episode5 sect19 ”明晰夢”
これは夢だと、すぐに分かった。
直視に堪えない現実の過去だ。
ほんの、つい今日の出来事の追憶だ。
あるいは、絶対に目を逸らしてはいけないその瞬間を、決して目を背けられないように、自分自身が自分自身に夢として見せているのかもしれない。
あのとき、自分が本当はなんと答えるはずだったのか。もう成績表の結果は変わらない。だから、ただの子供じみた答え合わせの時間が始まる。
土の上にうずくまる迅雷の前に千影が現れて、金髪を軽やかに揺らす。ボンヤリと立ち昇った彼女は全身ボロボロで、痛くて苦しいはずだったろうに。
「なんで、そこまでしてくれんだよ」
ただの幻だと分かっているのに、抱き締めて放したくない衝動に駆られた。
迅雷が目の前のほんの小さな背中におもむろに手を伸ばそうとしたとき、千影が振り向いた。
その微笑みに、迅雷も頬を緩めた。
『とっしーは最後、なにをしようとしてたの?』
やっぱり、そうだ。千影の声は冷たいけれど、目を見れば分かる。今更、もう遅いか。
ふと視線を横に逸らすと、そこには見慣れた魔法陣があった。
「そうだったな・・・」
どこかに繋がっているはずのその魔法陣に迅雷は手を入れた。夢だからだろうか。不思議なくらいに抵抗がない。今の迅雷はとても素直でいられる気がしていた。
次元の穴に手を突っ込んで指先が触れたものを、迅雷はこちら側に引き寄せた。この寸前まで迅雷が掴み取ろうとしていた、淡い金色の剣だった。
「俺は、こうしたかったんだよ。無理とか分かってたけどさ、そんなことカンケーなくさ」
眼前に黒い巨獣の映像が浮かび上がる。迅雷は剣を振るう。恐怖の象徴の幻影はそれだけで消え失せた。
それなのに。
『そっか、なにがしたかったのかも・・・分かんないんだ。君は、本当に』
「は・・・?お、おいちょっと、待てよ千影。俺今ちゃんと分かったんだぜ?なぁおい?」
『「約束」』
「・・・あぁ、そっか・・・」
今こうして目の前にいる千影は、きっとこのまま最後まで記憶の通りに語り、叫び、そしてどこかへと走り去ってしまうのだ。
それが分かっていて、どうしようもないのだろうと直感した。これが迅雷の選んだ結末だったのだ。その一部始終を、もう一度考え直すときなのだ。
『また、守れなかったみたいだね』
「分かってるよ。俺はまた守れなかった」
『どうだったろうね、それは』
「へっ。なんだよ、どっちさ。まだ俺は、ちゃんと分かれていないってかよ」
だいぶこじらせていた強がりの仮面が外れて、迅雷は苦笑しながら頬を掻いた。自分に重なった影が愚かにも自分と同じ過ちを繰り返すのも見えていた。聞こえていた。
なのに、なぜか夢を見ている今の自分と映像の中の千影との会話も成立していたみたいに思えて、嬉しいような悔しいような。
『守れ』ないから『守ら』ないようにしようとしていたけれど、それでも『守り』たがっていたものはどうしようもないのであって―――。
『結局、とっしーはまだまだそんなことを言ってるの?』
「おっと、そうだったや。ごめんってば、千影。そんな目すんなよ。ヘコんじまうよ」
『とっしー。とっしーは空っぽなんだね』
「―――そんなこと、ないんだぜ?だってさぁ・・・」
『君は戦う理由すら、自分の中に持ってないんだよ』
「なんにもないわけじゃ、ないんだ。千影だって、分かってんだろ?なぁ・・・」
今この手にある黄金の魔剣がなによりの証拠だ。目の前の少女にぶつけたい想いの丈がその理由だ。ほとんど空っぽだったとしても、迅雷はまだ、辛うじて神代迅雷だ。
湖畔に転がっていた「自分」の亡骸とは違う。
『人に―――もうどこにもいない他人にそれを求めるから、君はこんなにも中途半端なんだよ。剣を握る理由と意味、価値すら、他人に預けるから、結局誰のことも守りきれない』
「俺は俺で、俺の戦いは俺の戦い。そりゃそうかって話だよな。でも、1つだけ良いかな、預けても―――」
『うん?』
瞬間、迅雷はゾワリと体中の毛がささくれ立つような悪意を感じて、口を閉じてしまった。耳に、鼓膜にめり込んでくるその声は、自分が発したものだった。
恐くて恐くて、自分のくせに、恐ろしくて堪らない。幻影が迅雷の体を離れてひとりでに動き出す。影に体が引きずられる。
「おい、待って、やめろよ、俺・・・」
『お前が・・・言うのかよ?』
「待て!!違う!!聞くな、千影・・・頼む、俺の言葉なんか、聞かないでくれ・・・」
残酷な夢は止まらない。止まれない。初めから絶望への一本道の上だったのだろう。そうして、彼の拙い逆上は吐き出された。
迅雷は届かない本心を叫ぶ。
『一番の原因のお前が言うのかよ!』
――――――一番のきっかけのお前が言うのか。
『そもそもさァ、なにもかもがズレ始めたのは』
――――――なにもかもが変わり始めたのは。
『結局、全部お前のせいで――――――!!』
――――――やっぱりさ、全部お前のおかげなんだって。
今、また、迅雷の前で千影は泣いていた。
こんなに優しかった千影にそんな顔をさせた自分が恨めしかった。あの子がせめて自分といるときくらいは幸せに笑っていられるように―――そう言っていたのはどこの誰なんだ?
