episode4 sect39 ”偽りのネビア”
血塗れの、初めは白かった学園のユニフォーム。出会った頃のように乱れた深青色の髪。光を失った鈍色の瞳。たゆたうような妖しい微笑。
見間違うはずもない。探し人その人が、そこにはいた。それなのに、迅雷は自らの目を疑い、あまつさえ安易な思考に逃げ出したいほどだった。直前まで感じていたはずの正義は恐怖に上塗りされ、ただの偽善で終わってしまう。
頬についた血を舌で舐め取り、彼女は迅雷に向き合う。
「なんでこんなことになっちゃったのかなぁ、カシラ。バイバイって言ったのに、カシラ」
「ネビア・・・なんだよな・・・・・・?」
「そうよ?他の誰に見える?カシラ」
血溜りに佇む少女は疲れたように、呆れたように、ニヤニヤと嗤う。
自分がネビア・アネガメント本人であると明言した彼女の口からは、くちゃくちゃとなにかを咀嚼する音がしたが、すぐにそれは喉を通って胃袋の中へと落ちていった。
少女は手に持っていたものを背後へ放り捨てた。すぐに粘着質な落着音が廊下に木霊する。
少女は自分からはなにも言わない。迅雷がなにを言うのか、ずっと待っている。迅雷の心情としてはそれが堪らなく怖かった。
知りたくない。分かりたくない。聞きたくなんてないのだ。本当は。
それなのに、ネビアは迅雷の言葉を待っている。血の臭いに吐き気を催すことも、この催促の前では忘れてしまっていた。早く尋ねろ、と圧力がかかる。
呻くように喉の腔を押し広げ、迅雷は声を振り絞った。間違いなく一縷しか残っていない最後の希望を次の一言に託して、決定的な質問を投げかけた。それはどれほど勇気の要る決断だっただろうか。いつもなら凡庸な言葉でも、今だけは意味が違う。
「なぁ、ネビア」
「なあに?カシラ」
「―――お前、ここで、なにしてたんだ?」
そんな迅雷の決死の質問を受けたにも関わらず、ネビアはキョトンとするのだった。あまりにも場違いで毒気の抜かれるような表情は、すぐにまた胡散臭い微笑で上から塗り潰された。
「この人たちに襲われてここに逃げ込んで来たの―――なんて言ったら、信じてくれる?カシラ」
「・・・・・・」
どんなに信じたくたって無理な話だった。誰が人間の指を喰って人間の腕をゴミのように投げ捨てた少女を、それでも被害者であるなどと錯覚出来ようか。なにが血の海に平然と立って笑っていられる少女を保護すべき対象だと認識させうるのか。
信じたかった。迅雷だって出来ることなら彼女の妄言も、やむを得ない事情があったのだとこじつけて真実だと思いたかった。今だって、人を殺めた友人をそれでも憎めない自分がいるのを迅雷は自覚している。
けれど、現実は鮮血よりも鮮烈だった。なにも彼女を擁護するものはない。
迅雷は今にも泣きそうな顔で、首を横に振った。
「そう。それでいいのよ、カシラ」
待っていたかのように、ネビアの笑顔が醜悪に歪んだ。
「良くない・・・良くないよ。良いわけない。なんで・・・なんでこんなことしたんだよ。なんか、そう、なんかどうしようもない理由があったのか?」
「マンガの読み過ぎかな?カシラ。そんなもの、私にあるわけないじゃない、カシラ」
人の指を喰ったその口で、少女は自分の爪も砕けるほど強く噛み締めた。
「・・・っ、じゃあ!なんなんだよ!大体、友香があげた髪留めはどうしたんだよ!?向日葵があげたヘアピンはどこやったんだよ!?しーちゃんがあげたあのペンダントはどこなんだよ!?さっきまで楽しそうに笑ってたあいつは誰だったんだよ!?お前なにがしたかったんだよ!意味分かんねぇよ!良くねぇよ!ふざけんな!!なんとか言ってみせろよ!」
「ピーピーうっさいわね、迅雷は、カシラ。男の子のヒステリーは見るに堪えないゾ?カシラ」
「つらつら要らねえこと言ってんじゃねぇよ!なんとか言えっつっただろ、ネビア!」
