episode4 sect46 ”全損”
「よう、迅雷。さすがに腹くらい減っただろ?気の利くオレ様が弁当買ってきてやったぜ」
「うん?ああ、サンキューな。まぁ・・・確かに腹は減ってる気もするけど、悪い真牙、俺まだちょっと食欲なくてさ。後で食べるから机にでも置いといてくれると嬉しいや」
夕食を他の同級生たちと一緒に食べてからホテルの部屋に戻ってきた真牙に、迅雷は笑ってそう返した。妙にスッキリした顔で笑っている迅雷を見て、真牙は口をへの字に曲げる。
「へいへい。消費期限は明日の朝6時だからな。んじゃオレ、シャワー浴びてくる」
「あぁ。ごゆっくりどうぞー」
ベッドに腰掛けたまま爽やかにニコニコし続ける迅雷。先ほどはスッキリと表現したのだったか。これは言うなれば憑き物がひとつ落ちた、といった感じか。そんな風に見えることだろう。
どこか虚無的にも映るが、しかしながら迅雷の精神も表情も行動も、全てが至って平常で安定しているのだからなんとも言えない。水を打ったような静けさを湛えて彼はそこに座っているだけだ。
決して迅雷には異常性も問題性も見当たらない。―――さっきまではあんなにも苦しそうな顔をしていたのに。
なんだか腑に落ちないものを感じながら真牙はひとりバスルームに入り、カーテンを閉め、シャワーの蛇口を捻った。
「ぅあっつ!ぐわぁぁ、しくったァ!!」
ボーッとしていてついついいつもの勢いで捻ってしまったものだから、突然流れ出した熱湯を浴びた真牙は飛び跳ねて頭を振った。ここのシャワーはよくある温水と冷水の量を調整しないと水温が調整できないタイプのものだったので、あと3秒浴びていたら頭皮が丸焼けになってつんつるてんになるところだった。
今度こそ真牙は迷いなく2つの蛇口を回して、一発で適温のお湯を作り出す。
じんじんする頭に心地よい温かさのお湯を浴びながら、真牙は明日のことを考える。真牙の試合は朝一番だ。しかも相手はオラーニア学園の生徒であるからして苦戦は必至だろう。
事前にその選手の試合を確認した分には白色魔力のオールラウンダーで、遠距離・中距離攻撃もバランス良くこなす人物であった。なにかひとつ、特別目立ったスキルがあるわけではない。しかし、その立ち回りはいやらしい。
イメージ的には、戦闘スタイルが五味涼とよく似ていると言うべきだ。そこで違う点があるとすれば、今回の相手は涼よりもさらに使える魔法が多彩だというところだ。練度も侮れない。
様々な魔法を様々な形で運用することで巧妙に流れをコントロールしてくることだろう。
そうなれば真牙も盤面コントロール重視型の選手だから、そこはかとなく殺伐とした試合展開は予約済みかもしれない。
「けども、まあ、負けらんないからな」
逆立ちしても勝てない相手なら迷わず諦めるが、今回は勝ちの目がある。
真牙はただ単に「負けない」ことを重んじているのでそういう発想になるのだが、それでも勝てるのなら勝って負けない方を選ぶ。
なにせ負けるのは、負けることだけは、悔しい。誰だって・・・とまでは言わないが、多くの人はそう思うだろう。負けた後になんの陰りも見せずにニコニコするのは、変なヤツが取る態度である。
負けたらもう取り返しがつかないというのに。
真牙は苛立った溜息を吐いて、壁を殴った。
風呂から上がって寝間着代わりのジャージに身を包み、真牙は未だに弁当に手を着けないで明後日の方を見ている迅雷の前に仁王立ちした。
「おい、迅雷」
「なんだよ、急に改まって」
キョトンととぼけた顔で見上げてくる迅雷に真牙は歯噛みをした。これが自分の心に決めたライバルだと思うには、どうしても悔しかった。自分まで負けた気分なのに、迅雷はこんな腑抜け面だ。やりきれなさすぎる。
「お前、今日負けたぞ」
「ああ、そうだな」
「負けたんだぞ?」
「だから、そうだな」
「しかも、迅雷お得意の二刀流でだぞ?」
「そうだなってば」
「あんな調子乗ったヤツにだぞ?」
「そうだな。負けちまったよな」
「・・・・・・」
真牙は開いた口が塞がらなかった。目の前にいる少年は神代迅雷本人なのか、本気で疑った。
神代迅雷というのは、中学校から剣道を始めたばかりの初心者だったくせに阿本流の《神童》とさえ祭り上げられる阿本真牙に負ける度に意地を張り続けていつの間にか見違えるほど力をつけて、高校に入ってもネビア・アネガメントに価値を譲られて面白くないと憤ったり、真牙との接戦の末に負けて泣いた少年の名前だ。
ならば、今真牙の顔を見て穏やかな顔をしているこれは一体どこの誰なのか。真牙は頬を引きつらせた。
「なぁ・・・悔しく、ないのかよ?」
「なにがさ。分かんねえよ」
迅雷の表情はまるでそれ以外の形を忘れてしまったように笑顔のまま。変なことを尋ねられ、返答に困ったように口元を綻ばせる。
「・・・・・・っ!?あのなぁ、迅雷」
なにかが変だということくらい、真牙も初めから分かっていた。だって真牙は、ネビアを連れずにかえって来た迅雷のあの死んだような目を覚えているのだ。あれもあれで異常だった。けれど、今はもっと異常なのだ。異常でなく見えている時点で、果てしなく異常だ。
迅雷の瞳には光がある。今まで真牙が見たことのない光が。
薄っぺらなステッカーを目玉の表面に貼り付けただけの中身がなくて薄ら寒い輝きだ。
そもそも―――大前提の話に戻ろう。
そもそも、なぜ迅雷は七種薫との試合に敗北したのだ?狂ったように無数の剣を振り回し、鬼神の如き猛攻で圧勝していたはずなのに、彼はどうして負けるのだ?なにもかもが異常としか言いようがなかった。
勝利を目前にして彼は無傷の体を硬直させた。なぜ?どうしてそんなことをした?
