episode1 sect12 ”『ゲゲイ・ゼラ』”
雪姫は異変にいち早く気が付いた。周囲の見物人たちは今か今かと捕獲された怪物の登場への興味に身を任せているので深く考えていないようだし、ギルド職員もこれから扱うモンスターの危険度を分かっているからこそ、緊張でそれ以上のことに頭が回っていないように見える。
しかし、沸き上がる観衆の中で落ち着いていた彼女はこの小さな異変に、恐らく誰よりも敏感に気が付いた。
では一体なにが異常なのか。それは、
「遅い・・・」
そう、門が起動してから既に数分が経過している。普通なら、大型のモンスターを運搬しているとはいえ、もうこちらに出てきてもいいだけの時間が経過している。だが、未だに門の向こうから誰かが出てくる様子はない。やはり、このことに違和感を覚えている様子を見せる者は雪姫しかいないようだった。さらに少し経っていよいよ彼女がこの不自然さに疑念を強め始めたときだった。
遂に、そのときは、来た。
ズズ・・・という感じに、ゆっくりと、なにか黒く、硬質そうなものが門から頭を出した。高さ的には足場から6m近い高さであったので、まず例のモンスターの体の一部に違いなさそうだ。待ちくたびれかけていた観衆がいっそう騒々しくなり、それに比例するようにモンスターの巨体がゆっくりとベールを脱いでいく。
だがおかしい。人は、それを捕獲したという人はどうしたのだ?なぜ先に出てこない。まさか巨大なモンスターを載せた台車を押して出てきたりはしないはずだ。彼らは、どこへ消えたのだ?
その答えは待たずして得られた。
「た、退避してください!?ランク4未満の魔法士の方も下がって!とにかく退避して・・・」
門の近くで搬入の準備をし終えてその中を覗いていた職員が蒼白になった顔でそう叫んだ。しかし、彼が言葉を告げ終える前に門の中から黒が溢れ出し、その職員を飲み込んで、そして「渡し場」を一閃した。
●
「としくん、なんかモンスター全然来ないけど、なにかあったのかなー?どうしちゃったんだろうねー」
先ほどからいつまで待っても、どれだけ経っても、ちっともモンスターが運ばれてくる気配がない。慈音もさすがに退屈そうにしている。ただでさえ外に立たされているのだ。ここで待ちぼうけを食わされてはたまったものではなかった。
「お兄ちゃん、私ちょっと喉渇いちゃった。たしか『渡し場』棟の横に自動販売機あったよね。ジュース買ってきていいかな?」
直華も待つのに疲れてしまった様子である。異界転移門棟の後ろにいる彼女の視点から見てその建物の左側の角を曲がった先に自販機があったことを思いだして直華はそちらを指さしてそう言った。
「買いに行くのはいいけど見逃したらどうするんだよ。もったいなくないか?」
「大丈夫だって。すぐ戻るからー!」
迅雷の懸念を分かっている上で、直華は外に伸びた観客の列からは建物を挟んで正反対にある自動販売機へと駆け足で行ってしまった。本当にすぐ戻るつもりだったのか、結構な速さで走って行き、すぐに角を曲がって姿が見えなくなってしまった。
「やれやれ、これなら先に飲み物買っておけば良かっ・・・」
迅雷が小さく溜息をついて頭を掻きながら今更どうしようもないことを言ったそのときだった。
ドォン!!と、凄まじい爆発音が響いた。突然の破壊音を聞いて、集まっていた一般の見物客が一斉に悲鳴を上げた。迅雷はその音の方向を見て絶句した。炎の煙か、それともコンクリートが砕けて出た砂煙か、またはその両方なのか、爆発音のしたところからは灰色が濛々と空に向かって立ち上っている。そう、建物の向こう側から。直華の曲がったあの角の向こうから。
「・・・ナオっ!!?」
迅雷は反射的に飛び出していた。得体の知れない、しかしかつての記憶に染みついた恐怖が、心を締め上げ、体を突き動かす。迅雷は心臓がきりきりと悲鳴を上げるのを感じていた。それでも迅雷は痛む心臓も無視してただひたすらに直華の下へと走り出した。
「とっしー!」
「と、としくん!?」
