episode4 sect60 ”叶う夢、叶わない夢”
迅雷に部屋の中に放り込まれたので千影はむくれてみせたのだが、結局彼にはドアを閉められてしまった。
仕方がないので千影はまたベッドに横になって、掛け布団の上を縦横無尽に転がる。千影の小さな体だと迅雷のベッドは意外に大きいから、思うままにリラックスすることが出来るらしい。
やらなければいけないこと。してあげたいこと。まだしていたいこと。子供の欲というのはいつだって頭の中いっぱいに詰まっている。千影だってまだ、夢見がちな女の子なのだ。
千影は枕に顔を埋め、小さく嘆息した。全部全部置き去りにして、のんびり屋の時間だけが次へ次へと駆け抜けていく。
寝返りを打って天井に手を伸ばす。眩しい照明に透かせば小さな手の中に流れる赤い血潮を見える。ここにいれば、千影は自分の血しか見ずに済む。
それだけは間違いない。でも、そうもいかない。
「ボクがやることなんて決まってるよね」
ふわりと笑って、千影は手を下ろした。
千影は欲張りだから、やりたいと思ったことだけをする。自分勝手でワガママばかりだ。
でも、もしもそのツケが回ってくるとすれば、それは真摯に受け止めるつもりだ。
さて、やることが決まったなら、今は千影も自由だ。この休息を逃せば次に休めるのはいつになるかも分からない―――なんて表現をすると死亡フラグっぽく聞こえるかもしれないが、別にそんなほどではないはずだ。
「ま、こっからは運次第かなー・・・・・・」
千影は呟く。でも、ネビアにしばしば妬まれる程度には千影も運には自信がある。だから、きっと次は上手くいく。
―――そしたら・・・それでも、それからもずっと、大好きなみんなといっしょにいられる?―――
ウトウトとして呟いていたのはまだ現実だったのか、それとももう夢の中だったのだろうか。
●
「おい千影、風呂空いたぞ・・・・・・って、寝ちまったのか」
なんだか晴れやかな寝顔だったので、とりあえず迅雷は涎を垂らす千影の表情を写真に収める。
布団も掛けずに小さく寝息を立てる千影をそっと抱き上げて、それから改めて寝かせ、今度こそちゃんと布団を掛けてやった。
「ったく、また涎垂らしやがって。暑くても布団かけずに寝たら風邪引いちゃうぞ・・・っと」
床に膝を立てて、枕元で迅雷は頬杖をついた。千影の前髪が目に掛かっていたので軽くかき分けてやっているとくすぐったそうにモゾモゾするので、驚いて手を引っ込めた。
起こしてしまったかとも思ったが、そんなことはなかったようなのでひと安心。長い溜息を吐いてから、迅雷は少し寂しそうに笑って、千影を見つめた。
「なあ、千影。いろいろあったよな―――」
いろいろあった。本当に、いろいろあった。
それでやっと、ここに落ち着いた。
愛らしい寝顔も、いじらしい笑顔も、恐くない怒り顔も、真剣な顔も、全部大切だ。いつまでだって尊いままのものだ。『守り』たいものだ。ガラス細工に触れるかのように、迅雷は千影の頭を撫でていた。
「ナオも母さんも、しーちゃんも真牙も、もちろんお前だって、みんなみんな大切なのは変わんないよ」
今だってみんなを『守り』たい気持ちに変わりはない。大切だと思う気持ちは曇らない。
ただ、それに必要な力も価値もないだけのことだ。
―――『守り』たくても、『守れ』ない。ならもう、いいじゃないか。それらを大切だと思っているだけで本当は十分だったんだ。だからもう、身に余る夢なんて追いかけなくていいんだ。
「さて、明日の荷物も準備しないとな」
