episode6 sect24 ”天、崩れる刻”
―――空が、崩れる。
頭をよぎったその表現は、彼自身さえ困惑させた。思い浮かべたその表現は本人にも一切理解出来るものではなかった。
でも、それ以外の、それ以上に相応な表現が、迅雷には分からなかった。
点に伸びた妖光は消えて、まばらな灰色の雲の他になにもない空に大きな亀裂が入り、広がっていく。
「迅雷、なにが起きてんだ・・・これ」
「知るかよ。知らないけど・・・ッ。真牙、急ごう」
まずは直華を迎えに。その次は―――。
空から街へ、黒板を引っ掻いたような不愉快な軋轢音が降り注ぐ。
立て続けに巻き起こる天変地異で市中は混沌としていた。逃げ惑う大人がいれば、逃げ場など無いと諦め蹲る老人もいる。頭のキャパを数度突破して、異様な空を輝く目で眺める子供だっている。
有志が避難の呼びかけをしているが、所詮一般市民に過ぎない彼らの影響力はたかが知れていた。
「ナオ・・・みんな・・・!」
でも、悪いが迅雷は彼らに構ってやれない。悲鳴を上げる名も知らない誰かに拘泥していては、本当に大事な人たちの元へは辿り着けなくなる。
「―――迅雷、おい、迅雷!!・・・どけ!!」
「なっ!?」
・・・そうスタンスを決め込んでも、人を見捨てることへの罪悪感は迅雷の胸中で渦巻いていた。誰にも当然の葛藤だろう。まして、これまであの『約束』に妄執していた迅雷には。
その重圧に耐え、前だけを見ようとしていた迅雷は、真牙が自分の名前を呼んでいたことにも応じるのが遅れた。
ようやく気付いた直後に、迅雷は真牙に突き飛ばされ、ぬるく熱されたアスファルトの上に倒れ込む。
なぜ今そんなことをするのか?苛立ちさえ覚えて真牙に振り返った迅雷は、しかしただ短く、悲痛な呻きを上げるのみだった。真牙は辛そうな顔をして、笑っていた。
「おっせーよ、バーカ」
それは、降ってきた巨大な『空の破片』が真牙を押し潰す瞬間だった。
●
一央市ギルドでは既に避難者の受け入れを開始していた。いや、本当は受け入れの準備と平行してなんとか回しているところだ。
元々、ギルドが保有する魔法戦を想定した大型アリーナや小闘技場等は、大事に際して周辺住民が逃げ込めるように構想されたものでもある。非常食や飲料水、毛布、常備薬類は一定量保存されている。
テレビ・ラジオの放送局と連携して一央市内全域の住民には避難勧告を出した。市内を巡回する魔法士に対してもIAMOのアプリケーションを介して逃げ遅れた住民の避難を助けつつ、特に高ランクの魔法士については万一の場合の戦闘にも備えた上での行動を促した。
ギルド敷地内の大型スピーカーからもサイレンと避難指示を飛ばし続けている。
避難所の設営に参加しながら、日野甘菜は逃げ込んでくる人々の中にお得意様の少年少女たちの顔を探していた。
「まだいないか・・・。ちゃんと逃げてるのかな。あの子たちってやることメチャクチャだからなぁ・・・。変に出しゃばってなければ良いけど」
「日野さん、1人でブツブツどうしたの。例の神代さんとか天田さんとこのお子さん?」
「あ、安浦さん。えぇ、そうなんですけど・・・本当心配で。ごめんなさい、この忙しいときに個人的なことを」
せかせかと駆け回っている他の職員らを見やって甘菜は反省した。しかし、彼女に声を掛けた男性職員はそれを責めたりはしなかった。
「まぁ分かるよ。仕方ない。特に仲良くしてたもんね。でもまぁ、あの子らは学園の生徒さんだからそっちに逃げたかもしれないし、ここにいないからって心配しすぎるのも良くないんじゃないかな」
「だと良いんですが・・・」
あまり心配しすぎても可哀想か、と考えることにして、甘菜は首を振った。ギルドの職員として自分に出来ることをするのだ。
清田浩二率いるレスキュー隊の一部隊が現在あの謎の光の発生点である旧セントラルビル跡地に調査・偵察、あるいは対応のために急行している。桁違いの規模だが、ギルドがする仕事はいつもと変わらない。連携する魔法士たちと共に迅速かつ着実に危険を取り除き、民間人の生活を守るだけだ。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「おっと、なにかな?」