千影と慈音が飛び出した迅雷の後を追って駆けだした。彼らの背後では悲鳴が悲鳴を連鎖的に生み出し、パニックに陥った人の群れが列を崩してとにかくこの場から離れようとごった返していた。
その場にいたライセンスを持つ魔法士すら巻き込んだ暴動にも近いパニックは、彼らとは逆の方向へと駆けだして行った数人の少年少女の影をあっさりとかき消した。そして誰も、彼らには気付かない。
●
建物の壁に大穴が開けられた。理論上では、ドラゴンクラスのモンスターの突進にも耐えられるとされていたギルドの建物の壁が。門の中から一筋の黒いビームのようなものが飛び出して来たかと思ったら、その「黒」は空間を直進して、そのまま建物の壁を貫通、破砕した。それによる大爆発の余波で広大な「渡し場」のフロア中には砂埃が立ち込めている。
「エホッ、ゴホッ!!な、なんだ今のは!?」
一瞬のうちに引き起こされた大破壊によって、立ちどころに悲鳴が充満していく。その中で煌熾は煙にむせながらも今の破壊攻撃の出所を見た。靄の中に、大きな・・・いや、巨大な影が映っていた。それを見た煌熾はすぐになにが起こったのかを察してしまった。嫌な汗が噴き出す。
「まさか・・・・・・ここで逃げられたのか!?『特定指定危険種』に!?」
最悪だ。本当に最悪だ。もしかするとこれより下はないかもしれないというほどに、最悪だ。それは単に『ゲゲイ・ゼラ』の拘束が解かれたことに対してだけではない。今、周りにはライセンスを持たない一般人の見物客もいるからだ。そんなところに『特定指定危険種』なんてものを放てば、なにが起こるのかなど明白だった。
煌熾はそんな状況だからこそ今一番すべきことをするために動き出した。それはライセンスを持つ者の義務。
「くそっ、本当に最悪だ!とりあえず周りにいる人から避難を・・・!」
しかし、最悪とは「最も悪い」ことを言う言葉である。誰がその「最悪」の下限など定義出来るのだろうか?どん底の下にはさらに深い底があった。
――――――煙に映る影が1つ増えた。そして、2つの咆哮が轟いた。
逡巡する一瞬の余裕すらなかった。煌熾は死に物狂いで、とにかく手の届く近くの人から避難誘導を始めた。ギルドの職員や他のライセンサーも彼同様に避難誘導を始めたが、パニックに陥った人間の集団の制御は困難を極めた。その恐怖に震える叫びに彼らの声はかき消されて届かないのだ。
1人逃がすのにも手間取っているうちに砂埃が晴れていく。煙の中からは今の破壊を引き起こした物々しい巨大生物が姿を現す。それは、黒かった。それは、大きかった。それは、禍々しかった。
黒く光沢があり、恐竜の頭蓋を思わせるような甲殻に包まれた頭部。その頭部の甲殻は鼻先と頭頂部が鋭く突き出して角のようだ。その目は頭部の大きさに不釣り合いなほど大きく、黒い眼球に黄色い虹彩がグロテスクに映えている。
6,7mほどの巨躯には灰色の短く逆立った体毛が生え揃い、喉元には髭のように見える、硬そうな白毛がたくわえられ、地面に付きそうなほど長く伸びている。
そのモンスターの2本の前足の先には赤い斑点の入った黒く鋭利な一本爪が鈍く光を照り返している。
加えて、後ろ足、と言えるのだろうか、アザラシやトドの持っているヒレのような器官が左右2対ずつあり、その部位で体を支えているようだ。
そして、最も特異だったのは、背中から生えた、妙な、蟹の鋏のようにも翼のようにも見える、甲殻に覆われた器官が生えていたことだ。しかし、その鋏の中には短いが、なにか管のようなものがあった。
「あれが・・・『ゲゲイ・ゼラ』・・・なのか?」
煌熾は靄の中から現れたあまりに奇怪な姿をした生物に戦慄を覚えた。爪の赤い斑点が返り血に見えて仕方がない。彼はその怪物の姿を見ただけで、今まで遭遇したどんなモンスターよりもそれが危険であることが分かった。いや、煌熾だけではない。それはこの場にいた魔法士の多くも同じことを考えていた。
それは、形ある死と直面する感覚だった。
●
黒い怪物、2体の『ゲゲイ・ゼラ』は逃げ惑う小さな人間などには目もくれずに2頭連なってゆっくりと、ギルドという見知らぬ場所を探索するかのように徘徊し始めた。しかしその擦るような一投足に床が重い振動を伝わらせ、そしてその振動は人の心を揺さぶった。『ゲゲイ・ゼラ』が進むと、水上を船が進むときのように人がそれを避けて波を作り出した。
