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ロンドン滞在記❶

 それは、三か月目のある日の出来事だった。


 いつものように、ひとりでロンドン・ピカデリー・サーカス通りを散歩していると、突然、背後から英語で声をかけられた。


「エクスキューズ・ミー。ジャパニーズ?」


 ドキっとした。悪質な勧誘か何かか、と不安に思い全身が硬直した。東京ではよくあることだけれど、ここロンドンにまで、その悪の手は伸びていたのか。僕を尾行してきたわけではあるまい。新手の日本人観光客詐欺か。などといぶかしげに考えながら、ゆっくりと振り返った。


 一八歳くらいで白色のTシャツ姿のかわいい子だった。


 僕のほうは突然、外国人から声をかけられたのだから何事かと驚き、相手への警戒心を持って接するのは当然だと思う。が、声をかけてきたその女の子のほうも僕に対してある種、疑惑の目で見ているようで、足元から頭のてっぺんまでジロジロ眺めている。どういうわけか、通りを行き交う人の波の真ん中で、しばらくの間、僕たちは向かい合ってお互いを品定めするかのように見つめ合うことになってしまった。


 人はみな、一度は死にたいと考えたことがあるだろう。仕事がらみとか金銭トラブルや人間関係、あるいは恋愛のもつれとか。あるいは、いじめ問題か。何か壁にぶち当たって挫折したり、悲しみに打ちひしがれたり、同じことの毎日に嫌気がさしたり。理由は様々だろうけれど、自分も同様に苦悩し考えることがあった。そんなことを考え始めたら、さらに気持ちがどん底へ向かった。


 死にたい。


 会社を辞め、ロンドンへやって来た。いわゆる現実からの逃避っていうわけだ。とりあえず、外国へ行ってみたいという気持ちがあり、偶然、選んだのがロンドン。そう、偶然という感じ。まぁ、本場のサッカーや自転車のロードレースを見ようとか、あこがれがちょっぴりあったことは確かだ。死ぬ前に何かやっておきたいと思うのが普通で、当然でしょ。ところが、東京を去り、日本を離れ、ひとりになったら結構、気持ち的に楽になれた。おかしな話だ。環境を変えるだけで、こんなに変わるものなのか。あちらにいたときの憂鬱な気分はどこかへ吹き飛んでしまった。きっとこれも偶然なのだ。


 偶然、偶然。


 目を細め、もう一度、彼女を見つめた。亜麻色の長い髪、瞳は茶色、筋の通った高い鼻。カタコトの日本語。背丈は日本人の女の子に似て高くはないけど、Tシャツの胸あたりが山のようにとんがり、キュッとしまった腰、長い脚はカモシカのようだった。見事なプロポーション。外国人であることは間違いない。


 やがて、彼女のほうから口を開いた。


「○△■▼×>○◇%●×▽▲◎……?」


 早口言葉のような英語だった。流暢りゅうちょうではあるけれど、彼女がイギリス人ではないことは発音ですぐに察しがついた。イギリス英語は単語ひとつひとつのアクセントがハッキリとしていて聴き取りやすい。なのに、彼女の発音はアメリカ英語の流れるような発音だ。しかし、耳をすませてよーく聴いてみると、文法がメチャクチャだった。


 彼女の早口言葉のような英語にチンプンカンプンの僕は、両手を広げてお手上げだ、というしぐさをして見せた。


 すると、その僕のしぐさがおかしかったのか、お腹に手を置いて上半身を大きく揺らしながら大げさに笑い始めた。


「ブランカと言いまチュ。ワタシ、ロンドンはファーストタイムなの。アナタはジャパニーズね」


 今度は、カタコトの日本語だ。


 ここでは、僕はたいてい中国人と間違えられる。チャイニーズ・タウンがあって中国の人たちがたくさん歩いているから。日本人観光客はたいてい集団で歩いていたり、よそ行きのキレイな服で歩いているので、日本人か中国人かほかのアジア人かの区別くらいはつくだろう。ところが、ここで生活を始めた僕の服装は日本人観光客のようにブランドもののファッションで小奇麗に着飾ってはいなかった。


「アナタはジャパニーズね」


 もういちど聞いてきた。コックリとうなづく。こちらは、まだ悪質な勧誘か何かかと警戒心を緩めてはいない。いや、彼女のかわいい雰囲気を見て、少しタガを緩めようという気持ちにはなっていた。


「ソー、ホワット?」


 僕のほうから疑問を投げかけると、今度はゆっくりと話し始めた。


 ブランカというその子は、スペイン・バスクから観光目的でひとりでやって来た。ここは初めてで道に迷ったという。誰かにロンドンを案内してもらいたくて、でも、ヘンな外国人に声をかけたくなかったので信頼できそうな人を探していたのだった。彼女いはく「日本人がいちばん信用できる」らしい。最初、僕を見て、「日本人かどうか分からなくて……」


