episode5 sect4 ”異物の介在の必要性”
「これは、その、違くて・・・いや、えっと!?」
なんの弁解をしようにも焦って言葉が出ない。だって、もしかしなくたって迅雷が言うところの「もし」こそ現実なのだから。なぜか一瞬たりとも兄の目から視線を逸らせなくなって、直華の心臓は超新星爆発の寸前の収縮を始めていた。
でも、言ってしまった。言ってしまったのだ。
―――バレてしまっては仕方ない。
いろいろ、これからの家の中での身の置き方の変化も想像して、直華は腹を括った。
まさかこんな日が来るとは、だ。さっきは思わず手が出てしまったが、短時間でこうまで同じシチュエーションが繰り返すのだ。
思い返せばモテる先輩からの告白も友人たちに受けたからかいも、一連の流れとしてこの瞬間のためにあったのかもしれない。
そう思うと、直華は少しだけ勇気が湧いてきた気がした。
「うん・・・うん、そうだよ。私、本当は―――」
気持ち悪がられても、もう戻れないから、そんなのは苦しいだけだから、それなら、この想いは曝け出してしまった方が良いに決まっている。
「おに―――
「ナオって、結構高望みする子だったの?」
―――あ、あれ?」
「ん?なんか言いかけてたよな。ごめん、言っていいぞ」
「い、いや!!なんでもないから!!」
結局また条件反射的に誤魔化してしまった。こうして少女の平々凡々でささやかに幸せな日常は守られたのだった。
というか、どうして今になって迅雷はテンプレ勘違いをしたのだろうか。洗面所ではノーヒントで答えをぶち抜いてきたくせに、なんのつもりなのだ。いや、自分たちは普通の兄弟関係だと宣言したのは紛れもなく直華なのだが、なのだけれど。直華は安心している一方でちょっとだけイラッとした。決めた覚悟の行き場はどうしてくれるのだろうか。
「そっか?まあ、それなら聞かないけど。いやぁ、でもナオも結構高望みしちゃうんだな。謙虚で健気な子だと思ってたけど、やっぱりなんだかんだ言ってナオも年頃の女の子か・・・はぁ」
「え・・・そうなの、かな・・・?」
「そうだよ。そんなマンガの主人公みたいなヤツ、いないって」
思い切り実在する人物の印象を並べたはずなのだが。というよりもまず、高望まれている本人がその人物像を高望みと言っているのだが。どうして良いのか分からなくなって直華は冷や汗まみれである。
直華がそう思っていたって、迅雷の自己評価がそれと合致するはずもなかったか。
でも、直華はここまで来たらちょっとくらい押してみようかな、なんて思ってみた。このまま引き下がるのは直華まで迅雷を貶めて終わるみたいで嫌だったからだ。
「えー・・・。いないわけでもないと思うんですけど、いかがでしょうか、お兄ちゃん」
「いるなら是非会いたい。そして弟子入りだ」
迅雷は呆れて肩をすくめた。
直華はふっと鏡の前で自分に頭を下げている迅雷の姿を思い浮かべて噴き出してしまった。
「ぷっ!あははははは!ふ、ふへへ・・・」
「ど、どうされましたか直華さん?俺なんか変なこと言った?急に馬鹿笑いし出すと恐いんですけど?」
「ひぃ、ひぃ・・・いや、気にしないでいいよ。うん―――お兄ちゃんはお兄ちゃんだなーって思っただけだから」
思えばこれこそ「飾り気がない」兄の姿だ。内面にどれだけの変化が生じたって、迅雷はいつも妙に自信がなくて格好悪い。
兄のそんなところが直華は好きなのだろう。
「なんだよ、そりゃ・・・」
ジト目をする迅雷に直華は楽しそうに笑った。
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パーティーだクエストだと日々忙しくしている迅雷ではあるが、彼の抱えた直近の課題はそれだけというわけでもなかった。よって彼は夕食が終わればすぐに部屋に籠もる。
机に向かい、スタンドライトを点け、落ち着く音楽を動画サイトから探してイヤホンを着け、脇に置いた学校の鞄から数冊の本を取り出し、ペンを握り締めた。