まだ戦闘態勢に入らない敵を、しかしなおいっそう警戒しながら、「渡し場」にいたランク4以上の魔法士たちが団結し、ジリジリと敵との距離を詰めて包囲し始めた。ランク4以上、と言ったが恐らくこの中にはランク5以上の人はいないだろう。この時期はそういった高ランカーは学生でもない限りは忙しくなるのでこういった場にはなかなか来られないのだ。しかし、彼らはそれでも自分たちの責務を果たすべく、いやそれとはまた違うことを思っているのかもしれないが、自らを、そして他の魔法士の実力を信じ、この危機の排除に臨むのだ。そして、煌熾たちランク3以下の魔法士もまた、今はとにかく一般人の避難誘導と警護に当たる。出来ることはすべてしなければならない。
ここで、包囲されたことに気が付いたのか、1体の『ゲゲイ・ゼラ』がピクリと反応した。それと同時、魔法士の1人が叫んだ。
「今だ!一斉に攻撃しろぉ!」
返事の代わりに魔法士たちが一斉に魔法の詠唱を始めた。5色のエレメントが弾となり刃となり2つの巨躯を激しく襲った。その余波は再び砂埃を激しく立ち上らせた。
●
激しい攻撃が始まった。今が最大のチャンスだった。煌熾は力一杯叫ぶ。
「今です!早く逃げて!」
煌熾だけではない。他の魔法士全員がこの煙幕を利用して人々の避難を促進しようとした。その試みは成功だった。逃げる側の人々も今がチャンスだということは分かっていたから、想像以上に効率よく逃げることが出来たのだ。
しかし、避難も大詰め、最後の十数人程度を部屋の入り口まで誘導しようとしていたときだった。
怒り狂った咆哮のあと、堅い建材をめくり上げ、破壊する爆音と、苦痛に歪んだ絶叫が煙の向こうから轟いた。その衝撃に建物が揺れ、最後の要避難者であった彼らは足下をすくわれて転倒した。
煌熾は急いで一番近くの親子を抱き起こしにかかったが、爆風にかき消された煙の向こうからは怪物の異様に黒く爛々と輝く眼球がグルリと煌熾のいる方を見据えた。いや、それは正確には違う。今の一斉攻撃で重い傷を負った『ゲゲイ・ゼラ』は生存本能的に弱者の捕食へと行動を切り替えたのだろう。その巨大な視線は煌熾ではなく彼が抱き起こそうとしている親子に向けられている。
「・・・!大丈夫です!やつが来る前に逃げてください!早く、手を取って!」
助ける側が焦りや恐怖を見せてはいけない。煌熾は嫌な汗を噴き出させながらも力強く笑って彼らに手を差し伸べ、急いで起こそうとした。
が、彼は1つ重大な勘違いをしていた。誰があの怪物の運動が必ずしも重鈍であるなどと言ったか。
『ゲゲイ・ゼラ』が前屈みになって体を折り畳む。それに伴って赤い血が体の各所から噴き出すが意にも介さない様子である。そして、『ゲゲイ・ゼラ』はまるでバネのように猛烈な勢いを持って飛び出した。血濡れの黒爪を振り上げ、怪物は弱者を狙う。
弱肉強食は世界を越えようが変わらない。煌熾の目にはそれは無慈悲な死神にも見えた。
だが、彼とて学生であると同時に市民の安全を守ることを義務づけられたライセンサーなのだ。ここで終わるわけにはいかない。
「させるかぁぁぁっ!!」
2人を守るために煌熾は全魔力を腕に集中させた。爪を受け止めるために、それがだめならせめて軌道を逸らすだけでもするために彼は突進してくる『ゲゲイ・ゼラ』の前に立ち塞がる。恐怖すら吹き飛ばされて、そこに残るのは彼の信念のみ。
赤黒い爪の先端が目前に迫り。
そして、視界が純白に染まった。
●
―――――――――だが、彼は生きている。五体満足だ。そして彼の守ろうとした親子も。
煌熾はなにが起こったのか、思考が追いつかなかった。ただ、突然の幻想的なまでの純白に放心する。
「・・・・・・な、なにが・・・!?」
目の前には渦巻く「白」と、そして少女が一人。
どこまでも希薄で鮮烈な少女は、呆れたような、殺気立ったような、そんな声を出した。
「死ぬ気ですか?」