「嫌だ、やめてくれ!もうやめてくれ・・・なにも、もうなにも言うなよ・・・!」
『やめないね!やめるかよ!』
今度は自分に嘲笑されるみたいだ。いくらやめろと言っても、そこにいる神代迅雷は非情にも言葉を連ねていってしまう。
「もうお前の苦しみは分かったから、だからもう、もういいだろうがぁ!!」
迅雷は、刺す。刺して刺して、それから刺す。涙を流す千影の姿を見て嗤いが止まらない自分の腹を、胸を、頭を、体中をひたすらに手に持っていた『雷神』で刺し続けた。
痛いのに、こんなにも痛いのに、それなのにやはり、止まってはくれなかった。
『分かる?分かるのか?本当に?笑わせんなよ・・・千影』
「分かるって言ってんのに、笑ってんじゃねぇ・・・よぉ・・・!」
いくら刺し貫いてもすり抜けていく自分の醜悪に歪んだ顔を隠したくて手で覆うのに、過去が顔を上げさせる。
『俺がお前に一体どれだけ―――』
「俺がぁ・・・俺が、お前にっ、一体どれほどぉ・・・!!」
喉が弾け飛ぶほど叫んだら、心の拘束が解けた。迷わず、迅雷は幻影の殻から飛び出した。今すぐ、泣きじゃくる千影に手を伸ばした。
『どれだけ文句があんのか、分かんねえだろ!!ふざけたこと抜かしてんじゃねェェ!!』
「違う!そうじゃない!!どんだけ感謝してんのか―――分っかんねえだろぉぉぉぉ!!お前・・・ふざけたこと、抜かしてんじゃねぇぇ!!」
やっと抱き締める千影の体は、灰になって風に乗り、迅雷の腕をすり抜けた。
『ひどいよ、とっしー。ボクだって、ずっとずっと君に―――』
●
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!」
気付くともう、自分の部屋にいた。絶叫が窓の外に逃げていくと、刻々とアナログ時計の秒針が動く音がした。
「やっと・・・やっと分かったよ」
様々な執着も、内包していた熱も、ようやくその正体が分かった。なんでこんなにも必死なのかさえ今まで分かっていなかった自分のひねくれた心が、なんてバカらしいことだろう。
恐ろしく単純な感情に気付かなかった。素直にものが見られなくなっていた。やりたいことを本当にやりたいことだとも思えず、長い時間をその一言のために尽くし過ぎた。
だけれど、もう分かった。完璧ではないかもしれない。癖だってすぐには治らないし、変わらず大切なものもたくさんあるから望まれるような変化はないかもしれない。
「でも、意味ならあった。無価値で無茶だったとしても、俺には意味も理由もあったんだ―――」
ドタドタと1階から階段を駆け上がり、部屋の前まで誰かが走ってくる。そいつはノックもなしで飛び込んできた。
「お兄ちゃん大丈夫!?すごい叫んでたけど!?って、うわ、すごい汗!怖い夢でも見たの?」
「ナオ、俺ちょっと出かけてくる!」
「えぇっ!?もう夜だよ!?てか汗だってば!風邪引いちゃうよ!」
「別にいいよそんくらい!」
「あ、というかお兄ちゃん、それパジャマ!」
●
気の利く妹に指摘されなければ、迅雷は今頃寝間着(夏だからだいぶ薄着)で夜の街を徘徊するヘンタイになるところだった。外に飛び出した後ならいざ知らず、迅雷もギリギリで落ち着きを取り戻した。
とはいえ右手を吊っている迅雷は1人で着替えるのが大変なので、直華が手伝ってくれた。
なんとも甲斐甲斐しい妹の姿に迅雷は並々ならぬ感動と細やかな安堵を憶える。下からタオルを持ってきて汗まで拭いてもらうと、一瞬どっちが年上なのか分からなくなってみたり。
「はい出来ました・・・・・・って、あれ?」
「ん?」
「なんで私お兄ちゃんのお出かけの準備を手伝ってるの?」
「自分の胸に聞いてみな」
さっきまで引き留めようとしていたというのに、いやはや。すっかり外出の準備が完了してしまった迅雷の姿に直華が改めて首を傾げた。でも、迅雷がやろうとしていることを直華は無条件で許容して、応援してあげるだけだ。
「うーん・・・まぁいっか」
「ナオ、ありがとな。んじゃ、行ってくる」
自室に直華を残し、迅雷はドアを開け放った。
世界は広い。世間は狭い。大丈夫。辿る道はまだ残っている。砂利道だろうと獣道だろうと、必ず追いつく。
「ナオ」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「さっき怖い夢でも見たかって言ってたよな」
「え?うんまあ」
「違うよ、それは」
きっと迅雷がそんな顔で笑ったのは、すごくすごく、ひさしぶりだったのではないだろうか。
「すっげえ良い夢だった!」
●
さて、それと同じ頃。
「うーん、困ったなー」
とっぷりと日が暮れてしまった。さて、宿無し幼女となってしまった千影は夜の一央市をてくてくと放浪していた。絵に描いたような金髪幼女に反応して野生のロリコンが飛び出してこないか心配だ。まぁ、出てきたところで捕まえられるものなら捕まえてみろって話なのだが。
ギルドにも5番ダンジョン内での異変については細かく報告したので、そちらは後は放っておいてもなんとかなるだろう。まぁ、呼ばれても千影は例の作戦には参加しないだろう。いや、まず呼ばれることがないだろうけれど。
なぜなら千影にはそれよりもずっと重要な仕事があるからだ。結果はどうあれ迅雷についてはやれるだけのことはやったので、そちらはもう終わりにして、ここからはこの仕事に力を入れないといけない。
「ま、あれで良かったんだよ。どうせ遅かれ早かれこんな日は来たんだからさ」
ぐぅ、と腹の虫が鳴いたので、千影は近くにコンビニかなにかがないか、探すことにした。