迅雷は最後に手を伸ばし、しかしその手に握らなかったものはなにか。
「お前、なんで最後手を止めたんだ?」
「なんでって・・・さぁな。変に勘繰るなよ」
ハァ、と息を吐いて俯く迅雷に、けれど真牙は怒鳴る気になれずにいた。仕方なく、迅雷と視線を合わせるために真牙はしゃがんで迅雷の顔を見上げた。
2人の並びは、もしかしたら兄弟かなにかにでも見えただろうか。虚勢を張っているはずの弟を、兄が怒るに怒れず諭す。そんな感じ。
「じゃあさ。なんでお前、『雷神』を使わなかったんだ?」
「だから勘繰るなって言ってるだろ・・・」
ようやく不機嫌そうに迅雷は眉を寄せるのだが、未だにそこには悔しさもなにも存在しない。笑っているのと、これではなにも変わらない。
真牙に真剣な眼差しで見つめられ、数十秒もしてから迅雷は観念したように頭を掻いた。
「―――っはぁ・・・。分かったよ。白状するよ。・・・アレだ。学内戦で真牙と戦ったときに分かってさ。二刀流やるときは左右の剣のバランスが大事なんだよ。『雷神』と『インプレッサ』じゃバランスが悪くてどうしようもなかったのさ」
「そうか」
「そうそう」
「でも、トドメのときくらい使えば良かったんじゃないのか?」
「・・・・・・」
歯軋りが聞こえた。そのことに真牙はある種の安堵と微かな手応えと、明確な不安を覚えた。けれど、これではまた元に戻ってしまうだけ。
試合が終わったあの後から一切表出していない迅雷が、今やっと顔を覗かせたのだ。傷を抉ってでもこのまま彼の感情を引きずり出さなければいけない。そう真牙は直感していた。
「ほれ、反論できんなら言ってみろよ」
「うっせえよ。適当に想像しとけ」
「やだね。で、なんであのとき『雷神』引っ張り出さなかったんだ?使ってたら100パー勝ってたのに、なんでお前はそうしなかったんだ?」
「うるせえって言ってんだろうが。しつこいぞお前」
「はいはい、どうせオレはウザい人だよ。で、なんでさ。あれはお前、わざと負けたようなもんだぞ」
前はされて怒ったそれを迅雷は自分からしていた。
それでよくもこうまで、ヘラヘラとする。
でも、迅雷は舌打ちを返した。
「そんなわけがない。誰がわざと負けるかよ」
「じゃあなんでだよ。言ってみやが―――」
「俺だって勝ちたかったよ。勝ちたかったけどさ―――本当はそうじゃなかったって分かったんだ。証明したかったけど、それは価値じゃなくて無価値を、俺自身に証明して叩きつけたかったんだよ」
「・・・ん?」
声を荒げるでもなくゆっくりと口を開く迅雷から、突然、意味の分からない台詞が飛び出した。今まで空虚だった迅雷の声が色を帯びる。けれどそれは黒より酷い色だ。彼の口から不意に溢れ出たのは、汚泥のような自嘲だった。
そこには一切の悔いの色はない。ひとつの区切りをつけることが叶ったようにがらんどうな声のくぐもりがあるだけで、迅雷は自らの敗北にはすんなりと馴染んでいた。
「よく意味が分っかんねえんだけど・・・その辺追加説明は?」
「ああ、分かんないよな。俺もよく分かんなくなってた。なにがなんで、結局自分はなにをするべきだったのか・・・って」
こんなに卑屈な物言いをしているのに、どうして迅雷はこんなにもスラスラと話すのだろうか。吹っ切れすぎている。
開き直ったというよりは、ようやっと定められた結果に落ち着いたようだ。
「なぁ、真牙」
「・・・・・・なに?」
「お前、なんで『雷神』使わなかったんだって言ったよな」
「ああ、言ったよ」
わずかな時間が空白に使われて、奇妙な緊張が2人の間に生まれた。
それを破って、迅雷はもう一度話し出した。それにどれだけの意志が込められていたのだろうか。真牙にも推し量れない現実の重みが迅雷の声には乗っていた。
「本当はさ、無くしたんだ」
迅雷は悲しげに自らの右手を眺め、握って、開いた。あの一瞬で全てが決定したから。
「無くしたって・・・そんなの『召喚』すりゃあ―――」
「違うんだ。違うんだよ、真牙。・・・そうじゃないんだよ」
薫に刃を突き立てられたあの時、確かに迅雷の指先は『雷神』に触れた後だった。
だから、そうではなく、迅雷が本当に無くしたものは―――。
「理由なんだ」
「理由?」
「無くしたんだ。あの剣を振る理由も、握るだけの資格も、価値も意味も俺はもう無くしたんだ」
本当は初めからそんなもんなんて無かったのだけれど、それは今はどうでも良いことだった。