episode5 sect96 ”我が子よ”
「やれやれ・・・ようやく帰りやがったぜぃ」
ずっと昔は怖かった気がするのに、今はもういろんな場所を飛び回るうちに地上数十メートルの断崖絶壁から真下を見下ろしてもヒヤッとしなくなったように思う。けたたましく鳴り響く救急車のサイレンが遠くなり、それを追うように出発したマイクロバスのバックライトが見えなくなった。
あんなにも賑やかだったここも、やっと廃墟らしく静かになった。
本来事件とはなんの関連もなかったはずの魔法士たちが無事に帰っていくのを遠くから見送ってから岩破は口元が寂しくなって、煙草を、と思い胸ポケットに手を伸ばした。
「・・・っと、くそ。そういやぁそうだったなぁ。チッ、やっぱとんでもねぇクソガキじゃねぇか、まったく」
ポケットに入れていた煙草の箱とライターは、メモリと一緒に千影の攻撃に貫かれてしまっていた。ライターオイルでじっとり濡れた煙草に火を点けようとは思わない。その辺で燻っていた残り火の中に、ゴミになったそれらを放り入れる。
まだ来ぬ商売相手を待つ間、岩破は空を見上げながら昔のことを思い出していた。
やはり、寂しさはあるものだ。しみったれて自分らしくもないと分かっていながら、岩破は回顧に耽るのをやめられなかった。やっぱり年を食ったなぁ、と実感する。
親父なんて言うけれど、岩破にとっては千影なんて半分孫みたいな存在でもあった。気が付けば可愛くて仕方がなかったのだろう。千影に迫る人間の悪意を力が及ぶ限り払いたくて、だから彼女をあの男の前に再び立たすようなことはさせられなかった。でも、そのために千影に立ちはだかった自分まで彼女に降りかかる火の粉の一粒になってしまっていたのは皮肉なものだ。
所詮岩破は悪党だ。気に入らない相手を爆殺したことはよくあるし、胡散臭い組織があれば『荘楽組』で叩き潰したことも少なくない。
そんなことを繰り返していたら、いつしか目の上のたんこぶを叩いてくれるちょうどいい組織としてIAMOと密かな共生関係になるまで至ったが、それでも結局、今の『荘楽組』を作り上げた岩破という男の本質は悪だ。
そんな彼が正しく誰かを守り抜くのはほとんど不可能だったのだ。
でも、それにしては千影は良く出来た子に育ったとも思う。境遇故の過酷さを経験しても子供らしさを失うことはなく、それでいて人を想える優しい少女になった。終いには岩破たちを助けたいだなんて、身の丈に合わない妙に立派なことまで言い出したものだから、嬉しいやら驚き呆れるやら―――。
「初めはあんな小っこかったガキがなぁ。一体誰に似たんだかな」
なにが起きたのかも分からないまま、本能に従って襲いかかってきたのが出会いだった―――と語るのは紺だったか。岩破が初めて千影の顔を拝んだときは、彼女は気を失って眠るただの幼稚園くらいの年頃の女の子だった。
常識のjの字すら知らない野生児なのかと思えば、不意なところで妙にアカデミックな知識を披露し始めるわ、思いの外言葉が通じるわで、なかなかに驚かされた。
しばらくして千影が慣れてきた頃、町を歩かせると、たくさんの人が行き交う光景に目を丸くしていた。岩破たちにとってはなんでもないことが千影には新鮮だったらしい。
ほどなくして、千影は『荘楽組』がなにをして食いつないでいる組織かを理解した。仲間同士での、つまり人間同士での争いを好まない彼女は、それでも唯一の居場所だった『荘楽組』に居続けた。『荘楽組』もそんな彼女を受け入れた。
だが、普通の人間は千影のことを受け入れなかった。例えその正体を見せなくても、目に見えず、鼻にも臭わず、耳にも聞こえない、異質さが千影を包んでいたのだ。人間でないことを自覚しきれていないあの頃の千影は、人間のようななにかだった。
そんな千影でも千影らしくいられる場所もまた『荘楽組』だけだった。争いと共にあっても、そこには彼女が持っていないものがたくさんあったのだろう。若かりし日の岩破の目にもそう見えたように、きっと、そうだったのだ。―――いや、そうだったのなら嬉しい、が近いのだろうか。
その千影がIAMOとも深い関わりを持ったのは、それから数年後のことだった。神代疾風と出会い、千影なりに考え、そして千影は素性を伏せることでIAMOにも籍を得た。
岩破は初め、それに反対した。千影が自ら進んで不当な扱いを免れない場所へ行こうというのが心配だったからだ。でも結局押し負けて渋々認めさせられてしまった。疾風にちゃんと面倒を見ろよ、と釘を刺したときは、らしくもない、なんて言われたり。
