episode6 sect25 ”もう、誰も”
床が急に落ち抜けたかのような縦揺れが襲った。慣性に耐えかねて建物という建物全てが不気味な軋みを上げ、校舎の方から窓ガラスが砕け散る音がした。フェンスの向こう側で数本の電信柱が傾ぐ。そして、揺れはそれきりだった。
「うおっ!?なんだ、余震か!?」
「みなさん、落ち着いて!余震は今後も予想されます!慌てず、大丈夫、慌てず落ち着いて思いやりをもって移動を続けてください!」
明日葉と煌熾は今の余震で動揺した市民にすぐさま声をかけ始めた。
だが、あまりにも奇妙な揺れ方だった。萌生は難しい顔をして考えている。
「一瞬大きく揺れる地震というならあり得るけど・・・今のは変ね。余韻のような小刻みな揺れさえないなんて」
大きな地震なら、一般に本震後にも足下に感じる程度に揺れが減衰していく様子が分かるはずだ。だが、今の縦揺れは一度ガンと叩かれたような衝撃があるのみだった。その前にも後にも地鳴りの一つさえ立たなかったのである。
もはやさっきの本震も普通の地震ではないが、これもそうだとして、次に変化があるとするなら―――。
「空になにかあるぞ!!」
誰かが叫んだ。
弾かれたように萌生は空を見上げた。
「うそ・・・」
空に広がっていた亀裂の向こう側にあった『それ』が、萌生たちの頭上一面・・・街全体の上空を覆っていた。
『それ』は、途方もなく巨大な、『穴』だった。異世界と繋がる、位相と空間が曖昧となる現象―――人間が位相歪曲と呼ぶ現象と酷似していた。
しかし、その規模たるや、観測史上記録的な巨大さであった。
自分以外の魔力を感知する能力に劣る人間でさえ、その『穴』から放散される魔力を浴びて肌にザラついた痛みを錯覚させられた。
「ダメよ・・・そんな。こんなの・・・だって、無茶苦茶よ・・・」
ゆっくりと、空に開いた『穴』からなにかがこぼれ出す。闇だ。ドロドロと薄気味悪いヘドロのように、あるいは漂う冷気のように、真っ黒な瘴気が溢れ出している。
凍り付くような恐怖を全身を呑み込まれた萌生は体を抱き締めて、震えを抑え込もうと試みた。そうしていないと、心が挫けて蹲ってしまいそうだ。こんなにも巨大な位相歪曲なんて、もはや手の着けようがない。いつか塞がるのを待つうちに一央市なんて簡単にモンスターの群れで埋め尽くされるのは目に見えている。そして、あの不気味な瘴気はなんなのだ。なにもかもがおぞましい。
彼女の隣では、あの明日葉さえ青ざめた顔のまま固まっている。煌熾も同じだ。いや、もっともっと全員、誰もかもがそうだった。
その怒号が彼らの耳を劈くまでは。
「なにしてんの、さっさと逃げろよッッ!!」
空の闇より現実的な痛みを伴って、鋭い冷気が避難者たちの足下を駆け抜けた。
声を張り上げたのは、避難の様子を端から見ていた天田雪姫だった。
「死にたくないから逃げてんでしょ。じゃあ死なないように逃げ果せろよ・・・!」
水を打ったように静まりかえった空間に放たれた雪姫の愚痴同然の一言が、今この瞬間の人々の心に突き刺さる。ただの正論で片付けられないリアリティーが、雪姫の声には乗っていた。
直前までの絶望感が嘘のように、避難者たちの列が再び、そしてより着実に流れ始めた。
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だが、その一言を放った雪姫はそのまま校門の側で待ち続けていた。誰を―――と考えるほど、雪姫は自分が冷静でないと思い知る。
未だに家と電話が繋がらない。とっくに回線は復旧して、みなが携帯電話を耳に当てているというのに、雪姫だけは繋がらない。家に置いてきた妹は、夏姫はどうしているか。もう避難しているかもしれない。どこへ?地域で決められているのは彼女の通う小学校だ。なら、ここで待つことに意味なんてない。ないはずなのに。
1人、また1人と校門を見知らぬ老若男女、有象無象が過ぎゆく。違う。違う。背格好を見る度に、顔を確かめる都度に。馬鹿なことをしていると自覚していながら、探してしまう。
でも、同時に少し予想していたことでもあった。有事のとき、あの子がなにを頼ろうとするのか、と。だから、ここで待ってしまう。
「・・・?『穴』が・・・今度はなに?・・・いや、あれは―――」
上空で起きた次なる変化に、雪姫はどこかで聞いた知識を思い起こした。