その一言で煌熾は現実に帰ってきた。この声の主は。
「天田・・・か?・・・どうしてだ!?」
煌熾は驚きと焦りで叫んだ。だが、それは後輩が観衆の中に混ざっていたことに驚いたのではない。確かにそれも意外ではあったが、そうじゃない。煌熾は続けて叫ぶ。
「なぜ、なぜ逃げていないんだ!!」
彼女は実力も高いし頭もキレる。だがライセンスを持っていない。最優先で逃がされるべき人間だったはずだ。
「死ぬ気か、だと?そんなわけないだろう!今のは助かった。だが天田、早く逃げろ、逃げてくれ!!」
より優れた芽を自らの前に立たせるわけにはいかない。ここで摘ませるようなことがあってはならない。煌熾は怒鳴った。後ろでは庇っていた子供が彼の気迫に怯んだのが分かったが気にしている場合ではない。
しかし、雪姫は彼の言葉を受け止めようとはしなかった。むしろ、蔑むような愉悦に浸るような、熱を捨ててぎらつく目を煌熾に向ける。
「なんでですか?せっかくこんなモンスターを殺すいい機会が来たっていうのに。なんで逃げなきゃいけないんですか?」
「・・・は?」
煌熾は耳を疑った。この少女は頭のねじが外れているんじゃないのか、とさえ思った。
確実に『ゲゲイ・ゼラ』の爪を押さえ込むだけでも雪姫はかなりの力を使っている。固く歯を食いしばっている様子からそれは明らかだった。しかし、彼女の口角は攻撃的につり上がっていた。強がりでも何でもなく、ただ攻撃的に。
「コイツはあたしが殺ります。だから早くその人たち逃がしちゃってください。巻き添え食いますよ」
「おい!」
煌熾は止めようとして叫ぶ。だが、雪姫は何度止められようが揺らがない。
「前にも言いましたよね。人死には嫌ですから」
ゴウ、と彼女が従えた粉雪の渦が勢いを強めた。
「待て!本気か!?」
煌熾が言い終わる前に、雪姫は爪を受け止めていた雪壁を流動させて爪の力の向きを逸らして『ゲゲイ・ゼラ』のバランスを崩させた。前のめりに倒れた『ゲゲイ・ゼラ』の体から生まれた風圧で煽られる。
「くそっ!でも今しかない・・・!」
煌熾は雪姫が作った隙を利用して親子を押し出すようにして「渡し場」の外へと逃がすことに成功した。これですべての一般人の避難が完了した。
そして彼は振り返る。彼女に加勢しなければならない。だが、恐らく2人でもあの化け物は倒しきれないだろう。早く増援を寄越してくれ、と心で叫ぶ。このままでは命の保証なんてない。
「それでも・・・!」
煌熾は雪姫の下へ走り出した。
雪姫が氷柱を『ゲゲイ・ゼラ』の顎に叩き込み、頭を跳ね上げた。視界の揺れた怪物の懐に煌熾が炎の勢いも利用した高速突進で飛び込み、渾身の一撃を叩き込む。
「『ヴォルケーノ・ブロウ』!!」
灼炎を渦巻かせた拳が深くめり込み、炎は『ゲゲイ・ゼラ』の体毛に引火する。
「おおォォォォォォァッ!!」
拳を振り抜き、6m超の巨体を、わずかながら後方に飛ばす。
煌熾の加勢は雪姫にとって想定外の事態だった。邪魔が入ったことへの苛立ちが募る。しかし一瞬で彼女は状況を飲み込んで利用する。
「・・・・・・手ェ出すなし。・・・でも」
敵の体が浮いたその刹那を逃さず彼女は掌の魔法陣から最大級の氷槍を生み出した。
「『アイシクル』」
燃え広がった炎さえ吹き消して雪姫の放った氷槍が『ゲゲイ・ゼラ』の腹のど真ん中に突き刺さった。血飛沫が霧のように吹き出す。
「ははっ、なによ、おんなじ赤い血なんかして!!あの黒いのにさえ気を付ければこんなもんか!」
雪姫は笑っていた。モンスターを嬲りながら愉快そうに。
煌熾は雪姫に続いて畳み掛けようとしたが、反射的に踏み止まった。直後、一切の容赦もなく鋭利な2本の氷槍が鼻先をヒュンと掠めていった。
『ゲゲイ・ゼラ』の両の腕が飛んだ。
煌熾はこの状況をついこの間も見ていた。
「まただ・・・!だめだ、落ち着け天田!」
煌熾は雪姫の肩を掴み、その動きを制止する。
「・・・・・・放してください」
澄ました顔をしてはいたが、こちらを睨んだ彼女の目は完全に瞳孔が開いていた。煌熾は彼女の肩を掴む力を強めた。このままあのときのように好き放題やらせれば煌熾だけでなく他の魔法士も、そしてなにより雪姫本人が危険だと判断したからだ。
