episode5 sect83 ”本当の我儘”
爆音はなかった。その圧倒的な破壊に気付く者はいなかった。あるのは―――そう、夜空に引かれた一筋のあまりにも眩い光芒、ただそれだけ。
雪姫が次に目を開いたとき、彼女と、彼女を抱える李は、既にビルの6階から大きく飛び出して命綱のない自由落下のただ中にあった。
雪姫は、星の力の加速でどんどん遠ざかっていく怨敵の居場所に手を伸ばす。
「・・・そんな・・・あたしは、こんなの・・・ッ!!」
垂直に引きずり下ろされる不快な浮遊感。まだあの大穴に届く。手を伸ばせば、届く。這い上がれる。舞い散る粉雪が意志を取り戻して雪姫の手となり、空を駆け昇る。
あの殺人鬼を許して自分が生き延びるだけなんて耐えられなかった。だから、雪姫はあの場所に戻らなければならなかった。
それなのに、李はまたしても雪姫の邪魔をした。
「『アブソープション』」
「・・・」
「ダメだってば」
あれだけの量の粉雪が全て魔力となって李の左手に吸収された。雪姫の手は虚しく宙を切り、力なく垂れた。
ひとつ、天に舞い昇る雫が煌めいて、溶けるように消えた。
地上に激突する寸前で李は身を翻し、雪姫を抱えたまま複数回に及ぶ風魔法の反動を利用してふわりと柔らかく着地した。
額の汗を拭い、目を点にして空からの帰還者たちを眺めていた一般魔法士たちの無事を確認する。彼女の方も拘束は解いたから、直に戻ってくるだろう。なにはともあれ。
「お仕事、完了・・・かねー」
●
「ああああああああああああッ!?」
背中が触れる度、その瞬間で薄氷を割るかの如くコンクリートの天井を砕くような常軌を逸した勢いだった。
紺に真上へと蹴り上げられた迅雷は、腹と背中の激痛に絶叫した。胃や腸が破裂したのではないかと思うほどの苦痛だ。背骨の数が倍になるほど砕けたのではないかと錯覚するような鈍痛でもある。
しかし、そうして何枚もの天井を突き破り鉄筋をへし折っていくうちに迅雷の体は徐々に速度を落としていった。
5度目の衝撃は、全て迅雷の肉体に跳ね返った。最期にして最大の痛みに迅雷は目がぐるんと上をむきかける気持ち悪さをわずかに感じた。
ほんの少し直角からズレていたのだろう。力の抜けたまま自由落下を開始した迅雷が再び突き抜けてきた穴を通って下まで落ちることはなかった。
天か地かも分からない床に倒れ込み、迅雷は吐けずに喉につかえていた血をようやく噴き出した。
「げっほ、ぉ、ぇぇ・・・ぇッ・・・」
吐瀉物に血が混じって口や鼻から溢れ出た。生理的嫌悪感を感じる臭いと味で頭の内側が満たされた気がして、迅雷はさらに咳き込む。
受けたダメージが大きすぎて体が痙攣している。視界も朧気だ。けれども、迅雷はしぶとくもまたしっかりと呼吸を取り戻した。
必死に深呼吸を繰り返していると、だんだん痙攣や痺れが収まってきた。頭の方も働き始めて、やっと自分が重力通りの地面で寝ている実感を取り戻す。蹴り上げられるときに紺が一緒にぶつけてきた魔力の塊に包み込まれていたので全身が軽く感電しているが、それも少しずつ和らいでいる。むしろあの魔力に包まれていなければ一度目の激突で木っ端微塵だったのかもしれない。紺は最後の一手で判断を誤ったのだろうか。
血液と胃液に汚れた床には寝ていたくないので、迅雷はなんとか起き上がろうと地面に手をつこうとした。
だが、そのとき迅雷はなにか、音に気が付いた。
意識の復活に伴って聞こえ始めたのは、立て続けに轟く爆音だった。そして、その腹の底から振るわす荒々しさに、迅雷は覚えがあった。
「この爆音は―――じゃあ、つまり・・・!?」
その事実だけで体に力を取り戻した気がした。
何度殺されかけても手放さなかった『雷神』を強く握り締め、迅雷は力任せに両手で床を突いた。滲む脂汗さえも振り撒く勢いで勇み立ち上がる。
暗いフロアの先を見据えた直後、迅雷の眼前に続いていた通路の壁が赤熱し、大きく膨張した。
「なんだ!?」
言い知れぬ危機感だけを感じ、直感に従って腕で頭を守る構えを取るのと同時、膨らみきった壁が耐えきれずに爆散した。無造作に粉砕された建材の破片に全身の傷を抉られる。だが、迅雷は固く歯を食い縛ってその痛みに耐えた。
ようやく・・・ようやく迅雷は辿り着いたのだ。下層にも生々しく轟く爆音の、その音源たるこの最上階に。千影がいるはずの、その場所に。
だから、死んでも倒れられない。ようやくここまで来られた。長く切望し、熱望したその瞬間を叶える場所に這い上がってきた。
もはや紺との死合の行方などどうでも良い。生きてここに辿り着けた。それが迅雷にとっての全てだ。そしてまた、ここから始まる。
「やっとだ。やっと・・・やっと追いついたぞ!!」
ただ叫んだ。干上がった喉が擦れるのも厭わずに。
濛々と立ち込める煙と砂埃の中に向け、きっとそこにいる大切で仕方のないただ一人の少女に自分の存在を伝えるために。声は吹き荒ぶ爆発の余波にも決して呑まれぬ確かな昂ぶりとなって駆け抜けた。