ギルドには大量の『門』が保管されている。異世界へと繋がる位相と空間の『穴』だ。その外見はただの魔法陣だ。一見して中に踏み込めるような雰囲気はない。しかし、それはある意味で当然のことだ。元来、『門』とは人間界で起きた位相歪曲を、消えないように特殊な魔法の力で固定化したものなのだから。
人間が異世界との交流を持つため、あるいは異世界からの働きかけによってそうすることを余儀なくされたため―――理由は諸説あるが、IAMOの管理体制の下で人々は手頃な大きさの位相歪曲を『門』に作り替え、利用してきた。
では、今頭上で起きているあれはなんなのか。
空の『穴』の表面を、円盤状の怪しい光の紋様が駆け巡り、覆い尽くした。描かれた術式は完成と共に光を増し、回転し始める。
その紋様は、魔法陣と呼ぶべきものだ。そして、それは人間が『門』と呼ぶものだ。安定化された世界間の通用口に他ならなかった。
「戦争・・・」
雪姫は空を見上げてその単語を呟いていた。
何者かによって意図的に引き起こされた空の『穴』・・・いや、『門』は、人々の脳裏にそのことをよぎらせた。
「―――なにか落ちてくる」
あまりの巨大さに距離感が狂うが、確実になにかがこちらへ向かって落下してくる。砂粒のようだった影は次第にその輪郭をはっきりと現し始めた。
翼、長い首、尾、爪・・・。
その姿を確認した直後、雪姫は問答無用で空に向けて特大の氷刃を突き立てた。
突然の攻撃に避難者や学園の生徒、教師らが驚くが、雪姫の対処は間違いなく最速かつ最適だった。
高速で撃ち出された氷刃に飛来するその勢いのまま衝突したアンノウンは見事なほどに血液を撒き散らして四散した。人間の頭ほどはある血滴がぬめった破裂音を伴って地上に降り注ぎ、同時に無数の肉片が散乱した。
人間と同じか、少し大きい程度の生物だった。質量の大きい肉塊と骨片から非力な一般人を守るため、学園の教師らは迅速に姿勢を切り替え、魔法を行使し始めた。
雪姫は自分の頭上に落ちてくる肉片のひとつを粉雪を操って受け止め、手にとって観察した。ほんの1秒程度ですぐ黒い魔力の粒子となって霧散してしまったが、硬そうな鱗や薄い体毛が残っていた。普段一央市に出現するモンスターとは全く異なった特徴だ。
眼前で平然と行われた凄惨な虐殺行為と市民には刺激の強すぎる残骸と化した死体の雨により、誰が最初ということもなく悲鳴が波及した。危険から救われた安心感に暴力の恐怖が勝っていた。
だが、もはやこのような事態になった以上、一刻の猶予もないと思うべきだ。民衆はパニック寸前だが、その一方で、混乱手前の危うい緊張感の影響か、かえって避難者の列の流れは速まっていた。
直にこれより酷い状況になる。血や肉を見ていちいち悲鳴を上げて足を止めていては、そのうち自分の内蔵や骨を目の当たりにして声を出す間もなく死ぬことになるかもしれない。非日常の嵐の中で、最も確実に助かるにはどうすべきか多少は分かってきたのだろう。
幸いなことに、列の残りも少ないそうだ。ここを凌げば、少しは状況も好転する。
活性化し始めた避難の動きを尻目に、雪姫は行列と上空を交互に、せわしなく見比べ続けた。空からはモンスターが飛来し続けている。それはマンティオ学園だけではない。恐らくは一央市全体で同じ被害が出ている。
身内の安否は気になるが、この場を離れることもますます難しくなった。空を舞う見慣れない中型モンスターに対処しながら雪姫はひたすら人混みの中に夏姫の姿を探し続けた。
「お願いだから・・・いてよ・・・」
悲痛とも取れる焦りが、雪姫の鉄壁の布陣に隙を生じさせた。大きく開いた弾幕の隙間から数匹のモンスターが直上に進入してきた。
だが、あえなく雪姫が撃ち漏らしたそのモンスターたちを爆炎が包み込んだ。煌熾の魔法だ。
「天田、集中が切れてるぞ!」
「うるさい!!」
「ひゃいっ、失敬!」
煌熾は雪姫に活を入れた。ところが、真に迫るほどの圧が籠もった彼女の逆上でむしろ煌熾が怯まされた。
「殺りゃあ良いんでしょ・・・殺りゃあ!!」
「違う、時間が稼げれば良いんだ!!」
「同じじゃないですか、それは!!」
あの数の敵をまともに相手にするな、という意味でもある。分かっているが、やることは同じだ。
まだ列の最後尾にいるかもしれない妹が逃げ切るだけの猶予を―――というのは論理的じゃない。でも、とにかくこの場の避難者をアリーナの詰め込むだけの時間は稼がなくてはならないのは確かだ。
雪姫は強く唇を噛む。
「誰も死なせやしない・・・ッ」