理不尽なスケジュールだが、迅雷は学校を絶対サボらない勤勉な学生だ。
なんとなくカレンダーに目をやって、6月15日の日付の下に「衣替え移行期間」と書いてあったことに気付いた。
1つの大きな節目が終わって、早くも次の季節が来る。
「有意義な春だったよ。―――そんじゃ、夏服のズボン出しとかないとだな」
●
「さあ、男子諸君。朝早くからよくぞ集まってくれたな。ここに来た諸君であればもう知っているとは思うが、敢えて言わせてもらおう」
厳かな前置きの後に真牙が黒板に赤のチョークで大きく1つの単語を大々的に書き殴り、平手でバンと叩いた。
「―――今日は、衣替え、だっ!!」
『おぉ・・・!!』
「遂にこの日が来た。我々はこの日を待ちわびてきた。高校生になり、初の衣替えだ。白いワイシャツ、躍るスカートの丈はいつしか短くなり、そこかしこから覗く女の子の肌!そして柔肌を伝う一滴の汗の艶めかしさはこの世に存在するあらゆる美を覆し、我々思春期最盛期のただ中にある男子生徒の穢れ多き欲望を満たし、浄化するであろう!!」
『おぉぉぉぉ!!』
迅雷が寝るには遅く起きるには早い家での手持ち無沙汰を、ボンヤリ幼女の寝顔を眺めながら消費していたところ、そんな変態紳士のケータイにそれ以上の変態紳士から1件のメッセージが届いた。迅雷はそれに呼ばれるまま早朝の学校に来ている次第だ。
迅雷含めさっそく真っ白なワイシャツの第2ボタンを解放して爽やかになった男共を真牙が持ち前のリーダーシップ(?)でまとめ上げ、朝一番から教壇に立って熱弁を振るっている。
「驚くほどブレないのな、真牙は」
「そう、オレはブレないぞ!ブレッブレのお前と違ってな!大会明け?寝不足?知らんな!今のオレはまだ見ぬ女の子たちの夏服姿にくびったけだぜぇ!!」
むしろそれは疲れた上に寝不足なせいで深夜テンションを朝まで持ってきたのではないかとも思うが、多分というか間違いなくそういうヤツではない。だってこんなに平常運転なのだし。
「お前ら、目の準備は済んでるかぁ!」
『おーぅ!!』
「焼き付けるぞ!!」
『うおー!!』
真牙が拳を高く突き上げるので、迅雷も苦笑しつつみんなと一緒に「おー」と叫ぶ。かくいう迅雷だって夏服特有のエロスにはワクテカだ。
20人近い男子が一斉に大声を出すので、廊下を通る他の生徒や先生たちがギョッとして1年3組の教室を覗いていった。
「ところで真牙大先生、ずばり、今夏の目玉は誰になると予想してるんだ?」
「うん?お前、そりゃあ決まってんだろ。オレほどの男となると選べないくらいたくさん気になる子はいるから、結局全員平等に堪能するぞ。子供っぽい子から大人っぽい子まで、あるいは色白の子だろうと日焼けが素敵な子だろうと、もしくは黒髪清楚女子から金髪茶髪のヤンキー少女まで、オレはぺろぺろ舐め回すように上下左右前後360度全方位から観賞するぞ」
『うわぁ・・・』
「おい!聞いといて引くな!」
真牙の変態力には置いてけぼりの男子諸君がさすがにドン引きしている。階段下からスカートの中を覗こうとしたのがバレてハラパンされても喜べる真牙であれば本当に全方位観賞を実行しかねない。
「まぁ、それでも強いて1人選べって言うなら、そうだな。やっぱ一番の期待は我が1年3組が誇る最強ルックスの雪姫ちゃんだろうな。元々髪とか目の色が涼しげだから夏服も似合いそうだしな」
改まった真牙の言い分には、今度は同意出来るクラスメートたちが頷いている。まぁ、雪姫にはなにを着せても似合いそうなのだが。あんなに繊細に整った美貌と可憐さのバランスはそうそういない。
