episode5 sect89 ”納刀”
真っ黒な悪魔の力が、岩破もろともその矛先を向けた全てを呑み込んだ。
轟音が響き、凶悪な破壊力に耐えかね、うねる闇の奔流に沿ってビルが消滅していく。ありとあらゆる「有」なるものに虚無を押し付けていく。やがて爆風に巻き上げられるコンクリートの塵や鉄筋の切れ端の嵐で千影の姿さえも見えなくなった。
迅雷はその激烈な衝撃から腕で顔を守りながら、その一部始終を薄く開いた瞼の隙間から見ていた。
「やった・・・のか?」
驚くほどぴたりと黒い嵐は吹き止んだ。軽やかな足音が聞こえた。千影のものだ。千影はまだ無事に残っている足場に着地し、底から砂煙が沸き立つ大穴を覗き込んでいる。
あまりにも唐突かつ暴虐的な戦いの終焉に、迅雷は口開けて呆然とした。煙が晴れた先にはなにもない。床すらない。不自然なまでに綺麗になにもない。あの絶対的な破壊力を至近距離で受けた岩破がどうなったかなんて―――。
「・・・って、いやいや、やりすぎだろ!?なにやっちゃってんの千影さん!?いくらなんでも無慈悲すぎるよ!?」
「ううん、まだだよ、とっしー!親父がこんな程度で死んだりするわけないもん」
「は・・・!?」
迅雷は千影の言葉に耳を疑った。
しかし次の瞬間、下の階から爆音と共になにかが飛び上がってきて迅雷の目の前に着地した。ズン、と床が軋む。その熊のように大きな影は、まさしく、岩破のものだった。
「分かってんじゃねぇか。まぁさすがにあの至近からぶっ放されたときゃあ焦ったが・・・なんとかなるもんだなぁ」
「ウソ・・・だろ・・・?」
岩破は血まみれになっているが、そもそも、そんな程度の傷で済むものではなかったはずだ。『ゲゲイ・ゼラ』ほどではなかったにしろ、あれは生身の生物が耐えて良い代物ではない。
だが、現に『黒閃』を生身で受け、五体満足で戻ってきた男が迅雷の目の前にいる。迅雷はここでようやく自分が刃向かっていた相手がどれほど怪物的な存在だったのかを思い知った。
なにもかも次元が違っている。千影と岩破の戦いは、そういうものだった。力においても速さにおいてもスキルにおいても、両手に握った剣を振り回すだけの迅雷のレベルを凌駕していた。
「結局あれでも加減されてたんじゃねぇかよ―――」
追いつこうとしても縮まらない悔しさを迅雷が吐き捨てたときだった。
岩破がいきなり迅雷の胸ぐら掴み上げた。驚愕と突飛さのせいで迅雷はそれに反応出来ず、為す術もなく締め上げられてしまった。油断していたというよりも、無粋な真似を好まないという岩破という男への一種の信用だったのかもしれない。だがそれを裏切られた。所詮は他人の描いた人物像でしかなかったということか。
岩破は迅雷を少し放り投げてすぐに首を直接掴み直した。急に呼吸が詰まって迅雷はもがく。
「ぁが、ぐ・・・!!」
「と、とっしー!やめてよ親父、もうとっしーは・・・!放してよ、汚いよ!」
「汚ぇ?褒めてんのか?」
「なんのつもりなの?らしくないよ!」
千影も、岩破がこのタイミングでこのような真似をするなどとは思わなかった。故に、彼女の速さを持ってしても間に合わなかった。
一体なにが岩破を卑怯にまでさせたのか。千影は迅雷の命を片手に弄ぶ岩破を前に唇を噛んだ。
「そこまでするの?こんな誰のためにもならない取引のために・・・」
「気が変わったんでぇ」
岩破の返答はそれだけだった。
だが、右手で迅雷を掴んでいる以上、左肩の腱を切られた岩破は実質両手が使えない状態だ。
迅雷だってやっと千影とわかり合えたのに死にたくはないけれど、今が最高のチャンスなのだ。千影のあのスピードであればガラ空きの岩破の胸に一撃見舞えるはずだ。危険を冒す価値は十分ある。