広い世界で、千影はきっといろんなことを学んだのだろう。元々好奇心の強い子だ。千影が屋敷に帰ってくると決まって宴会でも開いて、彼女がみんなと一緒に土産話で大騒ぎするのを上座から酒を片手に眺めるのが岩破は好きだった。
辛いことだって数え切れないほどあっただろうに、千影は誰よりも素直に笑う子だった。言ってみれば『荘楽組』の希望の花みたいな存在だった。
でも、千影は今日、『荘楽組』から巣立っていった。
ちょうどあの金髪を思い出すような色の月を見上げて岩破は肩をすくめた。
「それで良いのさ。本当はずっとこんなところにいたって碌な終わり方しねぇって分かってただろぅが。・・・・・・ったく、ちくしょうめ。今度会ったらあのボウズ、覚えてやがれ」
でも本当に、岩破は千影が迅雷と出会えて良かったと思った。千影にとって迅雷以上のパートナーはいないだろう。だから岩破は迅雷を信じて千影を任せることが出来た。
「なんだか今日はとても小さく見えますね」
「俺だって嬉しかったり寂しかったりすりゃあ目頭が熱くなる日もあんのさ」
どこからともなくやって来た声の主の方を向いて岩破は軽く笑ってみせた。
どうせあの男には分からない感情だろう。だから岩破はそれ以上のことを言わなかった。
「酷い怪我ですね。ビルまでこんなことになって。戦争でもしてたんですか?」
「お前さんがそう言うと洒落に聞こえねぇからよしてくれ」
「はっは。ご冗談。岩破さんも大して変わらないでしょ、僕と。そう思わないですか?」
「む?ふ・・・がはは!それもそうだな!やると決めりゃぁ八方手を尽くすし汚ぇことも出来る」
岩破は思い出したようにひとしきり大笑いして、落ち着いてから、遅ればせながら非礼を詫びた。
「しかし本当にすまなかったな。こんな有様で。茶の一杯でも出してやりてぇとこだったんだが見ての通り座る椅子のひとつすら残っちゃいねぇ」
「全く構わないですとも、立ったままで。それに僕こそ直接伺わずにわざわざこんな場所に呼びつけてしまったんですからね。もてなされる方が奇妙というものですよ」
「そうかぃ、安心したぜ」
あの男はやはり丁寧な口調だが、岩破はそれが落ち着いているとは感じなかった。紳士なのは振る舞いだけで、実際は早く話を先に進めたくて仕方がない気持ちを窺える。彼が痺れを切らして話を変えるのは、岩破がそれをおちょくるよりも少し早かった。
「えぇと、それじゃあ岩破さん。長話もなんでしょうし、さっそく本題・・・というより、うーんと、まぁなんにせよ、取引の時間といきましょうか」
「そりゃ良いが、その前にひとつお前さんが本人か確かめねぇとな。一瞬で良いからその洒落た仮面の下を見せてくれよ」
「あぁ、これは失礼」
時間にして1秒きっかり。それで十分だった。
「よし。それじゃあ改めまして商売といこうじゃねぇか」
「なにも触れないんですね。その方が僕も気が楽ですので嬉しいですが。えぇ、まぁなんにせよですね。お金の方でしたらこちらに」
「あぁ、確かに」
アタッシュケースに詰められたの大金を見て岩破は頷いた。もちろん全て本物だろう。これだけの金額があれば屋敷をもうひとつ用意してもまだ遊べる気さえしてしまう。たったあれっぽっちの半導体にそれだけの価値があるのかと思うと、人間というのはなるほど確かに恐ろしい力を持っているのかもしれない。
でも、岩破は差し出された大金を受け取らなかった。いつもなら目が眩みそうな金額も愛する家族と比べれば鼻かみ紙みたいなものだ。
初めから受け取るつもりのなかった現金を突き返すと同時に、岩破は悪人らしくギラついた笑みを浮かべた。
「―――と、言いてぇところだがすまんな。不慮の事故でうっかり商品を壊されちまってなぁ・・・この通りだ」
四散したフラッシュメモリの破片を見せると、あの男は狼狽した。仮面で顔は見えないのに、不思議なほどに感情が見える。
「な・・・なっ!!なんで!!ふ、ふざけないでいただきたいッ!!」
「ふざけちゃいねぇさ。だから謝ってる」
「・・・!ま、さか・・・、そうか、そうか。やはり結局あなたは・・・!謀ったな、よくも―――!!」
「察しが良くて助かる。で、だ。悪いがついでにお前さんにもここらで退場してもらおうと思ってたんだ。俺の可愛い子供らのためにもな」
「ま、待ってくれ、僕は―――!!」
「恨んでくれて構わねぇ。それが俺の仕事だ」
●
広い夜空に、柔らかいなにかが弾けたような音が響いた。
●
「・・・紺なの?」
迅雷が運び込まれた治療室の手術中のランプが点灯するのと同時に、千影は今は遠いビルの方を見た。