迅雷は多分泣いていた。信じていたはずの友達を恐れて疑わなければいけなくなった事実が悔しくて悲しくて、もう、溺れるほど涙を零しながら、その少女を睨み付けていた。
そんな彼の姿があまりにも痛々過ぎるから―――。
少女は首を振る。ゆるゆると左右へ。爪を噛む。口の端が下がる。歯が軋る。爪が割れ、指先に歯が刺さり、血が流れる。でも笑う。嗤う。ケタケタと不気味に、不穏に。
「そんなもの・・・道端にでも捨ててきたわよ、カシラ。邪魔で仕方なかったんだから、当然でしょう?カシラ。笑ってたのは誰?バカなの?カシラ。私に決まってるじゃん、カシラ」
少女はくだらなさそうに血のついた指で耳をほじり、その指先を吹いてから迅雷を嘲り倒して陰湿な笑声を立てる。
「ま、作り笑いにしちゃ上出来だったでしょ?カシラ。フヒッ、くふふ、フヒヒヒ!!キャハハハハッ!!」
「―――れよ」
「ん?なにかな?カシラ」
おぞましく狂笑する目の前の少女が、残酷にも迅雷の記憶の中の「ネビア・アネガメント」の人物像を上書きしていく。過去の千影の感情と現在のネビア・アネガメントの姿が同期していく。
もう、どうして良いのか分からなかった。こんなにも哀しいのに、こんなにも憤っている。気持ちのやり場はいつしか、その手に握った一本の剣に収束していく。
1ヶ月。短い期間だっただろう。でも、それはそれで意外なほどに濃密で新鮮で、輝いていた時間だったはずだ。
あんなに一緒に笑って、くだらないことで喧嘩して、美味しいものを食べたりして、ハプニングで赤面して、みんなで寄り集まっては遊んではしゃいで、楽しかったその全部が全部、偽りになる。悲しみは一瞬という時を経て悲憤へと変わる。
なにもかも、ネビア自身が否定してしまうと言うのなら―――。
「黙れよ、黙れ、黙れよォォォッ!!」
迅雷はネビアに、『雷神』の矛先を向けた。
それが正しかったのかは分からない。ただ、築いてきた全てがその瞬間に破綻したことだけは確かだった。
そしてネビアは満足げに笑う。彼女は向けられた剣気に応えるようにゆらりと腕を広げていく。
「だから、それでいいのよ、カシラ」
迅雷は唇を震わせているが、涙は止んでいた。なにかが切り替わったのだろう。ただ、拭い去れない悲しみと恐怖をそこには残して、親しかった友を倒すことを誓う。彼は剣を構え、深く腰を落とす。
その背後、廊下の奥で音を潜め動く人影。小さな光。魔法の光。ネビアが笑う。
「それじゃあ改めて。バイバイ、迅雷、カシラ」
●
「あうぅ・・・そんなに怒らないでくださいよタイチョー。どうせいつものことじゃないですかぁ・・・」
『そうだな、どうせいつものことだね!はぁ・・・どうして小西はいっつもいっつも。やれば出来る子なのになぁ』
「そう、私はやるときだけはやる子なんです。なので会議とかそういうのはちょっと」
電話の向こうではタイチョーこと神代疾風の溜息が聞こえた。残念だが李の足りないオツムでは彼の言い分の正当性が理解出来ない。
目が覚めたら病院のベッドに寝かされていたものなのでとんでもなく驚いた李は、今はトイレに籠もっていた。病室には他にもケガで入院している人たちがいたので、人間恐怖症の発作が起きる前に飛び出して来た次第である。
トイレで一息ついていたところ、まるでタイミングを計ったかのように疾風が電話を寄越してきたときには李も一度心臓が止まりかけた。
その電話の内容というのが、実につまらないもので「ちゃんと仕事しろ」というお説教である。病院に搬送された時点で身元がバレており、なんだかんだで警察庁に病院から連絡が回ったらしい。
『それにしても、なんでまたわざわざ国外にいる俺がお前に説教しないといけないんだ?』
「そりゃあ決まってますよ、私は人と会話すると発狂しますからね、受話器越しでも」
『俺は人外扱いか』
「はた言うべきにあらず」
