episode5 sect56 ”7月30日”
まだ家を出るには早すぎる時刻なのに、気持ちばかりが焦っている。こんなに緊張しているのは、おかしいのだろうか。
遂に、待ち望んでいた日が訪れた。きっとほとんどの人にとってなにも特別なことなどない7月30日は、人間と魔族が秘密裏に会合を設ける日だ。いや、正確には会合ではなく弾劾か。魔族の条約違反、長らく続いていた一連の騒動も、恐らく今日で一応の決着を迎える。一央市を舞台に隠密に画策されていた魔族たちの陰謀は既に露呈し、彼らを魔界へと強制送還し、今日で潰えることとなる。仮初めの平穏はようやく自信を持って平和を名乗れるようになるのだ。
―――けれど、迅雷にとってそれは最も大事なことではない。彼にとって、今日は他でもない、長らく顔も見られず行方不明同然だった千影とようやく再会出来る日なのだ。
千影が自分の元を去ってから、およそ3週間。彼女が残したあの言葉ががらんどうの胸の中に転がって寂しい音を立てたあのとき、初めて気付かされたもの。伝えたい言葉も見せたい変化も全て手遅れだった。
でも、それも昨日までの苦悩となる。待つだけのもどかしい日々も、やかましい居候がいない欠けた日常も、やっと全部元に戻る。
ギルドで無理を言って参加許可を手に入れてからの1週間、迅雷は込み上げる喜びと緊張でひとときも落ち着けなかった。居ても立ってもいられなくなった末に雑なトレーニングを始めたり甘菜に渡された書類が手垢に汚れるほど読み返してあるはずもない読み落としを探したり、家族からは少し心配されるほどだった。それもこれも全部、今日という日への希望と不安がごちゃ混ぜになった気分にせっつかれるままだった。
「集合が午後6時なんだから、家を出るのは5分前行動を考えても5時くらいが妥当でー・・・いやいや、念のため4時半くらいに・・・?ぬぁー!」
高校受験の合格発表の日でさえ強がってジッとしていた迅雷がリビングをせわしなく歩き回ったり階段を高周波数で上り下りしている。
よほど今日の任務が迅雷の精神を圧迫していると見えた直華は、微妙に話しかけにくくなって、代わりに真名と迅雷について話す。
「お母さん、お兄ちゃんすごい緊張してるね」
「そりゃー、だって、ねー?」
「・・・?」
「見てるこっちまでときめいちゃいそうねー」
訳知り顔というべきか、したり顔というべきか、真名はニヤニヤと笑っていた。彼女の言い分が分かるような分からないようなで、直華は首を傾げた。すると真名はさらに面白そうに笑う。
「でも、結局は千影ちゃん次第よねー」
「だ、だからお母さん、それどういうことなのってば?らしくもなく回りくどい言い方しないで、普通に教えてよー」
「らしくもなくって酷いこと言うわね・・・」
さりげなく酷い娘の一言に真名はちょっと落ち込んだ。
じゃあ少し待って、と真名は唇に人差し指を当て、迅雷が2階へと上がっていくのを見送った。それから、直華に耳を貸せと手招きする。
「・・・?」
「いい?あれは恋よ、恋に決まってるわ」
「・・・・・・ヴッ!?こっ、こここ、こい、ですか!?」
こい・・・鯉?故意?濃い?え、いやまさか、恋?