「僕は、観光客ではないよ」


 そう言うと、微笑んでくれた。


「ロンドンをアンナイしてくだチャイ。プリーズ」


 スペインで少しだけ日本のことを勉強したらしい。そのときにカタコトの日本語を覚えたという。彼女のかわいい日本語の発音に僕はすっかり魅了されてしまった。悪質な勧誘ではなさそうだということも分かったし、逆ナンパされたような気分だった。こんな僕でも、ようやくツキがまわってきたというのか。


 ロンドンの空は、ほとんど毎日が曇り空だ。ときおり雨が降り、たまに晴れ間がのぞく。変わりやすい天気だ。そのとき、曇り空のような人生に、幸福の天使がちょっとだけ明るい光を注いでくれたように感じた。


「オーケー。僕の名前はサトウ・トシキ。トシって呼んでくれ。どこへ行きたい?」


 僕は、日本語とカタコトの英語で。彼女は、英語とカタコトの日本語で。もっとも時折、スペイン語が混じって早口になるので僕は彼女の話をすべて理解できず、彼女のほうも僕のカタコト英語に?マークをつけたいような表情になることがあって、お互い言葉が通じないと身振り手振りで必死に伝えようとした。そうして何とかコミュニケーションを取りつつ、ロンドン市内を散策することになった。


 それが、彼女との出会いだ。


 ロンドンで、日本人男性とスペイン人女性が出会って親しくなる確率がどのくらいなのか、数値はよく分からないけれど、ヨーロッパ某国の王女アンとアメリカ人記者がローマで偶然に出会い、恋へと発展するストーリー、映画『ローマの休日』を考えれば珍しいわけでもないだろう。しかし、ここはロンドンだ。ローマではない。しかも、これは映画のストーリーではなく、現実だ。そんなことを考えながら、僕は有頂天になっていたかもしれない。こちらへ来て自分の運命が大きく変わろうとしていた。


 偶然が三つ続けば、奇跡だ。


 彼女のことをもう少し話しておくと、北スペインのバスク地方、サンセバスチャン郊外に住んでいる。聞くところによると、父親は銀行の頭取で、母親はいくつもの街でブティックを経営している。そして、ニコという弟がいる。マンション暮らしで家政婦さんがひとり。父親は小さなヨットを一艘所持し、別荘も持っている。スペインではかなりの資産家なようで、町内の目利き役のような存在らしい。二、三年前、ある日本の自動車企業が近郊に進出してきたことがあり、雇用、経済的効果、逆に環境面の不安や異国の企業であることなど、いろいろなことが話題になり、地元の人たちは日本企業の進出に賛否両論。町全体で論議を呼んだことで彼女自身、日本に興味を持ったという。父親は日本企業進出に反対の立場だったらしいが、日本に興味を持った彼女は、半年ほど日本の歴史や文化などを学んだそうだ。また彼女自身は、学生時代にフランスへ留学していたこともあり、スペイン語、バスク語、英語、フランス語が話せる。ヨーロッパ諸国の言語は大体似ていることもあり、そのほかにイタリア語やポルトガル語なども分かるらしい。そして、カタコトの日本語も。現在は、サンセバスチャンにある母のブティックを手伝うなどしている。


 そんな話を聞いたときは、ものすごく驚いてしまい「日本にくればキミは通訳になれるよ」と告げた。彼女はそんな僕に「ヨーロッパの人々、特に若い人たちは五、六カ国語くらいは誰でも話せます」と当然のように自慢していた。そして、日本人はどうなの? という目つきでこちらを見るではないか。


 僕は、日本語とカタコトの英語だけしか話せない。悔しかった。ふざけやがって。日本人の名誉のためには、このスペイン娘をガツンと見下してやらなければいけない。日本人はすごいんだぞ、って。


「日本人のほとんどは、水の上を歩いたり、変身したり、おまじないを唱えると姿を消すことだってできるんだぜ」


 と、自慢してやった。どうだマイったか、と胸を張る僕を見て、彼女は一瞬驚いた様子だったけれど、すぐに「ニンジャ!」と言って大笑いしていた。


「ハァーッ、シュッシュッシュッ。ニンジャ、参上!」


 ロンドンの街角で、忍者が手裏剣しゅりけんを投げるポーズを披露してあげた。


「ニンジャ! ニンジャ!」


 手拍子をたたきながら、彼女はとても喜んでくれたのだった。

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