episode4 sect48 ”非存在”
真牙から視線を逸らし、卑屈に口元を綻ばせる迅雷は、そもそも一体誰に慰みを求められたのだろうか。もがくだけ愚かしく、手を伸ばした全てがその途端に朽ちていくかのようだった。
自分にはそんな価値などないと、迅雷は本当はそれなりに前から分かっていた。
それを認められる日がやっと来ただけだろう。幾度となくその機会を他者の介入によって逃してきたが、今日ようやく「そんな大仰なこと」を無理だったのだと諦める機会を掴み取ることが出来た。
迅雷が千影が家にやって来たあの日にあの夢を見たのは、きっとそういう意味で、予兆だったのだろう。
買い被られて、頑張ってそれに適おうとしたが、元より迅雷は強くなんてない。
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『し、勝者、オラーニア学園、七種薫選手!』
指先が触れたその感触を迅雷は拒絶した。
もう十分理解したからだ。迅雷は自分が思っていたよりずっとずっと―――ずっと、弱かった。
この試合で迅雷は何回負けただろうか。迅雷が誇る強さの最高点だったはずの二刀流は薫の二刀流に何度砕かれたのか。
本気で戦った。
その結果はそこら中に散らばった金属片だ。
絶望と希望。悲しみと苦しみ。抵抗と妄執。怒りと喜び。秤に収まりきらない混沌とした心を乗せた現実への挑戦は悉く壊れて潰えた。
迅雷の背後にも正面にも、夢の残骸があった。
証明は終わった。それは真にして偽。
みんなを『守る』のはただの理想論。
そんな力はない。期待されるほどの価値はなかった。
だからもう、迅雷には『雷神』の柄に手をかける理由も権利もない。
もう?もはや?とうに?―――いいや、初めから。
「『守れ』ない。なにも、俺には『守れ』ない」
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「ああそうだな!!やっと分かったのかよこのウスノロが!お前は弱いよな!ケンカでオレにも勝てねぇくせにおこがましいんだよ!!」
真牙に胸ぐらを掴み上げられたまま、迅雷は開いた窓枠から押し出され、建物から半身をはみ出した。
益体の無さを曝け出す迅雷に向けて真牙は吹っ切れたように、滔々と罵りを羅列する。
迅雷は、雨が顔を打つのは、気にならなかった。
「そうだよ。期待してくれんなよ」
「ならさぁっ!まだ唯さんとの約束覚えてんだろ!?会ったことねえオレが知ったようなこと言えた義理じゃねぇけどさぁ!約束、まだ本当は追いかけたいんだろ!?みんなを守りたいって、まだ強がって言い張って頑張ってみたいんだろ、本当はッ!!」
「やめろよ、外の人がビックリするから」
「うるせえ、答えろカス!どうなんだってんだ!」
真牙に押されるがまま、地上8階の窓枠の外に迅雷は胸の辺りまで身を乗り出した。低気圧が吐き出す冷たく強い風が濡れた感触を伴って濡らしていく。
「はぁ・・・。やれるんならそうしたいさ。『守れ』るんなら『守り』たい。『約束』だって覚えてんだろな、俺。死ぬまでずっと」
「じゃあちっとは頑張ってみせろよ・・・!そりゃ目の前で何人も死んだらPTSDもんだよショックだよ落ち込むよ。オレだって恐いわ。・・・でも、なら、今度また同じような場面があって、お前はそのとき全員見殺しにすんのかよ!?守ってみせろよ!守りたいんなら出来るようになるまで頑張ってみりゃあ良いだけじゃねえのかよ!!」
真剣で本気で真摯に語ったのに、真牙の言葉は迅雷に鼻で笑われた。
どんな情熱も夢も希望も、現実や真実と食い違う限り意味なんてない。
