episode5 sect88 ”異形の少女”
ボクは、ヒトじゃないなにか。ヒトになりそこねたバケモノ。ヒトになりたくて、叶わなかった異端者。でも君を守るためならそれでも良い。君なら、受け入れてくれるだろうか、こんなボクでも。
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離れた場所に、火柱が立っている。
黒くて黒い火影が映る。
影は、小さな少女の姿をしていた―――けれど、どこか歪で、人ならざるなにかにも見えた。
「千影・・・?」
本当に、そうだろうか。
弓の弦を無理に引き絞ったような甲高い音を立て、少女の身の丈ほどはある蝙蝠の『翼』が広がる。
ゆったり揺れるのは、なにとも形容しがたい不自然な形をした、細長い『尾』だった。
手の指とは別に蠢く三本の黒い『鉤爪』は、その腕の半ばから、突き出た骨のように生えていた。
一言で言って異形。人間の定義から逸脱する「余計なもの」が体中のいろいろなところから突き生えたその少女は、迅雷の目に映った通りに千影なのだろうか。
「なぁ・・・お前、千影・・・なのか・・・?」
「うん」
大きく見える影は、彼の問いにただそう答えた。
「千影、お前その姿って・・・」
黒くて歪な異形。迅雷には見覚えがあった。少なくとも、とても最近。嘘で塗り固めた世界から抜け出せなくなった、彼女。
不思議と、迅雷は恐怖を感じなかった。今も、あのときも。
千影はゆっくりと迅雷に振り返った。迅雷は息を呑んだ。
黒い眼球と、その中央に浮かぶ黄色の瞳。
小さく光を揺らし、彼女は笑っていた。その笑顔の奥に隠された苦悩と恐怖も、迅雷には見えた。
「ごめんね。ずっと・・・ずっと言えなかったんだ。ずっと隠してた。・・・恐くて、言えなかったんだ。ボクの正体を知ったとき、君もボクの前からいなくなっちゃうんじゃないかって思うと」
「・・・・・・」
「親父の言ってた通りさ。ボクは、《鬼子》。決して人間にはなれない。人間のなりそこないで、薄汚いバケモノに過ぎないの」
炎が止んで、静かに夜が舞い降りた。
千影の瞳に映る光の揺れが収まった。なにかが千影の中で固まった瞬間だった。
「でも、覚悟を決められた。とっしー、君のおかげだよ。君の姿を見て、君の叫びを聞いて、ボクも一歩踏み出してみようと思えた。踏み出してみる勇気をもらえた。いつまでもこんなつまらないことを恐がってたらダメなんだって気付いた。とっしーに怯えられることよりずっと、とっしーを失うことの方がずっとずっと恐かったんだね・・・。なんでこんな簡単なこと、今まで分かんなかったんだろう、ボクは」
「・・・千影」
「ねぇ、とっしー。ボクが、怖い?」
「ううん―――怖くなんて、あるもんか」
迅雷の目には、その歪であって然るべき千影の姿が、とても綺麗に見えた。迅雷にも分からない。でも、そう映ったのだ。闇より黒く悠然と月光を浴びて白む大翼も、その月光すらも霞むほど澄んだ黄色く丸い瞳も。
「怖くないの?」
「だって、千影だから」
―――もしかしたら、迅雷は心のどこかでは知っていたのかもしれない。懐かしいあの感じを、迅雷はずっと2人の少女に抱いていた。
痛みすら忘れて、迅雷は千影を見つめていた。
千影はどんな姿になろうと千影だった。
「動いても、大丈夫なのか?」
「・・・うん」
「痛いところはないのか?」
「心が、少しだけ。・・・でも、なんでだろうね、今はもう、大したことない」
胸に手を当てる千影の姿は儚げで、でも今は確かにそこにいると実感した。
「そっか。そうだったんだな。千影は、そういうことだったんだな。・・・もっと早く教えてくれても良かったのに、今更だなぁ」