だから、迅雷は叫んだ。
「千影・・・今なら・・・いける!や、れ・・・!!」
「・・・・・・」
でも、千影は動かない。
「どうしたんだよ、千影!」
「人質は黙って大人しくしてろぃ。で、千影よぉ。どうすんだ?これ以上邪魔するってんならこのボウズはこのままドカンだ。だがもし大人しく言うこと聞くってんなら2人とも命だけは助けてやる」
「もういいよ、親父。そっちがその気ならボクも手段を選ぶのはやめにする」
「そぅか。残念だ」
岩破が迅雷の首を掴む力が増して―――。
「『トラスト』」
―――千影の『鉤爪』が岩破を穿った。
●
迅雷がストンと尻餅をついたときには、全てが決していた。
照り返す赤い光が三筋宙にうねりを描き、砕けたなにかの破片が飛び散る。
迅雷は、脈絡なく訪れたその瞬間を、千影がいたはずの場所から眺めていた。
止まった時の中。現実に理解が追いついていなかったのは、迅雷だけではなかった。
「どう・・・して・・・?」
「だから、気が変わった、と言っただろぅが」
あんなに必死に戦っても傷ひとつつけられずにいた岩破の胸ポケットにしまわれたメモリは粉々になって床に散らばっていた。
『鉤爪』を伝って腕に流れてくる血が生温かい。怖くなって、千影は『鉤爪』を消した。楔が黒く霧散して、せき止められていた血液が一度に流れ出る。『翼』も『尾』も全て解いて人の姿に戻った千影は、一歩後ずさった。
岩破なら今のでも分かっていたはずだ。躱せたはずだ。殴り返すことだって出来たはずだ。自分でそう言っていたはずだ。
「分かんない、それだけじゃ分かんないよ、親父!」
「俺ぁよぉ、確かめたかったのさ」
岩破の手が無防備になった千影の頭に伸ばされ、その危機に我に返った迅雷は跳ね起きた―――が、岩破が千影を殴るようなことはなかった。むしろ、その真逆だったから。
まるで親が我が子を宥めるかのように普通で当たり前の光景だった。かぶり物みたい見えるほど大きな右手を千影の頭にすっぽりと乗せて、無造作に掻き撫でる。その大男は、数秒前の敵の、現在の姿だった。
「本当はな、お前ぇがこうして俺の邪魔をしに来んのも分かってたさ。ここでなにしようとしてたのかも調べはついてた」
「なんでそれで、なにもしないの・・・」
「でもよぉ、娘の反抗期なんだ。精一杯付き合ってやるのだって俺の―――俺たちの務めじゃねぇか」
「そ、そんなの!!・・・いまさら、なんでそんなこと言うの!?突き放すようなこと言っといて、なんで!ねぇ!!分かってたらボクだって!!」
「さぁなぁ。腐っても俺は殺しも平気でやる犯罪者だぜぇ?真っ当な保護者みてぇにはやってやれねぇ。ひねくれちまった性根はもうこの歳だ。直そうとして直るもんでもねぇのよ」
そして、岩破は黙って突っ立って呆けた顔をしている迅雷の方を見た。今の岩破の目は、迫り来るような鬼気が失せて、ただのしがない初老の男のそれだった。
果たして迅雷が敵と定め、無理解と罵り、本気で倒そうとした相手は、本当にそれに適うだけの悪人だったのだろうか。迅雷にはどうしても、千影を壊れ物でも扱うようにそっと宥めたあの岩破こそが本当の彼に見える。
俺は正しかったのだろうか。そんな問いを自己に投じて、そして流す汗をもって迅雷は疑問を語った。けれど、彼の悩みはものの数秒で、他ならぬ「強大だった敵」によって道を与えられることになる。
「そう困った顔すんな、ボウズ。くだらねぇことで悩むんじゃねぇぞ」
「くだらない?そんなわけないじゃんか・・・ズルい答えだ!俺に・・・!俺に、アンタらのやってきたことをそれっぽく言わないでくれよ!理解させられたら・・・分かんなくなるだろ・・・正しかったのか、間違ったのか・・・」