「抜かせよ。人に力には限界がある。誰だって知ってる。俺は人ひとり『守れ』るだけの価値もねぇってのにか。努力くらいしたさ。昔っから。でも出来ない」
「そんなのは今日まで重ねてきた努力だけじゃ足りなかっただけだろ」
「そうか?俺、人間の能力なんてRPGのキャラみたいなもんだと思うけど。ゲームのキャラは例え主人公でも覚えられる魔法や技なんてもんは始める前からこれとこれって決まってて、一定の努力をすりゃあ覚える分は覚えられる。けど、いくら努力したって初めから覚えないものは覚えないだろ。チートでもしないかぎりさ」
頭から胸までを雨に晒し、濡れたシミは迅雷の体を少しずつ冒していく。真っ暗で朦朧とした夜闇と雨飛沫のその中に迅雷が溶け込んでいく。
「それでもいいだろ。お前はもうレベルがカンストしちまってんのか?違うだろ」
「ああ。でもなんとなく分かるだろ?このキャラはこういう能力なんだって、ここぐらいまでいくんじゃないかって、少し育ててみたらさ。つか俺は今日答えを見つけてるしな」
「チッ!いい加減にしろよ、無駄に考え込んだ屁理屈並べやがって!馬鹿じゃねえのか!?」
「だからバカだとも。アホかお前」
こうまでひねくれた人間の考え方は手に負えない。ああ言えばこう言う―――凄まじいものだ。
なんて完成された歪な理論なのだろう。本当に今日一日だけで導き出したものではないのかもしれない。発芽に辿り着くきっかけがたまたま今日あっただけで、初めからその種は植わっていた。
「今日、俺は自分の限界を見た。あと何十年馬鹿正直に努力したって手が届かない強さを見て、なんとか無事に収めた努力もまばたきをする間になかったことにされて、信じた人たちに裏切られ、なんも分かんなくなって、じゃあせめて自分の価値は、なにかひとつくらいないかって思ったのに、手が届くはずの相手にすら全く敵わなかったんだぜ?もうダメだろ」
「・・・もうダメならそこでやめんのか」
「ああ、そうだよ。やるだけくだんねぇ」
真牙の目が矢を引き絞るようにギリギリと細められていく。迅雷の目が雲に隠れるようにゆったりと細められていく。可能性と否定が交錯し、静寂の炎が生まれる。決して熱を持たず、陽炎だけを残して揺れる炎。淀んだ感情のパス。
「次に死ぬのは直華ちゃんかもな。慈音ちゃんかもしんないし、千影ちゃんかもな」
言っていることが脅しのようで、真牙は自分にゾッとした。迅雷を掴み、締め上げるその手は恐怖に震えていた。
「もしかすっとオレが死ぬかもだしな。で、お前はそのときになって少しでも守れるように努力しなかったことを悔やむんだよ」
「それはないな」
「・・・あ?」
「そんなときが来るなら、どうせ俺もあっさり死んでやるさ」
「なら今死ね!!!!」
気付けば真牙は片手で迅雷を外に追い出す。もう彼の体は腰まで吹きさらしの外に飛び出している。
もしも―――真牙がフッと手を放したなら、きっとそのまま迅雷は落ちていくだろう。もう真っ暗でなにも見えない生の底に終着する。
でも、それは―――それでは、意味なんてない。それこそきっと、なるようになったことに、なってしまうのかもしれない。そんなことが許せるはずなんてなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
「なんだよ、手、放さないのか?」
「放して良いのか?放して欲しいのか?」
「ああ。息が苦しいもんな。放せよ」
「そうかい」
真牙はそれだけ言って、迅雷を部屋の中に投げ飛ばした。こんなのは酷すぎる。あまりにも悲しくて表すだけの言葉もない。堪らない。
迅雷の体が壁に激突して大きな音がした。
真牙は窓を閉め、鍵もきっちりとかける。
「これもアリかなって・・・思ったんだけどなぁ・・・」
