episode6 sect51 ”最後の一瞥”
横顔面が重い音を立てた。頬骨を軋ませて硬い拳がめり込んだ。ぐわんと世界が横転して、体が傾ぎ、脚が宙に浮いた。迅雷は、殴られたことは分かっていた。意識があるということは、今度もまた、紺には加減されたということも分かっていた。俺のことが嫌いなんじゃないのか、と心で呟く。分からない男だ。
迅雷は、屋上の落下防止用の鉄柵に激突した。ひしゃげた鉄柵から転がり落ちて、迅雷は紺の足下に這いつくばった。痛みで、声を失った。
「怖じ気づいたかよ?」
短い呼吸を繰り返す迅雷を見下ろして、紺はにやりにやりと表情を整えながら問いかけた。何度会話を繰り返しても、紺の感情は見えない。本心は錯綜している。それでも、言葉の意味が、迅雷にその片鱗を感じ取らせる。嘲笑―――だけ、だろうか。迅雷のことなどその気になれば片手で殺せそうなものを、嬲って嘲弄して遊ぶ風でもなく。
薄いスリットの奥に潜ませた黄色で、紺は迅雷の黒い瞳を覗き込む。
「やっぱ、任せてらんねぇな。情けねぇよお前。ホントさぁ、自分でもそう思わないか?『でも』だの『だけど』だの、ウゼぇんだよ。正直に言ってみろよ、僕は邪魔と言われたし危ないのは恐いから素直にウジウジしながらあいつならきっと大丈夫無事に帰ってくるさと信じて待ってることに決めました、って。結局お前、ただのインポ野郎じゃねぇか」
「・・・んのかよ。アンタに・・・れらみたいな弱いヤツの気持ちが分かるかよ・・・分かるもんか・・・」
「あ?あーあ、こいつぁダメですわ」
つまらなそうに蹴り転がされた迅雷は切れた唇から出る血を手の甲で拭って、重そうに上体を起こした。好き放題言い放題の紺を睨んでも、もはや彼は迅雷を見てもくれない。反抗心すら無視される屈辱に、既に切れた唇を潰すように噛む。
そうだとも。分かるわけがない。あんな規格外の超人に迅雷の気持ちが分かるわけがない。それだけの力があればこんな惨めな悩みになんて直面しないだろう。あの場にいた迅雷が紺と同じくらいの戦力だったなら、自分からなにか言い出す前に千影と一緒に話に参加出来たはずだ。まして、不死身にすら思える肉体を持っている紺ならデッドエンドなんかにビビる必要もないだろう。でも、迅雷は傷を負えばすぐに衰弱する人間だ。殺されれば死ぬ人間だ。怖じ気づくことのなにが悪い。
―――アンタの価値観で俺を判じるな。
がちゃ、と、迅雷の背後で乱雑に扉が開いた。迅雷も潜った階段から屋上に出るための扉だ。
「み、神代君・・・!?どうし・・・っていうかなにが!?うわ、血も出てる!」
迅雷に気付いて駆け寄ってきたのは、地味目なおさげの眼鏡少女、小泉知子だった。屋上に来る前から慌てていた様子を見るに、きっと迅雷が鉄柵に叩きつけられた音を聞きつけたのだろう。彼女に続いて、またも見知った眼鏡の男が現れる。研だ。
「なんだこりゃ。一体どういう展開?」
完成したらしいジェットパックをリュックの肩紐を片方だけで背負ったみたいに担いだ研が、呆れ顔で紺に尋ねた。対する紺は「さぁ」と肩をすくめるだけだった。研は面倒臭そうに溜息を吐く。迅雷の顔は痛々しく腫れ上がっている。「さぁ」だなんて、全く、紺がなにも知らないわけもないだろうに。しょうもない癇癪でも起こしたのだろう。
介抱しようとしてくれる知子に大丈夫だと言って、迅雷は自力で立ち上がった。殴られた衝撃で目眩が残っているのか、若干平衡感覚がズレていてふらついてしまう。
「やっぱり危ないんじゃ―――」
「だ、大丈夫だって・・・こんくらい。ホントになんでもないからさ、心配しなくて良いよ」
咄嗟に手を出して支えようとする知子を留めて迅雷は笑顔を作った。むしろ気を遣わせそうだと分かっていても、ついそういう返しをしてしまうものだった。
迅雷は知子と共にやって来た研が持っている鉄の箱のような機械を見た。
「この際2人が知子と一緒にいた理由とかその辺は聞かないけどさ、その機械はなんだ?なにする気だよ、今度は」
「お前が出来ないことをやるんだよ」
「・・・どういう意味だよ」
「言わないと分かんねぇか?」
迅雷と紺の険悪な間柄に、第三者である知子が戸惑っている。顔の輪郭が似ていたりして兄弟か親戚かとも思ったけれど結局赤の他人だと分かった2人が、しかしその実赤の他人以下の劣悪な関係だったのを目の当たりにすれば、なんの感想も持たずに場面に出くわすよりいくらか余計に困惑もするものだろう。
