episode5 sect70 ”月下の擦過”
今日は一段と月が妖しい。壁一面の窓から見上げた夜空の下では一言では表せない悲喜交々が絶え間なく起きているのだろう。
その証拠に、下の方はいよいよ騒がしくなってきた。恐らく、1階を塞ぐ研だけではない。その背後を素通りして2階へ上がった者たちがいる。
岩破は煙草をふかしながら、広い会議室の扉の外に立っている少女に声をかけた。
「よぅ、なに突っ立ってんだ、千影」
静かに扉が開けられ、その名を呼ばれた少女が部屋に入ってきた。
少女は岩破の背中を見つめていた。冷房が効いているわけではないから蒸し暑さが籠もっていて、寂しく置いていかれた長机と椅子だけがある薄汚れた部屋だ。だだっ広い部屋の中には月明かりしかなく、無表情の廃墟を、なにかの意味でもあるかのように青白く照らしている。
わずかな空隙を経て、少女は口を開く。
「ただいま、親父」
「あぁ」
「ひさしぶりだよね、会うのは」
「あぁ、そうだな」
白い煙を吐き、岩破は素っ気ない返事をした。大柄な体躯をゆったり動かし、千影と向かい合う。
千影の、浴びた返り血を拭った頬は赤黒く掠れていて、服も元の色と別の赤が混じっている。そしていつも通り、いや、それ以上に美しく輝く金の髪と紅の瞳も共に闇の中にその存在を誇張している。どんなに血と泥で汚れても霞むことを知らない心の表れといったところだろうか。
「ちょっと見ねぇうちにお前ぇ、少し雰囲気が変わったんじゃぁねぇか?」
「変わんないよ。親父、しばらくボクの顔見れなかったから親馬鹿にでもなってたんじゃないの?」
「んなわきゃあるかよ」
千影の冷やかし気味の軽口に岩破は肩をすくめた。それから、岩破は靴の裏で床を叩いて軽く鳴らした。
「下が騒がしいみてぇだな、どうも」
「そうだね。でも、ここまで上がってこない」
「へぇ・・・そうかぃ」
「疑ってる?」
困ったように明後日の方向を見て、千影は「あーあ」と呟いた。こんなに血まみれになってここまでやって来たというのに、悲しい話だ。まぁ、苦労云々はともかくこれは全て他人の血なのだが。
そして、岩破もまた千影に呆れていた。
「それにしてもよぉ?また、大胆なことしやがるじゃぁねぇか、千影は。なんだってあんな連中をゾロゾロ連れて来やがったんだぁ、オイ?馬鹿じゃぁねぇだろぅが」
「簡単だよ。いつもと一緒。ただのワガママだよ」
「そりゃそうだろぅな。面倒なガキだよ、お前ぇは」
千影が駄々をこねなければもっとコッソリヒッソリ、日陰者たちの裏取引らしく用事を済ませられたはずなのに、困った娘であった。
研も奮闘している今、ビルの最上階にあるこの会議室にまで連中が辿り着ける可能性は皆無ではある。しかし、それとこれとは別問題だ。だから岩破は子供のワガママで話を終わらせることはせず、千影を追及した。
「大体なんでぇ、ギルドだけでなくあんな連中まで呼びやがって。お前ぇ、戦争でも始める気なのか?」
「分かってるくせにからかわないでよ。ボクはそんなことはどうだっていいんだってば。とりあえず目の前のことに集中するの」
「っかぁー・・・こいつはホントに・・・。知らねぇぞ」
「ボクも知らないもんね。こういうのはIAMOがなんとか後始末してくれるよ」
「お前ぇも一応はその一員だろぅが」
「あ、そっか」
間抜け顔をする千影に岩破は体が一回り小さく見えるほど大きな溜息を吐いた。やっぱりこいつはアホの子だ。
「まぁまぁ、なんとかなるって」
「なんとかねぇ。・・・まぁ良い。確かに俺がそこまで気にするこたぁねぇわな」
「うん。それで、親父」
