episode5 sect17 ”どこまで分かる”
「お兄ちゃん!?」
病院の中で直華の声が響き、車椅子を押していた看護師が注意していた。彼女は反射的に謝りながら、ロビーのベンチにダラリと腰掛けた自分の兄に駆け寄った。
「ナオ、病院の中で走るのもダメだろ。他にも人がたくさんいるんだしさ」
「それは反省してます!・・・だからお兄ちゃんもあんまり心配させないでよ、お願いだから・・・」
「反省してます。・・・まぁ、言って右手首が複雑骨折したくらいで済んでるし、ツイてるよ」
「いや十分大怪我だよ、それも」
とは言いつつも右手以外は特に問題ないらしい迅雷を見た直華も安心したのだろう。最後は軽いツッコミ程度のノリだった。
迅雷は直華を左隣に座らせて、また視線を天井に投げた。右腕を固定しているから、自然に姿勢も制限されるようでどうにも居心地が悪い。
迅雷の隣に座ったは良いが、彼が押し黙るせいで妙に気まずい直華はチラチラと迅雷が見ているところを一緒に見てみた。ただ、何度見ても当然だがそこにはなにもない。明後日の方角とかいうやつだろう。
どこか遠い目をしたままの迅雷の姿を無言で見つめ、直華は少しの勇気を出してみた。なにがあったのかよく分からないけれど、今は寄り添ってあげないといけないような、そんな気がしたのだ。たとえそれに意味なんてなくても。
「・・・・・・えいっ」
ポスッ、といった感じで、直華は迅雷に寄りかかった。
その軽い感触を受け入れ、迅雷は顔を直華の方に向け直した。目が合うと、直華は少し照れたようにして視線を逸らしたりする。
「どうしたんだ?お兄ちゃんに甘えたくなっちゃったのか?」
「・・・・・・」
「あれ!?無言は肯定と見なすけど良いの!?」
怪我人のくせに元気を余しているらしい兄にジト目をして、直華は小さく息を吐いた。迅雷のためにと思いながら、本当は直華がこうしたかったというのも、多分にあったに違いない。こうして軽口を叩く兄の姿が見られることの喜びは、今なら他に代えがたいものだから。
「だって、すっごく安心したんだもん」
「むほっ。今の言い方はキュンとした・・・」
「ちょ、茶化さないでよ、もうっ!」
迅雷のリアクションはまんざらでもない様子で、直華はそっぽを向いた。気が付けばまた病院の中で大声を出してしまっていたので、直華はハッとして口に手を当てて、周囲を窺いながら縮こまる。
「心配したんだよ、ホントに・・・。また『ゲゲイ・ゼラ』に襲われたって聞いて、すっごくびっくりしたんだよ?今度こそ死んじゃうんじゃないかって、恐かったよ・・・」
これは本当の本当だった。あんな化物と二度も遭遇して二度とも生還した高校生なんて、新聞に載ったって良いくらいの出来事だ。
直華の言葉は、迅雷の心の傷にしみて少なからず揺さぶりをかけた。彼には、こうしてまた直華と会話出来るのだって、あの子のおかげだと分かっているのだから。
「そうだよな。本当に、そうだ。俺も、こんなことになるなんて思わなかったよ。絶対死んだなって思ったよ、何回も。なんも出来ないまま、あっさりさ」
「でもちゃんと帰ってきてくれたもん」
「カッコ悪くも、なんとかな」
言っていて、迅雷の頭の中はもはや本人にさえ不可解でさえあった。分からないものが、もっと分からなくなった。
結局最後まで『守る』どころか守られて、迅雷たちは元の世界に戻ってこられた。それがどうして、あんなにも酷い離別になったのだか。
笑うしかない。笑える話なのだから。
また虚無的な笑みを浮かべた迅雷を、直華は真っ直ぐに見てやった。
「そんなことないよ。別に、お兄ちゃんはカッコ悪くなんてない!お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。カッコイイとこも、そうでもないとこも込みで、お兄ちゃんは―――」
「そうなんだよな、俺は俺・・・なんだよな」
「え、うん・・・そうだよ?」
冷たく言い放たれた言葉が蘇る。悲痛な絶叫で感情が疼く。
―――じゃあ俺はどう間違っていたんだ?『守ろ』うとすることはいけないことなのか?