「いいや、ナシだね。簡単に楽になれると思うなよ。精々酸欠で苦しんどけよ、迅雷」
あんなにも真牙は本気だったのに、迅雷はまだ、だらしなく壁により掛かったままニヤニヤと頬を歪めていた。
そんな迅雷の横を通り過ぎて、真牙は部屋のドアノブに手をかけ、未練で後ろを振り返った。
他でもない阿本真牙の手で自らの命を投げ捨てようなんて、悪魔だって思いつかないような卑劣極まりない、残酷な許容だ。考えることさえありえないそれを迅雷は平然と受け入れようとしていた。彼に真牙がどれだけ辛かったか、分かっただろうか。
振り返る先でまた窓を開け放って身を乗り出すかもしれないその恐ろしさは、一晩で禿げ上がるほどに胸を重く圧迫する。
「オレ、今日は違う部屋に入れてもらうわ」
返事はなかった。
真牙はしばらくなにも見えない壁の角を見続けて、ドアを開けた。廊下に出たら、すぐにドアを閉める。
フラリと歩いて、階の共用トイレの個室に籠もって、噎び泣いた。どうしようもなく寂しくて、ひとしきりの嗚咽を喉の奥で殺す・
無力を嘆くことすら折れてしまった親友。間違っているのはどっちだ?迅雷がおかしいのか?実は真牙が違っているのか?なら真牙はどれだけ無意味な人間だった?親友だと思っていたあの少年を前に果てしなく突き放されて、そんな真牙は一体なんだ?
「それでも・・・・・・お前はオレには必要だろ・・・」
―――これまでみたいに、これからも努力しようよ。いつかきっと届くよ。初めはあんな弱かったのに、今日はもうオレより強かったじゃないか。悲しい答えで完結させないでよ。
押し殺す。
「ふざけんな。オレは強いよ。オレは」
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いやに静かだ。
昨日まではあんなにやかましいルームメイトがいたのに、それがまるで嘘のように、静かだ。
ベッドの横になり、窓を開けて風を浴びていると、辛気臭い雨の匂いが鼻をつく。雪姫は手持ち無沙汰なまま部屋のテレビの電源を点けて、でもすぐに消した。
日本から飛び出して海外のなにだかの話までするくせに、今まさに盛りの『高総戦』の特集は綺麗なものだ。自分の試合の映像まで映るのだから腹立たしい。本当は拒否したかったが、それでは後で夏姫が文句を言う。
閑話休題。それで、問題はそこだ。誰それの素晴らしい活躍などと言うのは勝手だが、暢気なものだ。遂に『通り魔』に加えて行方不明者まで出たというのに、ニュースでは軽い注意の呼びかけすらないときている。
「なーんか、におうよね、これ」
誰にともなく呟き、雪姫は隣のベッドを見る。
綺麗にベッドメイキングも済まされ、今朝まで人が寝ていた痕跡すら感じられない。
それはまるで、ネビア・アネガメントという少女の存在そのものが初めからなかったんだよ、と嘯くかのようで、薄ら寒い。
本人の声で。あれは気のせい。幻だったのであって、決してそんな人物はいません―――と。
「フン。馬鹿じゃないの?」
ふとよぎる、手を伸ばした記憶。雪姫は理性的に対処する。肩を掴んでどうする。
むしろ周囲から誰もいなくなった方が良いと思っているのだから、ネビア1人の失踪にだって雪姫はなにも特別な感覚を抱きはしない。
窓を開けたまま寝ていると、幾分外の音があって存在感が安定する。そうなのだが、しかし今日は隣室がうるさい。
いつもの幼稚な口喧嘩とは色が違う。どこか虚ろな迅雷の声と、珍しく弱々しい真牙の声。
その一部始終を聞き、雪姫は部屋の窓を閉じた。
特別な感覚は抱かない。けれど、もしかしたら、と思うことがある。
少し早いけれど、雪姫は今日はもう寝ることにした。不意に疲れが出たから。