episode6 sect62 ”対等な戦争”
「真牙くん・・・なんか、おかしくなってくよ!?」
「変っていうか・・・どうなってんだアレ?」
初め、真牙は自分たちの攻撃が思った以上にアグナロスに効いたのだと勘違いした。でも、アレはどう見ても違う。死骸の肉が腐り堕ちるかのように、ドロリドロリと、アグナロスの体を成す炎の肉が滴り落ちていく。灼熱の肉の雨―――おどろおどろしい光景が広がる。
勝機を見出した気になっていた人間たちを嘲笑うように、アグナロスの嘶きが一央市に響き渡った。
『アァ、本当』
『困ッチャウナァ』
地面に落ちた千を超える肉片が、モゾモゾと蠢きだし、蜥蜴や蜘蛛、猛々しい獣に四つん這いの人型、果ては西洋の伝説に描かれるような龍―――様々に姿を変えていく。その正体は、アグナロスの魂からこぼれ落ちた意思を持つ炎の使い魔、”眷属”だ。
今、眷属たちは、アグナロスが再びあの灼熱の息吹を放てるようになるまでの時間稼ぎを担っている。だが、それなら最初に生み出しておいても良かったはずだ。それをアグナロスは今にした。理由は至極単純だ。その方が敵の反応が面白くなるからだ。
火神『アグニ』の名を冠すれど、アグナロスはそもそもがリリトゥバス王国の、つまり魔族の飼い竜だ。知性を持つ故に彼らの在り方を間近で見続け学んできたアグナロスは、敵対者を玩弄することを覚えていた。その愉悦も知っていた。
火の雨と共に、逆さ降りの魔法の雨は止んでいた。
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リリトゥバス王国の東西に長く伸びた領土の西端に、『箱庭』と呼ばれる広大な自然保護区がある。総面積は人間の単位で表すと13,521平方キロメートル、およそ日本の福島県と等しい規模である。
山河が太古の姿を残し、豊かな生命が息吹くこの場所だが、しかし、魔族の言う自然保護区というのは我々人間の考えるそれとは少し違う。『箱庭』は、人の手が加わって、強制的に成立している不自然な調和の世界である。もっと簡潔に言えば、この土地はリリトゥバス王国が最も得意とする「魔獣の兵隊」の養殖場なのだ。
今日行われた魔族による人間界への先制攻撃は、『箱庭』上空に直接、日本の一央市へと新たな『門』を開けることで行われた。そして、送り出す魔獣たちの制御を行うのは、『箱庭』の管理施設である。つまり、現在の魔界の最前線基地がそこなのである。―――これはギルバート・グリーンの推測と合致する・・・というよりも他に余計な小細工をする方が無駄が多く、非効率的なだけなのだが。
一央市の日没前を予定していたアグナロスの戦線投入の遅延、そのラグ間で突如、一央市攻略の主戦力だった8頭の『ゲゲイ・ゼラ・ロドス』のうち、残存していた5頭までもがロストした事態により、魔族サイドの最前線は状況把握に追われていた。
だが、アグナロスの戦闘開始を受けて士気は高まっていた。
「戻られましたか騎士団長!既に人間界でアグナロスが眷属の展開をした模様です!」
「でないと困る!」
―――しかし、百戦錬磨の王国騎士団長、《異翼》のアルエル・メトゥは、嫌な焦りを覚えていた。
「くそ、あの物臭ドラゴン!これじゃ戦争に勝ったとしてもヤツの食費で帳消しだ!!だから嫌だったのに!!」
一瞬で幾つもの都市を火の海にする怪物であると同時に、アグナロスは知性のある生物だ。知性があると表現すると妙に賢そうに聞こえるが、要は人間や魔族、その他数多ある世界に必ず1種族存在している人型生物のように、物事や感情を言語化し、認識するだけの能力を有しているという意味だ。その定義に賢愚は関係ない。
だから、知性を持つというのは個々の在り方に多様性を持つということなのだが―――当代のアグナロスはなかなかに癖が強かった。大食漢で美食家で、それでいて一番の問題が極度の面倒臭がりという点だった。王国の守護竜などと言えば聞こえは良いが、実態は温室育ちのボンボンである。
そこまで厄介なら捨ててしまえば良い気もするが、そうもいかない。
第一に、彼はリリトゥバス王国の権威と繁栄、そして存続の象徴として祀られる存在である。
第二に、今の彼を追放しても代わりがいない。『アグナロス』という生物は、現状彼一頭のみだ。正確には、原初より唯一無二の魔術的に生み出された生物だ。では、先ほどなぜ「当代」という表現が出たのかと言えば、『アグナロス』は転生を繰り返すものだからだ。およそ300年周期で『アグナロス』は生まれ変わり、姿は変わらずとも所謂人格や魔力の質、力の強さが激変する。この性質が”存続”を司る由縁だ。