「あぁ?」
「例のものは?」
千影に「例のもの」と言われ、岩破は年甲斐のないアロハシャツに後から縫い付けた内ポケットからフラッシュメモリを取り出して見せた。岩破の大きな掌に乗せられたそれはなおのこと小さく見える。
「あるぞ、ちゃんとな。小っせぇんでなくすとあれだかんな、ここに入れてんのさぁ」
それは、『高総戦』の全国大会が行われている裏でネビア・アネガメントが奪取した過去の『高総戦』で得られた魔力特性のデータを全て記録したものだった。そして同時にこれは、千影が自分の都合で予定をずらし、ネビアから強奪したものでもあった。
なくては困るものがキチンとこの場にあったことを確認し、千影はひとまず安心する。
「うん、よかった。紆余曲折を経て壊れちゃってたらどうしようかと思ったもんね」
「それを心配してたんならなんであの馬鹿野郎に回収を任せたんだか。おかげでお前ぇ、話聞いたときゃぁ俺もキモを冷やしたぜ」
「へへへへ。親父にもまだ冷やすキモがあったんだね。でも親父、そんなとこに入れてて大丈夫なの?万が一のときに壊されちゃうんじゃないの?ボクが持ってた方がいいんじゃない?逃げ足にも自信はあるよ?」
「あぁん?」
千影に掌を出されて岩破は眉を上げた。この手にこのメモリを握らせろという意味だろう。
それはまぁ、確かに彼女の言う通りかもしれない。もしも戦闘になって薄いアロハシャツの上から一撃でももらえば、当たりどころによってはこんなちっぽけな記録媒体なんておシャカ決定だろう。・・・だが、それは一撃でも岩破の体に叩き込めるのであれば、の話だ。
『荘楽組』はあまり公に取り沙汰されることがないため知名度は低いように思われるが、実際は日本国内に留まらず、挙げ句の果てには世界4大マジックマフィアにまで数えられるようになった一大組織だ。その頭首である岩破がそんなに頼りない男のはずがない。そもそも天下のIAMOの魔法士たちですら、一部の精鋭を除けば岩破とまともにやり合おうなどとは思うなと念を押されている。
現実にはもう少し理由が複雑なのだが、とにかく岩破の実力に万が一というのは似合わない。
だから岩破は大笑いして千影からメモリをヒョイと取り上げ、そのままポケットにしまう。それから。
「馬鹿言ってんじゃぁねぇぞじゃりん子の分際で。そんなことがあるわきゃねぇだろぅが。それこそ・・・・・・」
ゴキリと首の骨を鳴らし、岩破が千影を見下ろす目つきは険しくなった。
「それこそ千影。お前ぇが相手でもだ」
「ッ!」
「なんだ、目ぇ丸くして。そんなに驚くこたぁねぇだろぅよ。お前もしかして、まだ俺がなんにも気付いちゃいねぇとでも思ってたんじゃぁねぇだろぅなぁ?」
大岩のような岩破の体から発せられた重圧で千影は無意識に体が反応してしまっていた。
いつでも対応出来る姿勢でいないと、そのプレッシャーだけで膝を屈してしまいそうな、それほどまでに激烈な怒気だった。
しかし、千影はまるで軽いイタズラが親にバレたときの子供のような表情で笑ってみせた。
「参ったなぁ・・・どこから知ってたの?」
「そりゃお前ぇ、自分がなにやってきたか思い出してから言うことだろぅが。まずこの取引の話が持ち上がった頃から怪しかったが、確信したのは『高総戦』が始まった時期だったっけなぁ?」
あれだけ身勝手なことなかりすれば、もう子供の気紛れの次元ではない。わざわざ時間をかけて練ってきた計画をそんなことであっさりご破算にされるのは癪だ。
だから、岩破は今日この場をもって千影のこれ以上の「ワガママ」は止めることにしたのだ。一歩踏み出し、千影を威圧する。