「そーに決まってるわ!いつも一緒にいたから気付かなかったけど、あの子のいない生活が続いて気付いたのよ、自分の中の本当の気持ちに―――そー、本当はこんなにも愛していたのか・・・と!ふと思い返せば今日一日あいつのこと以外でなにか考えてたっけ?心配ばかりしてたなー、寂しいなー、と!そう、つまり迅雷も遂に――――――」
「思い切り聞こえてんぞ!」
「あ、お兄ちゃん!?」
「あちゃー、しまった♪」
いつから聞いていたのか、廊下の迅雷が目の端を吊り上げて怒鳴った。ビビった直華が机の下に隠れる。火事に地震に雷兄貴か。
特に反省する様子もない真名は手をヒラヒラさせて迅雷を宥めようとしている。
「まーまー、迅雷だって好きな女の子の1人や2人くらいいるもんでしょー?男の子なんだから」
「だからなんでそうなるんだよ!勝手に決めつけんな!」
「えー?じゃあ千影のこと嫌いなの?」
「それは・・・!?」
「ほら~。母さんの前でまで照れなくたって良いのよ~?分かってる分かってる。たまたま好きになった子が小さかっただけだものねー」
「だーもう!好きじゃないとは言わないけど、あくまでも千影は家族なんだっての!母親にまで笑顔で異常性癖認定される息子の身にもなってくれよ!」
「それはキッツいわね。それにしても、そー・・・あくまでも、ね・・・。とはいえ母さんは愛に善し悪しなんてないと信じてるわ。相手が誰だろーと、なにだろーと、大切に思う気持ちにこそ意味はあるものなのよ。どれだけの人に反対されても罵られても軽蔑されても排斥されても、例え条約や法律や条令で禁止されてても、それがダメなこととは思いません!本当の気持ちに素直にならないともったいないんだから!」
「ぎゃああ!言葉が通じない!だっかっらっ、そっちじゃねぇ!!」
真名が今言った言葉は、それ単体ならとても高尚なものだったのだが、絶対に言うタイミングを間違えた。強引に息子を児童性犯罪者候補へと貶めようとする邪悪な母親に反発して迅雷は大声で言い返したのだった。
いや―――確かに真名が言っていたように迅雷は千影の会えないようになってから酷く空虚な気分を味わってきた。それは事実である。
千影が家にやって来た当初は、鬱陶しいやら騒がしいやらで邪魔くさいながらになんとなく邪険に扱いきれないというか、意外に繊細そうな一面を感じながら相手をしていただけのはずだった。それなのに、いざ彼女がいなくなれば―――そして今は『高総戦』の前に千影が実験の強力とやらで家を離れたあのときよりなお一層、迅雷の方から千影の存在を求めてしまっていたのだから。
・・・しかし、だ。いや、だからって言って、それとこれとは別問題だと思う。それに大体、迅雷が気になっている相手は千影とはまた別にもう一人いるのだ。少なくとも、迅雷自身の中ではそれは間違いない。いや、直華は直華という特別枠としてまたさらに別だが。
「いぃーん、息子に反抗期が訪れちゃったー」
「これに反抗しなかったらマズいだろ」
「でも、迅雷も、きっと母さんの言ったことを思い出す日が来るわよ。いつか、必ず」
「・・・?回りくどい言い方しないでよ、母さんのくせに」
「迅雷まで!?母さん、泣いていい?」
「・・・」
さっきまでは恋バナに花を咲かせる女子高生のようだった母親の、その一言だけが迅雷は聞き流せなかった。本当は、あの言葉には別の意図があったとでも言うつもりなのか?この嘘泣きに勤しむのんびりな真名が?
でも、ならどういうことなのだろうか。
今の迅雷には、そうだとしたなら、その意味が分からない。でも、尋ねようとも思わなかった。
「ほら、迅雷。結局そろそろ5時よ?出かける準備は―――」
言いかけ、今度は真名が呆れた顔をした。
「も、もう完璧です・・・」
「やれやれねー」
いつでも出られる格好のまま迅雷は真名と口論をしていたのだ。あんなにピーチクパーチク言っていたのはどこの誰だか。
「まー、2人で仲良く帰ってくるんでしょ?母さんも楽しみに待ってるわ。・・・多分寝てると思うから、帰ったら起こしてねー」
「果報は寝て待ちますってか。・・・はいはい」
「迅雷」
「ん?」
「しっかり、ね?きっと、千影も待ってる」
「うん」
どっちにしたって、やることは変わらない。
自分で居場所を失っていくようなことをする千影を、この家に連れて帰ってくるのだ。
伝えたい心をそっと抱いて、迅雷は玄関を開けた。夕暮れの太陽は、まるであの紅の瞳。すぐそこで、待っている。
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本当なら受けられない依頼を迅雷は引き受けた。
玄関のドアが閉まると、直華は心配そうに呟いた。
「ねぇ・・・お兄ちゃん、大丈夫なんだよね?」
「迅雷ならきっとうまくやるわ。だって、母さんの・・・神代家の子だもん。―――ただ」
真名の目を見て、直華は不思議な気分になった。彼女はなにを見ているのだろう。なにを考えているのだろう。透き通るような黒瞳に映るヴィジョンが遙か彼方を映している。
「ただ、本当に、あとは千影次第なのよね。あの子の気持ちだけは、母さんにも分からなかったから・・・」
「お母さん・・・?」
直華はただただジッと真名の目を見つめ続け、今の素直な気持ちを口にした。
「お母さんも、そんなに複雑なことを考えることあったんだ・・・」
「ホントに酷い娘ねー・・・」
親の心子知らず・・・か。
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「ここか・・・例の会合の場所っていうのは。ふーん、ふーんんん・・・?ふは、あははっ。秘密にしたがっていたのがこんな場所なんて、ギルドも小ズルいなぁ」
工事車両の1台すらない工事現場の中で、界斗は夕焼けの摩天楼を見上げた。