「お互い、不器用だったのかな。ボクたち」
そうに違いない。結局、2人とも恐かったからその心に1つだけ鍵をかけ残していた。自らの醜悪な正体が、それさえ曝さなければ失くさずに済む安全な幸せを奪い去ってしまうんじゃないかと、ずっと怯えていた。
でも鍵を外してみれば、なんということはない。なにも変わらない。また笑い合える。
「なんでぇ、今更なんのつもりだ?」
岩破の声が割って入った。否、声よりも先に爆発が2人の影を呑み込み、消し飛ばした。
真っ黒な燃えかすがカラカラと淋しい音を立てて転がった。
でも、それは迅雷でも千影でもない。
「とっしーは殺させないよ。そう仕向けたのがボクなら、それを止めるのもボクじゃないと。もう散々頑張らせちゃったからね。あとはボクがやるさ」
その刹那、迅雷の頭には瞬間移動という言葉が浮かんでいた。爆炎は奥、眼前にあるのは岩破の大きな後ろ姿。瞬きをせぬ間に迅雷と千影は直前と正反対の場所にいた。
けれど、遅れて沸き立つ砂埃が、今の一瞬の時間を埋めたものが決してテレポートの類いでないことを物語っていた。
千影はあの砂埃が立つ半円を迅雷を抱えたまま普通に物理的な手段で移動してきたのだ。
「とっしー、お疲れ様。あとはボクに任せて、ここで休んでてね」
「お、おい待てって!俺もまだやれるって!第一、一緒にって―――」
「へへへ、もう無茶だよ。これ以上暴れたら今度こそホントに死んじゃうよ?」
「でも!」
「じゃあとっしー、ちょっと言い方変えよっか。とっしー、ここらで選手交代だよ。大丈夫、親父、ああ見えて結構強がってるから」
千影は無邪気に笑っていた。
素直な表情だった。もう、迅雷を突き放すような冷たさも、自己犠牲の脆さもない。
「そうなのか?」
「そうだとも。だから、いいところはボクが全部もらっていくって寸法ね」
「・・・はは、らしくなってきたな、こいつは」
「でしょ?」
「―――いけるんだよな?」
「うん。でも、ボク1人じゃムリだった。だからとっしーのおかげだよ。とっしーがここまで親父を追い詰めたのは変わらない」
千影は両腕の前腕部から生えた物々しい『鉤爪』で床を掴み、這うのかと思うほど姿勢を下げ、『翼』を夜空の下に堂々と広げた。
岩破に無数の傷を負わせたのも迅雷だ。千影が傷を癒やすだけの時間を稼いでくれたのも迅雷だ。千影の心に踏み込み、受け入れてくれた迅雷の真っ直ぐな想いに応えるために、千影はかつての仲間であり家族でもあった岩破に立ち向かう。
「だから、とっしー。あとは安心して、ボクに任せちゃいなよ」
「―――じゃあ、任せた」
「うん!」
返事と同時に千影が消えた。
―――いや、違う。岩破の体が爆炎に消える。あれは例のカウンターマジックだ。その爆発が驚異的な速さで連続した。
「こ、これが千影の全速力ってことか・・・」
とてもではないが、今の迅雷の目では捉えきれない。千影の存在を認識していない者がここにいたなら、その全てが岩破がひとりでに爆発しているように見えるはずだ。それほどまでに桁違いの速さである。
やはり千影には《鬼子》なんかより、《神速》の方が良く似合う。
軽やかな音と共に千影が迅雷の目の前で足を止めた。気のせいかもしれないほど僅かな間の出来事だったが、千影が自慢げな顔をして迅雷を見ていた。そしてすぐ、爆炎の中へ飛び込んでいった。
迅雷はその姿をじっと見つめているのだった。
●
秒間30発、計数百に上る爆発を誘発させた。その爆炎が消えるまでの時間は4秒から7秒程度。その間は千影も岩破も十全な視界を確保出来ない。しかし既に千影は岩破の位置を把握している。多少の移動があっても千影の前では誤差に等しい。ただし、最も狙われる場所が胸のポケットであると分かっている岩破がそこのガードを緩めるはずがない。したがってまずはガードするだけの力を削がなくてはならない。