急に教科書にでも載っていそうな古語フレーズを飛ばした李は虚空に向けて謎のドヤ顔を決め、触角を揺らした。彼女的には疾風ぐらい強くなると同じ人間として見られなくなるので話しても大丈夫らしい。
そんな風に扱われる疾風の側からすれば実に迷惑な理由ながら、まともに会話も出来ない李とちゃんとコミュニケーションが取れる人物がいるだけ日本警察も安心しているところである。公務員にクビという概念は存在しないのだ。
「それでですね、一方的に怒られるのは性に合わないので一応私なりの言い訳も聞いて欲しいんですが・・・」
『なんか偉そうだなオイ』
「いちおうナンバーツーですぜ、私」
『俺がナンバーワンだけどな。まぁいい、言ってみろ、ほれ』
「いやぁ、なんか『のぞみ』に不審者が湧いてるって話がありましてね。なので私はその調査で―――っていう設定はどうですか?」
『ボツ』
李が地団駄を踏むとどうやら隣の個室にも誰か入っていたらしく、ビックリしたような声が聞こえたことにビックリ。引きつった悲鳴を漏らして李は涙ぐむ。
「うぅ・・・お隣にいやがった」
『「やがった」ってなんだ。というか、その話は本当か?「のぞみ」って言ったら今迅雷がいるじゃないか』
「お会いしましたよ、ちょっとだけ。可愛い子でしたね、やっぱり。モロでタイプです!」
『はいはい、なんせ自慢の息子だからな。そこじゃなくて―――実際小西も調査はしたのか?』
「え、大事なのってここだけじゃあ・・・?」
不審者の話を出した途端どこか真剣な空気を醸し始めた疾風の声色に、李は怪訝がって眉をひそめた。あんなに可愛い息子を放っておいて食いつくのがそれとは、もはや職業病だ。もっと李みたいにフリーダムにならなければ。
とはいえ李も実はこの件、既になにも知らないわけではない。知った風な口ぶりをする疾風の態度を放っておくわけにもいかない。
『一応聞いとくけど、どこまで調べた?犯人は?』
「さぁ・・・。とっちめた分には2人ほどなんですけど、これがまた両極端なもんで・・・。タイチョーはなにか知ってます?あれどういうことなんです?私の使い倒したスポンジみたいな脳みそじゃあちょっと」
『は?両極端ってどういうことだ?』
疾風の返事は質問の形でやって来た。分からないと言っているのに質問を返された李は心底嫌そうな顔をした。だが、それはつまり今回の騒動はなにかおかしいということになる。
「片方はネビア・アネガメント関係」
『もう片方は・・・?』
尋ねられても、これは隣に人がいる状況で言えたことではない。病院送りにした男の持ち物を漁ったときは李さえも仰天した。
ただ、ここで返事を渋っては話が進まない。李は口元に手を当てて、隣に聞こえないように受話器に声を注ぐ。そうして返ってきたのは疾風の「なるほど」という一言だけだった。
またいつもの一人だけ訳を知っています、パターンだ。面倒事は嫌いなので李はそれになにも文句はないのだが、説明が為されないと腹立たしくもある。
「で。タイチョー。私これからどうしましょう?個人的には引き続きこっちで迅雷クンのストーキ・・・じゃなくって捜査を・・・」
『いや・・・いい。そっちにゃ千影が行ってるはずだ。この件は全部アイツがなんとかするはずだから、警察もIAMOも出番はないな』
「すげー信用ですね、私の方がタイチョーとの付き合い長いはずなのに」
『小西のことも十分頼りにしてるさ。だからさっさとホントの仕事に戻ってくれ。この件よりもずっと重要な仕事の話をしてる』
疾風の声色は冗談でもなんでもなく、『のぞみ』で起きている事件を軽んじられる程度には重大なことを言っているようだった。真剣味に当てられてらしくもなく真面目な顔になった李は、まさかと行った口ぶりで疾風に聞き返す。
「それって・・・」
『今度の対談に行くんだよ、「魔界」に、俺と一緒にな』