「まぁ、結局そこに帰着するよなぁ。―――でも、考えてみろ。あの雪姫ちゃんだぜ?人に肌見せたがらないんじゃないかと俺は予想してるんだけど」
迅雷の予想に、真牙だけでなく他全員がハッとして固まった。
「おっ、おおお、お前、みんなのテンション下げてんじゃねーぞ・・・?」
「いやでも、そうじゃね?」
冷や汗タラッタラな真牙に迅雷は真顔でトドメを刺した。現実論者は強い。
「よ、よーし!?んじゃ、賭けといこうか!今日雪姫ちゃんが夏服で来るか、来ないか。負けた方が昼飯奢りだかんな!」
急に勝負事を持ち出されて迅雷は一瞬どうしようか迷ったが、これくらいの賭けなら乗っても良いだろうと思って不敵に笑った。なんにせよ、迅雷は多分当たっている。
「いいぜ、乗った。俺が勝ったら真牙の財布をすっからかんにしてやんよ」
「ははは!お前がオレ様に勝てるわけがないだろう!諦めて先に食券買ってきてくれちゃっても良いんだぜ!」
「笑わせんな、俺の方が現実見てんだぞ?勝つのは俺だね」
「良い度胸だ!よーし、それじゃあここに『雪姫ちゃん今日は夏服かなぁ、違うかなぁ戦争』の開戦を宣言する!ノリの良い奴は財布の中身確かめてからオレか迅雷の陣営につけぃ!」
昨日までの全国大会で相当疲れているはずの2人のはしゃぎようがまるで中学生だとみんながからかう。
あと、真牙の宣戦布告には昼食代が懸かっている割に意外とほとんどの男子が乗っかった。ちなみに票数では期待を込めて真牙派が迅雷派より2、3人多かった。これは大戦争まっしぐらだ。
と、不意に誰かがこんなことを呟いた。
「あーあ、俺はネビアちゃんの夏服姿も早く見たかったんだけどなぁ・・・」
素朴な一言だったが、それを聞いた迅雷と真牙は少しの間口を動かすのを止めていた。
それはもう叶わない願いだ。早いも遅いもなく、ネビアがみんなの想像するような涼しげな格好で優雅に遅刻してくる日はきっと、もう来ないのだから。
「・・・そうだな、俺も見たかったな」
迅雷はそれだけ言って笑った。
けれど、迅雷のその顔見るとみんなが申し訳なさそうに目を逸らした。それもそのはずだろうか。ネビアと一番親しくしていたのは他でもない迅雷だったのだから。あれだけ仲の良かったネビアが大怪我をして入院することになり、それを1人置いて帰ってきた迅雷の気持ちは想像するのも辛いものがある。
愛嬌があって人当たりも良いのに、いつしか関心とは裏腹に近付くことになぜか根拠のない怖さを感じていたネビアと、本当に友好的だったのは迅雷だけだった。それは多分、彼本人以外の誰もが知っている。
その迅雷があんなに無理をして笑っているのに、誰が不用意にネビアの話題を出せただろうか。
途端に静かになってしまった教室は、20人も人がいて、全員が独りぼっちでいるような気まずさに支配されかける。
だから、みんなの考えていることを分かった上で真牙は話の流れに続いた。
「けどまあ、ネビアちゃんとだって退院したら会えるんだしさ。な?希望はまだなくなってなんていないぜ。ちょっと待てばすぐにネビアちゃんの夏服も拝めるよ」
「ま、そうだな。真牙の言う通りだよな。気長に待ってようぜ」
真牙は今の言葉をどんな気持ちで言ったのだろうか。優しさだろうか、それとも皮肉のつもりだろうか。本当はそんな日なんてこないことを知っているくせに、真牙は丁寧に空気を読んでいた。
肌に針でも当てられるような気がしながら、迅雷は表面ばかりの気のない返事をするしか選択肢がなかった。
変態力ぅ、ですかね・・・。