やれるか、じゃない。やるのだ。
まずは手足の腱を狙うのが定石だろう。『鉤爪』に力を込め大きく開き、千影は炎の中へと飛び込む。肌の表面が火に炙られるが、気にはしない。元より千影も赤魔力持ちで熱には強い。
『鉤爪』の先端がカウンター魔法に触れるが、千影は速力だけでその爆発力に逆らった。凄絶な火力で皮膚が剥がれる中、千影の『鉤爪』は確実に岩破の肩を貫いた。
「まずは左手!」
頑強な肉体から抜けなくなった『鉤爪』は根元から蹴り折って、千影は炎の外へと飛び出す。そしてすぐ、次の標的へ。
左肩を狙ったときと同じ要領で右肩を狙い、千影はもう一度腕を突き出す。だが、二撃目が岩破の右腕を殺す直前でカウンター以上の爆発が千影を捉えた。
さすがにそううまくはいかないか、と千影は心の中で呟いた。相手はあの岩破だ。速さだけで翻弄出来るほど甘くないのは当然として、いったい今までどれほどの間千影の戦いを見てきたと思っている。
「くぁっ!!」
「千影っ!?」
吹き飛ばされ、壁のないビルから千影は弾き出された。迅雷は顔を青くして叫ぶ。でも、まだ心配には及ばない。千影はすぐに『翼』をはためかせ、揚力を生み出した。『サイクロン』と唱えて破壊的な風速の追い風を発し、強引な加速を付加して岩破の前に舞い戻った。
「やっぱり一筋縄ではいかないね」
「考えの狭ぇガキに後れを取るほど俺も老いぼれちゃいねぇのさ。だいたい、お前ぇの動きなんざ今となりゃあ予測も出来らぁ。いちいち目で追う必要もねぇのよ」
左腕を封じられてなお岩破は不敵な様子だ。
千影は折った『鉤爪』を修復し、今度はふわりと宙に浮いた。そのまま加速をつけ、再び目にも止まらぬ速度域へと飛ぶ。
「だから」
千影は裏の裏のつもりで背後から回り込む軌道から正面に飛び込む動きへと変更しながら突進したが、千影の柔らかい腹には岩のような拳がめり込んでいた。相対速度的に、その重さは迅雷が受けたものとは比較にならない。
「俺にゃあお前ぇの次の動きが手に取るように分かるっつってるんだ」
「・・・うぷ」
胃が破裂したのが分かった。肋骨が折れて肺に掠っている他、腸にも少し損傷がある。腹の奥底から大量の血が口まで逆流してくる。だが、千影は少しも苦痛に表情を歪めることをせず、それどころかニンマリと笑った。
「知ってるよ」
千影と岩破の顔の距離は30センチを切っている。
千影は知っている。岩破のカウンター魔法が反応するのはあくまで攻撃らしい攻撃を受けたときだけであることを。そうでなければ風が吹くだけで全方位が爆発してしまい、魔力の消費が意味もなく激増するからだ。
つまり、威力を持たぬ「干渉」程度の攻撃であれば、岩破のカウンターは気付かない。
そしてここまで接近してみせた。ここは千影の距離だ。千影は口に溜まった血を一気に岩破の顔に噴きつけた。内臓を損傷したほどの血液量をスプレーしたため、岩破は目つぶしを避けるためには目を瞑り、千影を殴った右手を引き戻して顔を守るしかない。
「チッ!」
その隙に、千影は再び舞い上がり、天地を返した姿勢になりながらも異形の『尾』の先端を岩破に向けた。
月を背に影を湛え、《鬼子》と呼ばれた少女は、その異名に相応しい技を繰り出した。
「でも、これならどうかな!!」
千影の『尾』の先端に闇が凝集されていく。
夜より暗いその魔力の塊を見て、迅雷は目を剥いた。
「あれは・・・まさか?」
あれを、千影が使うというのか。わずかな時間に収束された莫大な『黒』。それを、千影は至近距離から岩破に撃ち込んだ。
「『黒閃』!!」