研は2人の顔を見比べて顔を青くする知子の肩をそっと引いて一歩だけ下がらせた。
迅雷の傍らに千影がいないことと今のやり取りからおおよその事の流れを察した研は、喧嘩の仲裁をすべきか否かで悩み、頭をがしがし掻いてから一歩踏み込んだ。
「まぁ待てよ、紺。話くらいは聞かせてやったって良いだろ?」
「・・・好きにしろよ」
大人になりきれない青年と、大人と子供の境目で戸惑い苦しむ少年は、区別で言えば同じ部類だ。こんなときにこんな感想を覚えるのは空気が読めていないのかもしれないが、それでも一足先に大人になってしまった研には2人の在り方がもどかしくもあり、羨ましくもあった。
例えるなら、今の彼らはスイッチを切り替えて電流が流れ始め、定常状態になるまでの刹那に似た、振り返れば短すぎる激動の過渡期だ。複雑怪奇な精神の過渡期、というか。あぁ、自分で言っておきながら、あまりよく分からない気もする。つまり、そういう瞬間を見ているのだ。
感慨を胸の奥に押し留めつつ、研は迅雷に対して空を指差して見せた。そこに浮かんでいるのは、夜闇を照らす巨大で妖しい光の紋様だ。
「なぁ、ボウズ。空の『門』までひとっ飛びする手段があるとしたら、どうする?」
「じゃあ・・・その機械って」
「まぁ、つまりそういうことだな。見ての通り、1人用だけども」
迅雷はそのごく簡潔な説明を受けて、胸の内側がざわつくのを感じた。「どうする?」――――――これがあれば、千影を追いかけて空の向こうに行ける。一緒にこの困難に立ち向かうチャンスがそこにある。
でも、だけど、そんな無謀を千影は許容するだろうか。今回まで『荘楽組』のときのようにうまくいくとは限らない。
「行きたくても・・・行く手段があっても・・・俺は・・・」
「―――うん。賢明な判断だと思うぜ。あんなとこ、自分から突っ込むヤツはただの死にたがりだ。ボウズはまともだよ。つっても、まぁお前がこいつを使いたいと言い出したって貸してやる気はなかったけどな」
「・・・紺が、行くのか?」
もはや分かりきった質問だった。紺が、「あぁ」と答えた。そこに、なんの迷いもなかった。
「俺はお前とは違うんだよ。第一、俺たちは喧嘩売られてんだ。ムカつく連中がそこにわんさかいるんだぜ?ブッ殺してやりてぇよなァ・・・!」
不気味に声だけが嗤う。
「俺はやるぜ。お前は地上で指咥えて見てな」
「と、まぁ死にたがりのバカはこんなとこだからよ。悪く思うなよ、ボウズ」
「・・・・・・」
研はそう言って装置を紺に渡した。迅雷はただ口をつぐみ、俯いていた。
ギルドの輸送車の群れがマンティオ学園の前で止まるのが見えた。放棄区域の民間人の再避難は恐ろしいほど迅速に完了を迎えようとしている。
それはつまり、あと少しもしないうちに千影があの空の向こう側へと飛び立ってしまうということだ。
なのに、迅雷は俯いていることしか出来なくなっていた。
重たいエンジン音が去って行く。
紺がジェットパックを背負った。研が大まかな装置の使い方をレクチャーしている。紺はすぐに加減を確かめるように装置から火を噴かせた。わずかに浮いて、すぐに着地し、ジェットの火が服の裾に引火したから慌ててはたき消す。
「いけそうか、紺?」
「あぁイイね」
飛び立とうとする紺を、研が引き止めた。
「ちょっと待ってくれ。せっかくだからあいつにもお前が飛んでくとこ見せてやりたい」
研が「あいつ」に連絡をすると、屋上に佐々木栄二孫が飛んできた。迅雷はエジソンの方を振り返るけれど、彼は迅雷を素通りして研の横に駆け寄った。
「遂に本番なのですネ、先生!」
「あぁ、見てな。絶対成功するからよ。そして喜べ。お前はこのクッソくだらねぇ戦争を終わらせた英雄だぜ」
「いいえ、僕はなにもしてないですヨ。ただ見届けるのみデス」
暗にその大役を果たしてくれるものだという重すぎる期待を寄せられていても、紺は表情ひとつ変えなかった。自信があるのだ。死なない自信が、勝つ自信が、蹂躙する自信が、生還する自信が。
紺は服の裾を工夫してから再び装置から火を噴かせる。
「じゃあ研ちゃん。ちょっくら行ってくるわ」
「あぁ。連中に目に物見せてやれ。二度と人間様にたてつけねぇくらいにな」
紺が飛び立つその瞬間、爆風と埃で眩む寸前の最後、ほんの一瞬だけ、迅雷は彼と目が合った。変わらず冷たく沈む黄色の瞳の奥底にあるなにかが、その瞬間だけ迅雷の網膜を通り抜けて視神経を駆け抜け、脳に溶けていった。
「・・・なんだよ、その目は」
もはや返事などない。