろう。しかし、それでも生徒たちはその困難な状況を悉く自分たちの力だけで突破した。
素晴らしいことだった。彼らへの期待は増すばかりで、重いと言われないか心配になる。それほどに、真波は感激していた。
「まぁ、みなさんもう結構疲れているでしょうからね。長い話はまた今日の夜にでもしようね。では、改めてお疲れ様でした!荷物を持って本館脇に停まってるバスに移動!温泉が待ってるわよ!」
『おー!』
●
「天田さん」
会議室を出る直前の雪姫を、真波は呼び止めた。そんな真波の表情は少し寂しそうにも見えたが、それを気にする雪姫でもない。無言で振り返る雪姫。既に他の生徒たちは廊下に出てしまっているので、廊下に出かけた雪姫と真波の会話は2人きりとも聴衆がいる状況とも言えないが、聞く者自体は少なかった。
「・・・」
「ちょっと、いいかしら?」
「・・・なんですか?」
少しだけ苛立ったような声を出す雪姫。人混みに居続けて機嫌を損ねでもしたのだろうか、と真波は適当にトーンの落ちた雪姫の声を受け入れる。
「ううん、あなたにはお礼を言っておかないとなーって思ってね。今日こうして全員帰ってこられたのもあなたのおかげよ?『タマネギ』。結局8体も倒したんでしょう?聞いたわ。焔くんとか豊園さんも尽力してくれてはいたけど、あなたが一番頑張ってくれたみたいじゃない。本当に、ありがとう」
「知りませんよ、そんなこと。で、それだけですか?」
もとよりそんなつもりで戦っていたわけではないとでも言いそうな雰囲気を出す雪姫には、真波もさすがに寂しさを感じずにはいられなかった。どうしてこんなにも彼女は素直にいられないのだろうか。人を避けてしまうのだろうか。その真意は、きっと真波には犯すことの出来ない、雪姫の中の奥深くにしかないのだろうけれど。
いっそう苛立ちを募らせる雪姫。真波は、少しだけ笑って応じる。紡ぐのは、ほんの一欠片の期待を乗せた言葉。
「・・・えぇ。それとも、引き留めて欲しい?」
「いいえ、まったく」
「・・・・・・。そうね」
言われて、真波は少し唇を噛んだ。分かっていた答えではあるし、それにここで引き留めるわけにもいかないのだから。それでもやはり、寂しい答えだなと、そう感じずにはいられない真波だった。
しかし、真波は健気にもいつもの元気で健康的な笑いを作った。雪姫に感謝していることにも、彼女を労う気持ちにも嘘はないのだから。
「うん、お疲れ様、天田さん!」
それから、笑みを仕方なさげなものに変えて真波は小さく手を振った。雪姫は荷物を持ち直して1人、バスに向かう人の流れとは別の方向へと歩いて行った。
●
「あれ、天田さんどこ行くの?」
列から離れていく雪姫に気付いた迅雷が、不思議に思って彼女の背中に声をかけた。すると、雪姫はチラリと迅雷の方を振り向いて面倒臭そうに溜息をついてから、すぐにまた前を向き直ってしまった。
「・・・帰んのよ」
小さく一言そう言って、雪姫はスタスタとまた歩き出してしまった。雪姫の歩き方にどうにも迷いというものがまったく見えないのが、迅雷にはむしろ寂しく見えた。しかし、そんな彼女の背中もすぐに階段を降りて、影に溶けるように消えてしまった。
「え、ちょっ、帰るってどうして・・・」
「ご家族の事情があるのよ、神代君。天田さん、ちょっと忙しいからさ、仕方ないのよ」
迅雷の呼びかけには、真波が代わりに返事をした。
今の話を聞いていた男子勢のテンションが一気に下がるのが目に見えるようだった。雪姫が言ってしまった方を眺めながら真牙が悲痛な声を出す。
「あああぁ・・・雪姫ちゃんの湯上がり浴衣姿が見られると思って超楽しみにしてたのに・・・。そんな、これじゃあ、こんなんじゃ・・・っ!!」
「煩悩まみれじゃん!」
ここぞとばかりに涼が真牙の背中を蹴り飛ばした。真牙の怪我が由良に直してもらったおかげか、彼の体への躊躇いがなくなって割とガチの一撃が繰り出されたらしい。思い切り蹴られた勢いで真牙は迅雷の足下まで転がった。
「と、迅雷・・・お前なら・・・分かってくれ・・・るよな・・・?ガクッ」
「・・・・・・あぁ。今回ばかりは真牙は悪くない。こればかりは男の性だ。お前の遺志は俺が継いでやろうじゃねぇか!雪姫ちゃん帰っちゃったからどうしようもないけど!」
「なにをクサい三文芝居をしているんですの、大根役者ですか、まったく。神代君まで阿本君に毒されたんですの?」
