episode6 sect55 ”もう、置いていかないで・・・”
「くそ、くそ、くそ――――――ッんだよ・・・!!」
鏡の中で目を腫らす自分を、思い切り殴りつけた。電灯の瞬く静寂を、暗く煌めく銀の破片が舞った。鋭い痛みで、迅雷は拳を引き戻した。数カ所、切ったらしい。指の隙間がぬめる。
あれ以上屋上にいたくなくて飛び出して、こんな気持ちのまま慈音たちの待つ場所に戻るなんて考えられず、行き場をなくした彼が駆け込んだのが、トイレだった。夜、暗くなった学校のトイレは思っているより静かで、音のひとつひとつが鬱陶しいほど響いた。
「なんなんだよ、ちくしょう」
見透かしたような目、しやがって―――。これじゃあ、まるで、まるで、紺が―――。
「俺は、なんも出来ねぇのに、紺には出来るってのかよ・・・。馬鹿だ。みんな、みんな・・・馬鹿だ」
迅雷は、洗面台の上に置いていたスマートフォンを手に取った。画面の上にも散らばっていた細かい鏡の破片を払い落とす。電源を入れる。そして画面に映るのは、SNSの通知ポップアップ。右上には6件の通知を示す数字。きっと、新しい4件は、千影からだ。ポップアップのメッセージは、「千影さんがスタンプを送信しました」だけ。
開く、のボタンに指をかける。けれど、かけるだけ、タッチする前に手が止まる。恐かった。本当に千影がギルバート・グリーンに言われるがままに魔界へ行ってしまった現実が。千影が、どんな気持ちをこのメッセージに込めていたのか確かめることが。
「目を逸らして、なんになんだよ・・・」
怖じ気づき、腰抜けで、しょうもない言い訳ばかりだ。少し前の自分に逆戻りしてしまったかのようで、迅雷はあまりに惨めになって唇を噛んだ。どんなに気持ちを入れ替えて目標を探して大切な誰かを意識しても、迅雷の根っこはただの弱虫で泣き虫な男の子だった。勇気も実力も、仮初めの飾りだ。弱い自分をなんとか立って歩かせるための頼りない杖だ。
こんなときにウジウジとつまらないことばかり考えても意味なんてないことは分かっている。悲観して、浸っているだけじゃないか。だらしない自慰行為となにも変わりやしない。こんなのは、現実から目を背ける理由にはならない。
でも、それを自覚しているのにやめられないのだ。苦悩という歪んだ快感が、迅雷の精神を蝕んでいるのだ。
低く、押し殺すような嗚咽が壁に染み込み続けていた。
「誰かいるんですか?」
「・・・?」
声がした。
ここなら誰も来ないはずだと思っていたのに、こんなところを見られないで済むと思っていたのに、廊下の光が薄暗い男子便所に差し込んだ。迅雷は操作がなくて画面度がフェードアウトしていくスマートフォンを握り締めたまま、半分だけ顔を上げた。
「校舎内は危険かもしれないので―――って」
低い声。彼は迅雷を見つけ、足を止めた。
「神代・・・?」
「焔・・・先輩」
「お前――――――いや」
驚いた顔をしていたが、煌熾はすぐに真剣な面持ちに直って、改めて迅雷に歩み寄った。
「・・・なにかあったんだな?」
迅雷は無意味に左右を見たりして、すぐに腕でごしごしと涙を拭い、手の甲でぐずっていた鼻を押さえた。鉄の臭いがしたが、我慢して、口の端だけで無理に笑顔を作った。
「い、いやぁ、はは・・・見つかっちゃったなぁ、あはは。先輩もさっきのロケット騒ぎで駆けつけた感じですか?」
「そんなこと、どうだって良いだろ。目、真っ赤だぞ。なにがあったんだ?」
煌熾の口調は優しいが、目に力が籠もっていた。はぐらかされたまま流すことを良しとしない顔だ。でも、煌熾に言ってどうする。彼がそれを知ってどうなる。どうせ2人いても届かない世界の話だ。ランクが1だろうが3だろうが、学年が1だろうが2だろうが、余計な心配を生むだけだ。
「神代、お前怪我もしてるじゃないか。お前が戻らないもんだから、東雲たちも心配してたぞ。なにか・・・顔を出しづらいことでもあったんだろう?その様子じゃ、さ」
「・・・。なかったわけじゃないですけど・・・こんなこと、言ったとこで解決するわけじゃないし」
「悩みだって、誰かに打ち明けたら少しは気が楽になるものだろ?たまには先輩らしく後輩の悩み相談に乗らせてくれよ、神代」
「気が楽になったところで・・・」
「まぁ・・・解決にはならないかもしれないけどさ」
「なりませんよ」
「でも、なにかは変わるかもしれない。気分が落ち着けば出来ることが見つかるかもしれない」
「もう手遅れなんですよ、俺はなんもしなかった、出来なかった・・・!!変わんないでしょう!?誰かに話して俺だけ気楽になろうだなんて!!後悔からも逃げるみたいで耐えられない!!」
「ッ、うるさい、言ってみろって言ってるんだよ馬鹿野郎!!」
一瞬、炎に包まれたかと思った。
唖然だった。あの穏やかで大らかな煌熾が、怒鳴った。
・・・なぜ?なぜ、彼までもが悔しそうな顔をしている?