「だから、つまんねぇって言うんだよ」
よってたかって子供たちを苛めた大人たちのボスは、それしか言わなかった。でも、迅雷にはそのぶっきらぼうなあしらい程度でちょうど良かったに違いない。
でもそうだとして、岩破はこの戦いになにを見たのだろう。彼にとってどんな意味があったのか、迅雷には知る権利があるはずだ。
「確かめたかったって言っていたけど、なにを確かめたかったんだ?」
「訳ねぇことよ。お前ぇと千影の絆が見たかっただけさ」
「他にやり方はなかったのかな・・・。こんなんじゃ互いに傷付くだけじゃんか」
「あっただろぅな。いくらでも。だがまぁ、俺が思いつけるのなんざぁ、精々一番手っ取り早ぇやり方だけさ。まどろっこしいのは苦手だぜ」
岩破は一息ついてから「だけどよぉ」と続けた。迅雷は顔を上げる。
「本当はな、ボウズはここまで来るはずじゃなかったんだぜぇ?追ってきても紺に適当に追っ払わせる予定だったからな。だから、お前ぇがここに来たときゃあおったまげたぜ。多分、お前ぇが想像してる以上にな。ただ、だからこそ余計に気になっちまったのさ」
「と言うと?」
「あの紺が俺のところに寄越したほどだからよぉ、一体どんなヤツだろぅ―――ってな」
岩破が考える限りでは、本来迅雷はどう足掻いても紺を突破するはずがなかった。例え何十何百の味方を引き連れて6階に辿り着いたとしてもだ。そしてそのまま、岩破に敗北して目的を達せなかった千影は今まで通りの生活へ、紺たちに止められて千影に追いつくことが出来なかった迅雷はそのまま千影がいない、当たり前の平和な日常へと戻すはずだった。いろいろ試した後の、結局一番彼らに残る傷が一番浅くて済むための結論として。
でも、中でも一番迅雷を通さないだろうと思っていた紺が、事前の打ち合わせを打ち捨ててそれを許した。そのことが岩破に迅雷への興味を強めるきっかけを作ったのだった。
そして、迅雷は岩破にその在り方を見せてくれた。千影があのヒトではない姿を見せたときも、迅雷はすぐに彼女を受け入れた。それを見たとき、岩破は新しい道を見つけた。
岩破がその内心を語ることはない。迅雷はひとつだけ彼に問うことにした。
「それで、結局どんなヤツだったのさ?」
「あぁ、馬鹿だな」
「そっかバ―――えっ」
思わぬところで吐き出された暴言で迅雷は顔色を悪くした。なんでこの場面で罵られないといけないのだ?
「な、なんで今俺バカって言われたんすかね・・・?」
「馬鹿野郎だから馬鹿っつったまでだぜ?これはお前も分かんだろ、なぁ、千影?」
「え?うん」
さっきまで殺陣を演じていたはずの2人に仲良く同意を得てめでたく馬鹿野郎認定を受けた迅雷は腑に落ちないという顔だ。血まみれになって頑張ったのにこの扱いなんていう奇妙なことがあっては堪ったものではない。
ムスッとした迅雷を見て、千影はクスクスと小さく笑った。
「な、なんだよ・・・」
「今のバカは、バカ正直のバカってことだよ。とっしーが、バカみたいに真っ直ぐだから」
「バっ、バカバカうっせぇよ!それ褒めてんのかけなしてんのか本人に伝わってないからな!」
「またまた、分かってるくせに照れちゃって」
千影はいつもみたいにニヤニヤしている。
今のやり取りでかえって疲れた気さえした。今日もまた、迅雷の完敗だった。思わず、笑ってしまう。
「はぁ・・・。なんだったんだよ。こんな死に物狂いでやってきたのにさ。これじゃ本当にバカだったみたいに思えてきたんだけど」
迅雷は大きく息を吐いて、背負った2本の鞘にそれぞれ、『雷神』と『風神』を納めた。