そしてなにより第三の理由が、今このときに最も彼を手放せない理由となっていた。他でもなく、あの曲者こそが歴代でも指折りの強大な力を秘めていたのだ。大いなる力は侵略者への抑止力であり、被支配階級への抑圧力である。すなわち”権威”。今のアグナロスに転生したのがおよそ8年ほど前であり、時を同じくして王国の存在は、皇国が台頭して久しい魔界の近代史において、最も大きい時代を迎えていた。
だから、リリトゥバス王国は今のアグナロスを捨てられない。愚か者でも縋るしかない。
作戦本部に戻ったアルエルは、参謀のネテリにアグナロスの動向を尋ねた。
「ネテリ、眷属の話は途中で聞いた。それで、眷属は何体だ?」
「推定で千体程度かと」
「あー、そう」
期待通りで、アルエルは半ば呆れていた。やはり、力だけなら恐ろしいものだ。
人間はまだ知らない。『アグナロス』の最も恐ろしい力は巨体でも過剰な破壊力でも身に纏う高熱でもない。眷属の存在だ。アルエルが『アグナロス』を過剰戦力と評したのは、眷属の数のことだ。
ネテリの打ち出した推定数と自分の知識を合わせて、アルエルは呟いた。
「じゃあ、あと100回はおかわり出来るな」
彼の発言に、ネテリが目を見開いた。
実は、彼女は今のアグナロスについて詳しいことはほとんど知らない。直接アグナロスとの謁見が許されるのは王侯貴族と王国騎士団長、他国の政界の重鎮らのみなので、ただの軍官たるネテリは、アグナロスの人となりも、能力の強度も、話程度の知識しか持たない
多くの見識でアルエルを補佐するネテリでも、アルエルに知識で劣る数少ない対象こそが『アグナロス』ならぬ当代アグナロス個の情報だ。
「あいつはまさしくバケモノさ。先代様が全力を使っても一万しか生み出せなかった眷属を今のアグナロスなら少し力むくらいで出せてしまう。千なんて、小手先でこなしてしまうんだよ」
「計十万の炎の軍勢―――」
自分で『アグナロス』の投入を提案しておきながら、想像を超える力にネテリは口元が緩んでいた。もはや算段も駆け引きも無視して、勝ちを確信した瞬間だった・・・が。
「ネテリ、笑うのはまだ早い。結局、これは一番マシな失敗だ」
「失敗・・・?なぜですか、団長?」
「お前の弱点はそこだ。チェックメイトで安心するな。盤を返されるかもしれない。だから思考を放棄するな。頼むから、冷静でいてくれ。私には冷静なお前の判断が必要なんだ」
空白の1時間。アルエルがアグナロスを説得するのに要した時間だ。その空白が、アルエルには堪らなく恐ろしかった。
人間の想像以上の抵抗、『ロドス』全個体の喪失。アルエルの中で、自分たちが意気揚々と仕掛けた戦争の結末は既に霧がかって見えなくなり始めていた。人間は本当に恐ろしい種族だった。アルエルにとって、人間の危険度は急上昇している。適当な表現があるとするなら、ブラックボックス。存在そのものがブラックボックスのような連中だ。どこになにが隠れているか分かったものではない。
今さらアグナロスを向かわせた程度で安心なんて出来るものか。
「おいネテリ、私があのアホドラゴンと話している間に変化はなかったか?」
「え、えぇ・・・『門』から飛行機のようなものが突入したようですがアグナロスが撃墜したのでなんの問題も」
「ほらやはりだ!!」
アルエルはテーブルを叩き、それから放送器具をオペレータから取り上げた。
「総員に告ぐ!!我々は至急『箱庭』の防衛を開始する!!ⅣからⅩまでは『門』周辺に行け!Ⅺ、Ⅻは遊撃隊とする!ⅠからⅢは私と共に本部の防衛だ。特に”術者”は死守しろ!!」
ざわつく。困惑するのは騎士団所属ではない『箱庭』勤務、あるいはアルエルの元に来て日が浅い新米騎士たちだ。
それもそのはず。なにせ、ネテリとの相談(という名の丸投げ)なしでアルエルが指示を飛ばすのは、この戦いでは初めてだったからだ。
だが、彼の一声で騎士団の多くと傭兵たちはすぐさま行動を開始した。
アルエルの握った機材は握力で変形していた。それだけアルエルは真剣だ。
「・・・恐らく、もう手遅れだ。ネテリ、切り替えろ。主戦場はアグナロスに任せれば良い。全力でここを守るぞ」
「・・・・・・はい」
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「うぉあああああああああああああああああ!?」
アルエル・メトゥが防衛布陣を展開してからほどなくして、再び『門』をくぐり、魔界へと降り立つ影があった・・・が、それはあまりにも小さすぎる故に、誰もがその取るに足らぬ侵入者に気付くのが大きく遅れた。