そう、中間テストに向けた試験勉強である。
というより実は、明日から試験である。
本来であれば今日は最終確認程度にノートや問題集をサラリと見直し、早めに寝て脳を休めたいところだったのだが、そうもいかなくなった。
―――なぜなら。
「まったく分からん」
迅雷はそう呟いてペンを背後に放り投げ・・・そうになった。
テスト前日にして、迅雷が開いた物理(基礎)のノートはまるで魔導書だった。
ひたすらに板書を写したはずのそれは、後になって見返せば意味の分からない記号の羅列でしかない。
「さすがに1年生の最初の中間でこの理解度はマズいよな・・・。い、いやでも?全国大会とかあっていろいろ大変だったし?」
至極真っ当な感じがする言い訳をして迅雷は頭を抱えた。未だに半分白紙の問題集を前にして、迅雷は半ば諦めかけている。
出来ないものは出来ない。ペンを持つ手が嫌な湿気で蒸し返り、1文字書く前から迅雷はペンを机の上に転がした。
こんなところでも能力不足にぶち当たるところがあまりにもタイムリーな打撃となって、迅雷はうだって椅子の椅子の背もたれに体重を預けた。傾きすぎた椅子が倒れそうになって慌てる。
そんなときにノックもなしで迅雷の部屋に入ってきたのは、パジャマ姿の千影だった。昼間はリボンで留めた髪も今は下ろしている。
「どう?とっしー。はかどってる?」
イヤホンを外して迅雷は部屋の入り口に目を向ける。ホコホコと湯気を纏う千影を見てからハッとして時計を見れば、悲愴感もいっそう濃くなるというものだ。なにせ、気が付けば1時間以上も経っていて、解けた問題は2、3問。
「いや、全然。明日からなのに、ヤバイ」
「その片言感からしてもかなりキテるみたいだね・・・。うーん、よかったらボクが見たげようか?」
「いや、なに言ってんの千影さん。寝言は寝て言ってくれよな」
「むぅ、そんなこと言ってたら寝込みを襲わせてあげないよ?」
「誰がお前みたいなガキの寝込みを襲うんだ?」
軽くバカにされた千影はムッスリ頬を膨らせて、迅雷が机の上に広げたままほったらかしの問題集を取り上げた。
「そっか、とっしーは物理が苦手なんだね」
「そうだよ。なんなんだよaとかvとかさぁ」
「AVはアダルトビデオだよ」
「そっちのaとかvじゃねえ!?忘れた頃にそういうキャラ復活させんな!」
「じゃあ思い出させるついでにっと」
千影は迅雷が置いたシャープペンシルも取ってさらっと問題集の紙面に走らせ、2つを迅雷に返してやった。
「いやー、カンタンだなー」
「・・・は?」
どうせいつものイタズラかと思いつつ迅雷は問題の正答例と千影の回答を見比べた。すると、驚くことに正解ではないか。それも、見開き1ページ全部。
「あ、あれ?合ってるんですけど」
「ボク前に言ったじゃん。実は数学とか物理が得意な知り合いがいたんだって」
「先生!俺にご教授ください!!」
「ひゃっ」
手首がねじ切れる勢いで掌を返す迅雷。差し迫った危機が回避できるなら、迅雷も手段は選んでいられないということだろう。
迅雷に両手を握られたときは思わず変な声を出してしまった千影だったが、すぐに小生意気に笑った。
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「ほわ・・・ぁ」
今頃は迅雷たちがテスト問題を前にヒィコラ言っている頃だろうと想像して、千影は暢気にあくびをした。
和室の畳の上で日光を浴びながら大の字になるのはとても心地良い。
今日と明日がテストで、それから明後日はめでたいことに慈音の誕生日らしい。迅雷のときもそうだったから、きっと彼女のお祝いもみんなで集まろうという話になるだろう。
その間は『DiS』のメンバーでダンジョン探索に出かけることもないだろうから、暇と言えばそうかもしれない。
「とっしー、ちゃんとやれてるかなー」