「焔先、輩?」
「・・・すまん。つい、声をデカくしてしまった・・・。だ、だけどな、神代。俺は―――」
慌てて煌熾が取り繕おうとしているところに、複数の足音が近付いてきた。
「なにかあったのか!?」
「屋上から逃げた生徒か!?」
エジソンと小泉知子ら人間ロケットの実行犯(事実は少し違うが)を探して校舎には多くの学園教師や、多少の自衛力はある魔法士たちが駆け回っているようだった。男性教師2人組に、煌熾は首を横に振って否定した。
「い、いえっ、そうではないんですが・・・」
迅雷を見た教師らは少し訝しんだが、煌熾の様子を見てすぐに険しい表情を解いた。
「そうか、なら焔、早く神代を避難所の方に連れて行ってやってくれ」
「えぇ、そうします。先生方も、お気をつけて」
生徒に心配されるようじゃな、などと軽口を叩いて教師2人は立ち去った。
「先輩・・・」
「神代。ここじゃなんだし、移動しよう」
「アリーナには、まだ戻りたくないです」
「そうか。分かった。じゃあ、校庭の方に行こう。今は誰もいないだろうしさ」
煌熾に連れられ、迅雷は彼の背中にぴったりついて歩いた。背後から窺える煌熾の顔は厳かでもあり、かと思えば気弱にも見えて、迅雷にはその心情がはっきりとは読み取れなかった。
校舎を出るまでの間、2人は一言も交わすことなく歩き続けた。脱ぎ捨ててあった自分の運動靴を見つけ、迅雷はつっかけるようにして昇降口を出る。先に履き替えた煌熾はこっちを見て待っていた。
校庭は、煌熾の予想通り誰もいなかった。避難所生活初日、夜風に当たりたいなんて人はいないのだろう。加えて、謎の爆音騒ぎだ。
『ゲゲイ・ゼラ』と『ワイバーン』の襲撃で荒れた校庭の端に、陸上部が使っている粗末なベンチがある。ひっくり返ったそれを立て直して、煌熾は腰掛けた。
「ほら、座れよ」
迅雷は、靴の1足半分程度、ちょっぴり少ない間隔を空けて、煌熾の隣に座った。
煌熾はまた無言だ。迅雷も、なにも言わない。風がよく分かる。生温い、夏っぽい風だ。ただ、湿度は空気の重さのようだ。
遠くに、まだ、断続的に光が見える。でも、少ない。舞い降りた魔界のモンスターたちも夜は眠るのだろうか。空には依然としてある程度、小型翼竜がいる。しかし、彼らの様子は大人しく、戦闘の激しさもあまり感じない。
「今のうちに先生たちも体を休めて欲しいんだけどな」
「・・・そうですね」
「神代、さっきは悪かったな。怒鳴って」
「いや、俺の方こそ、すみませんでした」
―――でも、やっぱり迷惑は掛けられない。
千影がたった4人の即席チームで魔界に突入したんです、なんて言って、煌熾はどう対応してくれるのだ。一体なにを強いるつもりでそれを説明すれば良い。
目を伏せて黙秘を決め込む迅雷に対して、煌熾は少し聞きたいことと違うことを、淡々と語り出した。
「いきなりなにをと思うかもしれないけどな、俺、嬉しかったんだよ。阿本に、このパーティー・・・『DiS』に誘われたとき。・・・ほら、俺って割と敬遠されがちだろ?俺自身の魔法士としての課題とか、まぁ全く関係ないわけじゃなくてもさ、一番に、嬉しかったからさ、メンバーになることを決めたんだ」
「・・・はい」
「なんていうか、夢だったんだ。変な話、さ。後輩となにかをするのが。なんかっていうのがどうにも漠然としてるけどな」
そう言って煌熾は照れ臭そうに頬を掻いた。しかし、そう語る彼の顔は確かに幸せそうだ。
大柄で日焼けした外見は威圧感があって、魔法士としても実力派で、学生としても真面目な印象の強い煌熾のことを多くの後輩たちは敬遠する。それは、別に彼のことを恐がっているのではなく、単に「凡庸な」自分たちにとって「秀抜な」煌熾が近付きがたい相手に感じているだけだ。
それを気にしつつも自分では解消しかねていた煌熾にとってあの日真牙に声をかけられ、迅雷や慈音、そして千影たちとも『DiS』の仲間になれたことはすごく、特別な出来事だった。