だがそれが悪かった。深手を負った『ゲゲイ・ゼラ』は動きを鈍らせるどころか激昂した。口を大きく開き、それと連動するように背中から生えた1対の鋏状の器官も大きく開いた。口と鋏の中の管状の部位の3点を基点として黒いエネルギー体が口元に収束されていく。
●
裂けるほど口を開き、「黒」を収束させていく『ゲゲイ・ゼラ』を見ながら、しまったな、と煌熾は後悔した。どんなに危険だったとしても雪姫を止めるべきではなかったのかもしれない。一瞬の判断を、間違えた。
みるみるうちに「黒」は膨張しきり、はち切れんばかりばかりになる。
「・・・・・・ぁ!?」
怪物の咆哮と共にそれは放たれた。
彼らを助ける者はなかった。『ゲゲイ・ゼラ』を包囲して攻撃を仕掛けた十数人の高ランカー魔法士もみなこの「黒」を受けて倒れたのだ。彼らも回避なり防御なりをしたのだろうが、誰一人として動ける状態の者はいなかった。
それは視界の外へと光が押し出されるようだった。うねり狂う闇の奔流が無慈悲に迫る。本能的に分かっていた。あれが直撃すれば良くても致命傷は避けられない。
「くっそぉぉ!」
煌熾は雪姫の腕を強く掴み直して全力で跳んだ。こうなった責任は自分にあるのだから、それを清算するのも自分でなければならない。跳びながら煌熾は雪姫を出来るだけ遠くまで離すために彼女を腕を掴んだまま投げた。突然投げ飛ばされた雪姫もさすがにこればかりは驚いたような表情を見せる。煌熾にはそれが焦りにも見えた。怒りにも。
雪姫には逃がそうとして自分を投げ飛ばした先輩を黒い破壊線が飲み込もうとするのが見えていた。頭の中を嫌なものが駆け抜けるのを感じた。嫌な、嫌で嫌で嫌な、嫌な感覚が。
「ふ、ざけんな!」
彼女は叫びながら、不安定な態勢のまま右腕を煌熾に向かって思い切り突き出して、拳を固く握りしめた。雪白が彼女の命令に従い、凄まじい速さで雪姫の横を飛び抜ける。
「白」は渦を巻き、「黒」より早く煌熾を複雑な渦の球の中に包み込んだ。そして。
「黒」が「白」を飲み込んだ。
壮絶な破壊音が響く。余波を受けて床のタイルが砕け、破片が弾け飛ぶ。
タイルの破片が頬を掠め、浅く切れたのを感じながら、雪姫は握ったままの拳をを力一杯引き戻した。
雪姫の支配する粉雪に球が半壊しながらもその中身を包んだまま「黒」の中から姿を現した。直後、再び建物の壁にまた大穴が開いた。その爆風だけで雪姫も煌熾も数mは飛ばされた。だが、2人とも、生きている。
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「・・・すまない。本当に、俺の責任だ・・・」
煌熾は沈んだ声でそう言った。粉雪の球から無事に放り出された煌熾はしかし全身の至る所が切れていて、痛々しい姿だった。足を引っ張り、せめてそのせいで晒される危険からは逃がそうとした少女に逆に救われた。そのことが既に煌熾の罪悪感を飽和させていた。
どこまでも痛々しい煌熾に、雪姫は慰めなど言わない。話しかけもしない。
「・・・情けない・・・全然足りてないっ・・・!・・・っ」
激しく髪を掻き毟り歯軋りをする。彼女には分かっていた。もし煌熾が手を出してこなくても『ゲゲイ・ゼラ』はあの「黒」を撃っていただろう、と。それは奇くしくも煌熾が後悔している彼の行動に攻撃から意識が離れたおかげであった。逸れた意識がすんでの所で反応して直撃を免れることが出来たのだ。悔しかった。雪姫1人ではこの傷を負った怪物1匹すら殺しきれなかった。それどころか本当に死人が出るところだった。
学生2人が、自らの至らなさに気を落としているそのときだった。
ザリ・・・と、瓦礫を踏み砕く音がした。そう。まだ、危機は終わってなどいない。
「しっかりしろ!まだ敵は倒していないんだぞ!!」
怒鳴り声が響いた。それは倒れていたランク4の魔法士の声だった。その声に触発されたように、先ほどまで倒れていた辛うじて意識のあった魔法士たちがふらつき蹌踉めきながらも立ち上がった。より若い世代の魔法士が死に瀕するほどの危機にあって自分たちだけが寝ているわけにはいかなかった。