矢生がゴミを見るような目で死んだふりをして迅雷に抱きかかえられる真牙と、真牙の死を惜しむフリをする迅雷を見る。しかしながら矢生の周りでは学年問わずに男子が皆々揃って彼女たちの行いに反発してなんやかんや騒いでいるので、いよいよ涼と矢生こそが悪者みたいな流れである。
死んだふりをやめた真牙が迅雷に頭を預けたまま顔だけ矢生の方に向けて、チッチッチと指を振る。いつになく多数の味方を得たからか無駄に得意げな顔をしているのがむかつく。
「甘いぜ、矢生ちゃん。迅雷はオレに毒されてなんていないぜ?そう。コイツも根っこはこんな感じなのさ!」
「頼む。お前とは一緒にしないでくれ」
「ギャン!」
迅雷が今まで抱えていた真牙の頭を放してスッと立ち上がったので、真牙の頭は硬い廊下の床に激突した。地味に痛い音がしたので見ていたうちの何人かも頭を押さえた。
そんな風に結局真牙に辛辣な迅雷ではあったが、そうは言っても迅雷だって1人の男の子なので雪姫に浴衣姿を見てみたかったというのは否定するつもりはなかった。というか凄く見たかった。めっちゃ見たかった。あの真っ白な肌が湯上がりに赤く上気しているところとか、あの淡い水色の髪がしっとりと湿っているところとか、想像しただけでもドキドキする。それはさぞ良いものだったろうに。
「まぁでも、みんなの浴衣姿を堪能させてもらうのは確定事項だからな」
いい顔をしてそんなことを言う迅雷にドン引きする矢生と涼。さすがに失言だったかもしれない。まだ真牙に向けられるそれほどではないが、そろそろ汚物を見る目になりそうだ。
これはマズいと思って迅雷は言葉を取り繕う、というより話題を逸らすことにした。
「じゃなくて!あれだよ。俺の当面の目標は雪姫ちゃんと普通に会話できるところまで漕ぎ着けることだからな、うん」
嘯くように言ってみたが、実はこれも迅雷の本音である。彼女に対しては異性としての興味もそうだがもう1つ、理由はピンとこないのだが、放っておきたくないのだ。
しかし。
『イヤイヤ無理でしょ』
「ふぁ!?」
女子だけでなく男子のほとんどにまで声を揃えられてしまった。強烈に不可能発言を突き付けられて迅雷はたじろぐ。ここまで真っ向から否定されるとは予想していなかった。精々からかうように笑われるくらいだと思っていたのに、これはなかなか傷付く。迅雷の考えのなにが悪いというのか。
「ちょ、諦めたらそこで試合終了ですよ!?」
必死に言い返そうとする迅雷だったが、口をついて出るのはよく聞くマンガの名台詞だけ。
実際その程度には否定しきれない言葉だったのも確かだ。未だに本人の前と本人がいないところで呼び方を変えているような迅雷には、彼女に近づくだけの勇気すらないようなものなのだから。それこそまさにアイドルとそこらのファンとの関係のようなものだ。普段はアイドルのことを愛称呼びしているくせに、どうせ本人と正面から話す機会になったら愛称を使わずに「○○さん」と呼んでしまうようなものだと考えれば良い。
雪姫が伊達に学園内のアイドル的なポジションで《雪姫》と呼ばれているわけでもないということだ。その呼び名には「氷の女」のような意味さえ込められているのだから、もうどうしようもなく、雪姫に近づくことの難しさは示されている。
真牙が落ち込む迅雷の肩にポンと手を置いた。
「迅雷、まずはそういうことは雪姫ちゃんよりも強くなってから言おうな?」
「キビい!?」
まさか真牙は、彼女よりも強くなってからじゃないと話しすらまともに出来ないとでも言うつもりなのだろうか。高すぎる壁に、迅雷は見上げようとしてのけぞるばかりである。
ただ、真牙がやけに真剣な顔でそう言うのだから、その発言には迅雷はなんとなく信憑性を感じてもいた。確かに、あの少女を振り向かせようと思ったのならそうするのがベストなようにも思える。肩を並べれば、あるいはあちらから試合を挑むなりなんなり、近づいてきてくれるかもしれないのだし。
雪姫ちゃん帰っちゃったよ事件から発展して下らない論争が繰り広げられていたが、そんなことをしていると時間も押してきてしまうし、バスの運転手にもいい迷惑になってしまうため、真波が仕切り直した。
「はーい、疲れて既に羽目が外れちゃいそうなのは分かるけど、もう行こうねー」
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