「これ以上ガキの駄々に付き合ってはいらんねぇぞ。悪魔を殺して、一般人にまで手ぇ出して―――お前ぇ、なんだ、『荘楽組』潰す気か?ん?」
「そんなつもりじゃ・・・。でも、今日の取引だけは、ダメだよ!あの人とはこれ以上関わっちゃダメなんだ。それを渡したらきっと、それこそ戦争に繋がるかもだよ。きっと、すっごいたくさんの人が不幸になるに決まってる!」
「その他大勢の安全なんざ知らねぇよ。俺たちゃ依頼された分の仕事をして報酬を受け取って、そんで酒飲んで美味ぇもんを食って笑う。それだけだろぅが」
「・・・ボクは・・・ボクは親父たちのそう言い切っちゃうとこだけは嫌いだよ!たくさんの人を傷つけて、自分だけは利益を得るんだ!!」
「それは千影もやってることだろぅよ。んなこと言う前にその真っ赤な服でも洗ってきたらどうだ」
「これは・・・ッ!これ、は・・・確かにボクのワガママでやったことだよ。それは認めるけど・・・」
「けど、なんでぇ?結局俺もお前ぇも一緒さ。自分の目的のためなら手段なんざ選ばねぇ。気に入らねぇもんはぶち壊し、一番都合の良いゴールまで強引に走り抜けるだけさ。おぉ、日陰者の鑑じゃぁねぇか」
「・・・でも、でも・・・!」
「でも、なんだぁ!」
いつまでもどもり続ける千影に岩破が声を張り上げて、千影は竦んだ。千影は今までも岩破のことを恐いと思ったことがないわけではない。しかし、それは出会った頃の記憶がほとんどだ。だから、千影が岩破に対してここまで恐怖することは今までになかったことだ。
けれど、千影は同時にそうだ、とも思った。
「・・・そうだね。でも、じゃないや。そうさ、ボクも親父も一緒さ。ボクは自分の望んだ未来のために自分のやりたいことだけをしてきたもんね。人の幸せなんてどうだっていい―――まったくその通りだよね。・・・だからもう綺麗事は言わないよ」
「随分開き直ったじゃねぇか。で、ならどうするんだ?俺を止めるか?」
「止めるよ。力尽くでもね」
「そうかぃ」
仲間だった関係は今この瞬間から敵対に変わった。いや、もしかしたら家族だったのかもしれない。でも、もう敵だ。
そうと決まれば速いのは千影だった。千影は腰に帯びた『牛鬼角』の柄を右手で逆手持ちに握り締め、姿勢を極限まで低く落とした。足を大きく開き、左手を床につく。《神速》を名乗るには確かに相応しいだけの速さを生み出すしなやかな筋肉が弾性エネルギーを最大まで溜め込むのに0.5秒も要らなかった。
対する岩破は仁王立ちだった。不動の意志そのものが斥力のように千影の体を押さえ付ける。
後戻りの出来ない最後の一歩を踏み出す前に、千影は岩破に確かめた。
「最後にもう一度だけ聞くよ。親父、本当にこの取引、手を引いてくれないの?」
「引かねぇよ。やめさせるなら俺を殺して止めてみろ。お前ぇに出来るもんならな」
岩破の体を包み込むように魔力が立ち上る。
きっと岩破は加減なんてしてくれない。義理だろうが娘だろうが子供だろうが、邪魔するものは全て消し炭にするに違いない。
でも、だとしても、千影はもう引き返せない。止まれない。やめることなど許されない。多くの人を、あまりにもたくさんの人を巻き込んで、今日に辿り着いた。やっと見つけた光すら断ち斬ってここに立っている。
目指す未来が正しいかなんて自分じゃ分からない。でも、それが正しいと信じて千影は戦うことを選んだ。
「分かったよ、親父。今まで育ててくれたことはありがとう。でも、今日でサヨナラだよ」
「あぁ、さっさと失せろ化物娘」
刹那の沈黙と共に、二人の怪物が衝突した。