瞬く間に煙は吹き散らされ、天井が崩れ落ちて廃墟然とした元豪華な高層ビルの姿が戻ってきた。瓦礫が崩れる音が微かに鳴り、迅雷は残火が燻る床を慎重に歩き出した。
そして、すぐに迅雷は千影を見つけた。
―――けれど、またその顔を見られる少女は、変わり果てた姿で待っていた。
「・・・千影・・・?」
全身に火傷を負い、血にまみれ、呼吸をしているのかも分からない。崩落した無機物の山に溶け込んでしまいそうなほど危うくて、恐かった。失うときの感覚だ。
なんで、こうなんだ―――。喉の奥から迫り上がり重力を倍に感じるような苦悶が迅雷を苛んだ。悲しくて、悔しくて。
「ケホッ」
「――――――」
微かに、千影が咳き込んだ。だったらまだ、間に合う。いくらでもやり直せる。咳の後、それ以上のなにかはない。それでも良い。十分だ。だから。
千影の正面に、大男が立つ。動かぬ少女を見下ろして、静かに岩のような拳を振り上げた。
その男になにかを思うよりも速く、迅雷は剣を振り下ろしていた。
「――――――ッ」
「!?」
迅雷の剣は、千影と大男を隔てるように空を斬った。床を裂く斬撃に込められた魔力が放散され、稲光の壁を作り出していた。
反射的に飛び退いた大男は乱入してきた少年を見て驚いた表情だった。
「気迫に思わず避けちまったぜぃ・・・」
本当は躱すまでもないと言いたいのだろう。―――知ったことではない。迅雷は、男に代わって千影の前に立った。ただし、その背を見せるように。
いつ以来だろう。4日目のあの日だったか。千影を背に庇うのは。
迅雷は無言で大男を睨み付けた。当然の如く醸される別格存在のプレッシャーで膝は震えている。恐らく、この男こそが千影や紺の言っていた『親父』なる存在だ。皮の椅子で威張るのではなく、彼は厳然たる貫禄で戦火の中心に立っていた。
けれども、それがなんだと言うのか。『親父』と呼ばれ、組織の頂点に立つこの男は、千影を傷つけた。彼もまた、千影のことなんて見ていなかったのだ。
「なんでぇ、お前ぇは。なにしに来たんだ?」
「千影を連れ戻しに来ただけだ」
「それをか?へぇ!とんだ物好きもいたもんだ!」
「物好きで結構だよ。なんとでも言えよ」
「じゃあ言うけどよぉ?お前ぇ、それに裏切られたんじゃぁねぇのかよ?ちょうど俺も裏切られたから躾け直してっとこだったのよ。なんなら俺に力ぁ貸してくれよ。すばしっけぇもんで手を焼いてたとこだったんだ」
「・・・・・・」
「おっと名乗りもなしで手伝えってのも失礼だったか?悪ぃ悪ぃ。俺は岩破、岩を破ると書いて岩破でぇ。さぁ、こっち来い、ボウズ」
意地の悪い笑みを浮かべ、岩破は迅雷に手を差し伸べた。だが、迅雷は岩破の言葉や勧誘に一歩たりとも動じることはない。どれもこれも今更意味を成さない無駄なおしゃべりだ。
「ふざけんじゃねぇよ、被害者面しやがって。本当に千影を裏切ってたのは俺であり、そしてアンタらだろ。ずっと千影を裏切り続けてここまで来てんだろうが」
「面白ぇ言い回しするなぁ?」
感銘でも受けたように目を開いてから、岩破は興味深そうに迅雷を眺めた。
生に疎く死に寛容だった空虚な少年は千影との繋がりを拒絶した。同じ組織の人間でありながら誰一人として千影の望みに手を貸してやる者はいなかった。街中の人間が千影を人に害を為す魔物と謗り壁を作った。
いつも少女は孤独だった。周りに誰かがいても、その誰かは少女の隣にはいない。だから、少女は人との距離感が分からなかった。初対面の人間を図々しくあだ名で呼び、その隣に誰かを求めた。
とても不器用な普通の人恋しい子供を、迅雷たちは裏切り続けてきたのだ。
これが、その結果であり結論だ。
「・・・とっしー・・・?なんで、来たの・・・?」
迅雷の耳に、掠れた千影の声が届いた。またそのあだ名で呼ばれることの喜びは、千影に伝わるだろうか。
刺し貫かれた胸にそっと左手を当てて迅雷はその鼓動を感じた。
「さっきから言ってるじゃないか。千影と一緒に家帰って飯食って風呂入って寝るためだよ」
「バ・・・バカじゃないの?君、ボクに殺されかけたのに・・・!とっしーがどう解釈してようとボクがとっしーを裏切ったのも親父たちを裏切ったのも本当なのに!ボクの我儘を通すために利用したのに―――!!」
「バカは千影だろ!」
「っ!?」
千影がここまで大それた事件を起こした意図はまだ分からない。でも済んだ後で千影はその結末さえ望んだものだったと言うのだろう。
でも、本当にそうか?御託ばかり並べて、それで本当に満足か?迅雷は振り返り、真っ直ぐに千影の目を見据えた。揺れる紅の瞳を迅雷は捕えて逃さない。その奥を覗き込む。
「これが・・・こんなのが千影の望んだものだって言うんなら、そんなのは間違ってる。ワガママってのはさ、自分が幸せになるために言わなくちゃいけないんだ」
それが迅雷の、迅雷なりに見つけた、押しつけがましい答えだった。