「なんか今日の千影ってちょっと嬉しそうねー。夜になんかあったの?」
仕事に出かける準備をする真名が寝っ転がって1人ニヤついている千影に声をかけた。
「あ、ママさん。んっふふー。昨晩はお楽しみでしたぜ」
「まー・・・迅雷も小さな女の子相手に一線を越えちゃったのねー」
口元に手を当てつつも真名には驚きの色がない。千影も続ける。
「そう、そしてボクととっしーは遂に禁断の関係へと落ちていっちゃったんだよ」
「あらー。あの子にちゃんと責任が取れるのかしら」
こんな会話をしているが、別に迅雷が昨夜勉強のストレスではっちゃけて千影とすることをしてしまったとか、そういうことではない。
禁断の関係とは教師と生徒という関係の比喩で、責任を取ろうと思ったらちゃんとテストで点数を取れば良いだけだ。
「大丈夫だと思うよ、ママさん。とっしーは結構マジメだから多分責任取ってくれるよ」
畳の上を自在に転がって俯せになった千影は、組んだ腕を枕にして二カッと笑った。
分からないだの出来ないだのと散々ごねていた割に、千影が教えてやると迅雷の理解度は見違えるように向上した。さすが、迅雷もやれば出来る子だ。
もしかすれば分からないままだったのは学校の先生がヘタクソな授業をしたからかもしれない。
ただ、そういうことは千影の気にすることではない。面白いほど千影の話を飲み込んでいく迅雷を見ているのが嬉しくて、今日もその余韻で気分が良いのだ。
あれだけ分かればひとまず今日のテストくらいは十分に解けているはずだろう。
「とっしーには改めてありがとうって言わないとだなー」
「それはどうして?」
「ボクも戦ったりしないでも役に立てることがあるんだなって思えたんだもん」
たかだか勉強を教えただけかもしれないが、剣を握って敵を斬らなくても、実験台に乗せられなくても、なにか出来ることが自分にあることが新鮮だった。まだ気付いていない自分の価値を教えてくれる迅雷が千影にはとても尊いように思えた。
だから、千影もそうあれたら良いなと望むのだ。自分にはなにもないと言う迅雷を千影は受け入れない。
「ホントに迅雷のことが大好きなのねー」
「・・・そう、なのかもしれないね」
「これはお父さんにも報告してあげないと」
「そうだね―――って、あれ?」
不意な真名の感想に千影は違和感を覚えて顔を上げた。ちょっと勉強を教えてあげた程度の話で随分と大袈裟である。
「いちいち報告するようなことだった?」
「そりゃそーよ、迅雷と千影がいよいよオトナな関係になっちゃったんだから」
「いや待って、話がおかしいんだけど!?」
「え、違うの?」
ここで千影は誤解に気が付いた。真名の一言目がやけに落ち着いていたから、千影はてっきり真名もノリが良いので冗談で言っているのだろうと思っていた。だから千影はそのノリのままでいくことにしたのに、どうやら違ったらしい。
真名は初めっから、つまり「お楽しみ」の時点で千影と別のルートを辿っていた。
というか、なんで息子の不祥事に対して一切驚かないのだ?小学生女児とやらかす高校生の息子などと言えば99パーセントの母親ならショックで卒倒するだろう。それともまさか、迅雷ならいつかやらかすかもしれないと思っていたのだろうか?
「ボクは昨日とっしーに勉強を教えてあげた話をしたつもりなんだけど」
「えっ」
「いやだから、物理を教えてたの」
ポカンとする真名に千影はジト目をした。ややあって真名は軽くあしらうように笑い始めた。
「やだなー。変な言い方するから誤解しちゃったじゃなーい」
「誤解するならもうちょっと驚こうよママさん!?」
「えー、だってあの子ならやらかすかなーって」
「とっしーの信用度が低い!?」
親の性格がこんなだから―――と、親というのがなんたるかをよく知るわけでもない千影は知ったつもりで呆れてみせた。さすがに真名の反応の薄さは千影でも驚いて仰け反るレベルだった。