実感はあるようで、まだなくて、「俺は俺」というフレーズだけが空洞の中で何度も何度も反響するようだった。
自分は自分である―――当たり前のことのようで、その意味を気にしていなかった。たったそれだけの一言のために迅雷は失くしたものはいかほどだったのだろうか。
「じゃあなんだって言うんだ。全然、分かんねえ。全然、当たり前なんかじゃない」
不思議そうな顔をする直華のフサフサした頭を撫でてやってから、迅雷はベンチから立った。
「ナオ。今日はもう帰ろう」
命に別状はないとのことだったが、それでも真牙と慈音は未だ意識不明。煌熾も怪我が酷く、3人とも入院することになっていた。
たった1人、迅雷だけが帰路に就けてしまった。そのことで表現のしようがない罪悪感が後ろ髪を引くが、迅雷は病院を出る。
●
家に到着して迅雷が一番最初に見たものは、母親の安堵で緩みきった顔だった。でも、お向かいさんは病院のベッドに寝かされた娘の姿を見て卒倒しそうになっていたのを思い出せば、迅雷はそんな歓迎に素直に喜ぶことが出来なかった。
「ただいま、母さん。俺、腹が減ったなぁ・・・」
だから、そんな風に誤魔化した。
玄関で靴を脱ぎ、直華が揃えて並べるそれらの中に、一際小さい一足がないのを見る。外出帰りの慣習で手を洗おうとして、いつもなら我先にと洗面所に駆け込んでいた少女の影を見る。部屋に戻れば、ちょっと前にも感じたような、物理的な空虚さを思い出す。
いつもと逆側のポケットに突っ込んでおいたスマートフォンを左手で取り出し、特に深く考えないまま電話帳を開いてみた。
その中から1つの連絡先を選んで、30秒ほど待っていると、予想通りの結果が待っていた。
『ごめんね、ただ今ボクはとってもいそがしいから電話にでんわ!なんちって!ということでまた後でお願いしまーす!』
今どきオヤジも言わないようなオヤジギャグを楽しげに使うあどけない声に、迅雷はにやけた。
目尻に熱いものが溜まってきて、視界がジンワリと滲み始めた。
「千影も・・・どっかいっちゃうのかよ。なぁ・・・?」
なんだか、急に世界がモノクロになってしまったようだった。迅雷がようやく帰ってきた日常は鮮やかだったはずの色を欠いていて、途方に暮れるほどの喪失感に心が荒みそうだ。
「心にぽっかり穴が空いたみたい―――ってか」
迅雷は月並みな表現しか出来ない自分につまらなさを感じながら、左手を心臓に重ねた。
一度は中身が見えるほど深く抉られた胸の奥で、迅雷の心臓は今も一分の狂いもない健常な鼓動を刻み続けている。
持ち上げた左手のシャツの袖が下がって、手首に刻まれた『制限』の術式が覗く。自分自身の魔力の制御すら満足に出来ない迅雷のために千影が施してくれたものだ。
思えば、千影は最後、なんと言おうとしていたのだろうか。いや、きっと。
「ホント・・・中途半端でバカだよな。俺」
しばらくして部屋のドアがノックされ、迅雷が返事をすると直華が入ってきた。
「お兄ちゃん、ごはんにしよっか」
「うん?・・・おっと、あぁ、そっか」
言われるまでそんな風なことを言ったことさえ忘れていた迅雷は直華に苦笑を返した。
気が付いたら20分以上も左胸を掴んでぼんやりと突っ立っていたらしい。心ここに在らずの彼を直華は気遣わしげな目で見ていた。
「ごめんな、ナオ。いちいち気ぃ遣わせちゃってさ。こんなんじゃダメだな」
「そんなことないよ。私だって千影ちゃんが心配だもん・・・。ちょっとくらいダメだっていいじゃん。情けなくたっていいじゃん。私はそんなお兄ちゃんだって大好きなんだよ?」
「ゴバァッ!!」
「えっ!?お兄ちゃん!?」
しんみりした空気を自ら破って迅雷がベッドの上に吹っ飛んだ。愛する妹のその一言は、腐ってもシスコンである彼にはよく効いた。
「ちょっと、どうしたの!?」
「だ、大好、き・・・」
「へ?・・・ぁ、あああ!!」
一瞬迅雷の呻き声の意味が分からず首を捻った直華だったが、すぐに直前に口走ってしまった大胆発言を思い出して真っ赤になった。
「い、いやいやちょ、あのっ、そそっそれはそういうのじゃなくてね!?あくまで家族として愛すべきお兄ちゃんっていうかでしてね!?よし、忘れようね!」
慌ててなにか言っている直華に揺すられながらも、迅雷は彼女の手を取った。宥めるようにその手を優しく握る。
「分かってるって」
「分かってないよ!絶対!」
「いや分かってるってば。でも、ダメなんだ。このままじゃ、俺、また大事なもんを手放しちまうよ」
「・・・千影ちゃんのこと?」
「うん。―――でも、まだ間に合うような気がする。いや、ちょっと違うよな。今度こそ・・・今度こそ間に合わせたい。だから、俺は」
直華が受け入れてくれるとしても、それではいけないらしい。慈音が、真牙が、煌熾が、千影が、それぞれの形で今の迅雷を否定した。唯との『約束』。迅雷の心。
なにも出来ないことを仕方ないと割り切れる時間は終わりを迎えていたのかもしれない。
「分からないといけないんだ」
直華の言っていることを理解するように、千影の言ったことの意味も、分からないといけない。迅雷はベッドから起き上がって、部屋を出た。
「さ、ナオ。ホントに腹も減ってきたし、さっさと飯食おうぜ。改めてなにがあったかもちゃんと話さないとだしな」
「へ、あ、うん・・・?なんか今日のお兄ちゃん言ってること難しいよ」
「うん。俺もまだちゃんと分かってないからな」
「・・・それと、そのぅ・・・お兄ちゃん」
「どうした?」
「えっと、いつまで手を繋いでるのかなーって・・・」
「なに言ってんだ。いつまでだって繋いでるさ。もう絶対に放したりしない・・・!」
「なにそれ怖い!すごく重いよお兄ちゃん!?というかなんでムダにキメ顔なの!?」
冗談はさておいて、さすがに両手が塞がっているとご飯も食べられないので、迅雷はとりあえず食卓までは直華と手を繋いでいくことにした。