しかし、彼らもまた雪姫と煌熾が相対しているのとは別の『ゲゲイ・ゼラ』に対処せねばならなかった。注意を促すだけでろくに手も貸してやれない自分たちが情けなく感じたが、どうにもならない。あとはあの2人を信じてやるしかなかった。
怒声を受け、煌熾は顔を上げた。
「そうだ、まだ、終わってない・・・!天田、すまない・・・力を貸してくれ!」
もう煌熾には、雪姫に逃げてくれなどと言うつもりもなかった。完全に彼女の方が自分よりも実力が上だと分かった。なら、後で後悔することになっても雪姫の力も頼るしかない。
雪姫もまた唇を噛んだまま敵を見据えた。周囲の空気が凍てつく。しかし。
「・・・1人でいい。もう手は出さないでください」
「な・・・!?くっ・・・」
もはや煌熾には彼女に言い返す言葉もなかった。雪姫が渦を巻く大量の粉雪を引き連れて歩み出た。
「先輩、さっきは・・・・・・助かりました。でももう休んでてください。そんな体じゃ役にも立たないでしょう」
予想していなかった雪姫の言葉に煌熾は一瞬なにを言われたのか理解できなかった。その煌熾を置いて雪姫は『ゲゲイ・ゼラ』に向かって走り出した。雪姫は今度こそ敵の行動を一切見逃さないように鋭く目を凝らす。
「敵は満身創痍、腕もない。あの攻撃も連射は出来ない。今度こそ、殺す。・・・『フリーズ』」
無防備に突っ込んでくる(ように見える)雪姫を見据え攻撃の姿勢に入った『ゲゲイ・ゼラ』の下半身が床から生えた氷の中に閉じ込められた。急激に体を縫い止められた『ゲゲイ・ゼラ』は腕をなくしバランスの取れなくなっていたことにより、慣性で大きく巨体を揺らし、致命的なまでの隙を生み出した。
その隙に雪姫は怪物の懐に潜り込み、渾身の魔力を込めて無数の中型魔法陣を展開した。
「『雪月花』・・・!」
無数の氷の槍から成る菊の花は『ゲゲイ・ゼラ』の腹を貫き、引き裂き、破壊した。
怪物の短い断末魔は雪姫が氷を砕く音にかき消され、その体も黒い粒子となって空気にかき消えていった。
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直華は自動販売機に到着する寸前、頭上で起こった爆発音に反射的に反応して足を止めた。そのすぐ後、地上10mほどの高さから大小さまざまなコンクリートの塊が降り注ぎ、今まさに使おうとしていた自動販売機を叩きつけ、破壊する光景を目の当たりにした。
「な、なに・・・!?」
数秒違えば自分もあの自動販売機だった何かと同じように元がなんだったのかも分からない物にされていたかもしれないと思い、戦慄した。濛々と立ち込める砂煙を前に直華は立ち尽くす。
「・・・!・・・オ!ナオッ!大丈夫か!?」
後方から直華は自分の名前を呼ぶ声が走ってくるのを聞いた。その声を聞いた瞬間、恐怖に硬直した心が緩んでいくのを感じた。
「お兄ちゃん、ここだよ!大丈夫!」
直華は声の方に手を振った。迅雷が真っ青になって駆けつけて来てくれた。そして、彼に続いて千影が、少し遅れて慈音も来てくれた。直華は安心したように笑い、無事を知らせる。
直華の無事を確認して安心した迅雷は彼女を強く抱きしめた。
「良かった・・・!心配したぞ、本当に!」
「お、お兄ちゃん・・・ありがとうね。でもほら、私は大丈夫だよ!」
ひとしきり妹を抱きしめて安堵し終えた迅雷は彼女を放し、それから表情を引き締めた。
「よし、とにかくここは危ないから一旦離れよう!」
しかし、迅雷が直華の手を引いて走り出そうとしたときだった。それこそ、最悪。二度目の爆発が起きた。上からは爆発音に混じって阿鼻叫喚も聞こえてきた。
迅雷たちに再び瓦礫の雨が降りかかる。
元話 episode1 sect34 ”『ゲゲイ・ゼラ』” (2016/6/26)
episode1 sect35 ”be Berserk for ・・・” (2016/6/28)
episode1 sect36 ”九死一生” (2016/6/29)