「頼られるのって、なんだか嬉しいだけじゃなくて、ワクワクするんだ。あのとき学生だけでパーティーを組もうだなんてなにをバカなって言うことも出来ただろうに、舞い上がっちまってな。―――あぁ、もちろん俺たちの活動に反対するわけじゃないからな?―――舞い上がって、ワクワクして、利益とかそんなの二の次だったんだ」
いろいろ逃げ腰の文句を並べながら内心やる気満々で話を聞いていたあのときの自分を思い出して恥ずかしくなってきて、煌熾はジンワリと汗をかいた。
「いやはや、おかしいよな!ははは・・・」
「全然」
「えぇ・・・そ、そんなリアクションしちゃうの・・・?」
フツーにショックを受ける煌熾を見ていて、迅雷は思わず小さく笑ってしまった。
「違くって・・・全然おかしくないですよ。だって、なんかよく分かるから」
千影が一緒に戦って、と言ってくれたあの瞬間の感情は、迅雷にとってなににも代え難いもののひとつだ。
あぁ、つまり、今の煌熾も同じなんだ。迅雷は納得した。彼も、そういう点では自分と一緒なのだ。ここにいるのに、隣にいるのに、置いてけぼり。そんなのはもう嫌だ。
「頼って、頼られて・・・」
「そうだな。頼って、頼られて、支え合っていけたら良いよな。・・・俺もさ、一応分かってるんだ。お前や阿本、それから東雲なんて長い付き合いで、千影も神代にとってなにかすごく特別な存在だってことは」
煌熾は空を仰いだ。空を徘徊する翼竜の群れを眺めて、仕方なさげに息を吐く。
「こうして『DiS』のリーダーまで任せてもらってるけど、俺はきっとみんなからしたら新参者なんだろう」
「そんなことは―――」
「良いんだ。それはこれからもみんなでいろいろやってく内に自然に、どうとでもなるからさ。でも、今はまだ少し距離感が分からないんだろ?俺だってそうさ」
多分、煌熾の考えていることは的を射ている。煌熾と迅雷の付き合いは精々4ヶ月程度であり、千影との間にあったようなドラマもない。優秀な先輩として尊敬はしているし、しばらく行動を共にして親しみも感じている。でも、確かに他のみんなと同じ距離に煌熾がいるのかと言うと、一歩半くらい、遠い気がした。
迅雷はやっと、煌熾が怒鳴ったとき、本当はなにが言いたかったのか、謝る彼が言いかけた言葉を想像出来るようになった。
「神代、俺はお前が困っているなら力になってやりたい。したいことは手伝うし、行きたい場所なら連れて行ってやりたい。無茶振りされても、きっと真に受けて頑張るかもしれない。でも、絶対に迷惑だなんて思わない。もし神代がそんな心配をしてるなら、やっぱりバカだ。後輩なんだからさ、先輩になんて世話かけて良いんだ。そういうもんなんだと思う」
「そういうもの、なんですね」
「あぁとも。むしろ1人で抱え込まれる方が迷惑だ。かけて欲しくない方の、な」
煌熾は気前の良い笑顔を見せた。良くない癖はいろんな人に何度も指摘されるもので、迅雷は頬を掻いた。ただ、煌熾は責めるのではなく、こっちにもっと良い道だってあるんだぞ、と手を引くような優しさが感じ取れた。
「だからさ、神代。お前の抱えてること、俺たちにも少しは分けてくれ」
良いのだろうか。そうは言っていても、だって、話のスケールが違う。
煌熾の瞳は真っ直ぐ迅雷の瞳を見据えて、放さない。
あぁ、そういうものなのか。少なくとも、彼には、そういうものなのか。先輩らしさへの憧れなんて安い動機はとっくに通り越して、彼には彼の覚悟がある。
良いのか、悪いのか。まだ不安だ。確かに、言えばなにかが変わるかもしれない。だけれど、その変化は、予測不能だ。それでも。
「参ったな・・・ホント、参ったなぁ・・・はぁ。焔先輩、教えるからには、やっぱ知らないってのはナシですからね」
悩み相談は始まってすらいないのに、気が付くと迅雷は自然に頬が緩んでいた。頼られることの喜びがあるように、頼れることの喜びもある。遠慮の塀を1枚よじ登って向こうを覗いたら、それは転がっていた。