サボテン(?)のぬいぐるみを抱いた女の子が甘菜の服を引っ張った。親とはぐれたのだろうか、それとも落し物をしたのか。縮こまった少女を不安がらせないように甘菜はしゃがんで、にっこりと笑う。
「いいよ、お姉ちゃんに言ってごらん?」
「うん・・・あのね、お空がね、変なの」
「お空?」
空が割れたのは知っている。だが、女の子に連れられてアリーナの外に出た甘菜が見上げた空は、完全に崩れ尽くし、更なる威容を呈していた。
「あれは・・・そんな・・・!?」
●
マンティオ学園においても地域の住民たちの避難受け入れが始まっていた。ただの震災で終わらない不可解な現象は、この一央市にのみ起きているようだ。ラジオやスマートフォンを用いてニュースを視聴できることは分かっていて、人々はそれを頼りになんとか状況に追いついて、自分は冷静でいられていると思い込むための努力をしているかのようだ。
学園の教師陣は当面、学園敷地内、及び周辺のみに限定した安全確認をするようギルドからの通達を受けた。避難しなかった者の面倒は見なくても良いということだろう。いや、あるいは教員全員を一箇所に留めることでこの場所の安全性を強調し、避難すべきと思わせることこそが狙いかもしれない。
慈音や煌熾といった生徒たちも、校門付近で避難者の誘導を手伝っていた。そろそろ3つある魔法戦用アリーナも開放しなければならなくなりそうなほどの人数が押しかけている。生徒の手も借りなければまともに整理も出来ないのだ。
「慈音さん、迅雷君にお電話差し上げてはいかがですか?もう回線は復旧していると窺いましたから、連絡も取れるはずでしょう」
矢生は指示を出して誘導を続けながら、隣にいる慈音にそう勧めた。しかし、慈音は首を横に振って心細そうな笑みを返した。抱いたは心配は少しも隠せていない。
「ううん、いいの。本当はそうしたいけど今はとしくんも大変だと思うから」
「そうですか・・・そうですわね。私たちも今はこの仕事に力を尽くすべきですわね」
また別の場所では、明日葉が怒鳴り声を上げていた。
「うがーっ!!なんでいい歳して『おはし』の『お』も出来ねーんだよォ!!」
「こらこら、子供が泣いちゃうでしょ」
子供どころか大人まで気圧されている。余計に避難が滞ってしまってはどうしようもないので、萌生は明日葉を植物のムチでしばきながら避難者にフォローを入れていく。
ただ、明日葉のキレる気持ちも分からなくはない。子供の頃から避難訓練なんて飽きるほど繰り返してきたはずなのに、いざ本番となるとこの有様だ。こんなときこそ大人は子供の手本として振る舞わなければ格好がつかない。
萌生は小さく溜息を吐いて、明日葉とは逆のお隣さんに声を掛ける。
「学園祭のときよりよっぽど賑やかね。そう思わない?焔君」
「いや会長、今は冗談言ってる場合じゃないでしょう―――ああほら、押さないで」
転ばされそうになった男の子を助けながら、煌熾は何回言ったか数えるのも馬鹿らしい注意を呼びかける。片手間にたしなめられた萌生は不満げに頬を膨らませた。
「もう、今だからこそよ。楽しいことでも考えていないと。私だって本当は不安なんだから」
「え、あ!?そっ、それはなんというか、すみませんでした・・・」
「あーもう!そういうところよ、真面目すぎなの。しおらしくしないで冗談の1つでも返すのが礼儀よ」
「えぇ・・・」
良い意味で煌熾は調子を狂わされた。萌生も、明日葉も、こんな状況にあって軽口をたたき合っている。不安なんて見て取れない。
「やっぱり先輩たちはすごい人たちですよ」
「あら、ひょっとしてそれが冗談のつもり?」
「いや、本心で」
煌熾の言葉が出終わるか否かのそのとき、電車が脱線したかのような音と共に、一度だけ、地面が縦に大きく揺れた。