パワー❶
オレの名は石田修造。大富豪の息子で、離れ小島に住んでいる。
自家用ヘリでこっそりこの無人島へ移り、秘密基地を作った。ちょうど三〇歳を迎えた誕生日のときだ。どうして無人島へ移り住むことになったのか。秘密基地とは何か。その話は後で話すとして、そんな自分のことをうらやましく思うのは、金に欲がくらんだやつか、自分のことを不幸だと感じてそれを世の中のせいにしているやつくらいだろう。そういう人種は、大金持ちで自由気ままな生活を送るオレを、ねたんだりするかもしれない。が、周囲が思うほど決してオレは幸福なんかではない。
ちょっと前の数年間、東京にいて遊んで暮らしていた。毎日、パーティーを開いて酒と女に溺れ、お金は使いたい放題。何でも思うままだった。自慢話はそこでおしまいだ。
自分と関係する女性たちが幸せだったかどうか、それは分からない。しかし、「これじゃ、ダメだ」と思い始めた。毎日が同じことの繰り返しで、とうとう三〇歳……。月日が過ぎ、歳ばかり取っていく。時間は金持ちも貧乏人にも平等だ。待ってはくれない。
そして、女。
近寄ってくる女はみな、オレ自身ではなくお金が目当てなのだ。自分に惚れる女など、この世には存在しない。たぶん。
カネ、カネ、カネ。
なんて嫌な世の中になったものか。
そうそう。自己紹介をするのを忘れていた。ワシの名は老人子じゃ。子どもの格好をした老人だから、そう呼ばれるようになった。でも、まだ三〇だ。なのに、身長一三〇センチ。薄くなった白髪に顔はしわくちゃ。耳は大きく、あごひげをたくわえ、でも、黄色の園児服と半ズボン姿が何より好きだから、コスプレ好きと言われても仕方がない。このかた園児服以外の格好をしたことはなく、これがベスト・アイテムだと信じている。そんな自分に本気で惚れる女など、この世には存在しないに決まっとる。
さらに、ワシを悩ます事柄がひとつ。それは、もうひとりの自分がいること。身長一八三センチ。映画俳優か、と思わせる端正な顔立ち、細身の体つき、長い足。おまけにセクシーな声。もうひとりの自分は、ワシとは正反対の人間、じゃ……。
スマン。オレは、もうひとりの自分だった。老人子のほうは、いつも《ワシ》と自分のことを言っている。つまり、ときどき老人子とオレの存在が交錯して、どちらがどちらか、今の自分は一体、どっちなのか。何とも区別がつきにくくなる。そこで、便宜上というか、世間一般に自分をさらすときはいつも決まってもうひとりの自分。つまり、《オレ》を前面に押し出すっていうわけさ。なにせ、園児服を着た老人子など、現実的にみて世間からは認知されないだろうから。つまり、同一人物ではあるけれど、老人子のほうは夢の世界でしか出てこない。そういうことになっている。これで、ひと安心というわけさ。なぜなら、オレのほうが、数倍、数段、かっこいいから。まぁ、仕事と遊びとは区別して考えるのと似ているかもしれない。あなたは、どっちの自分が本当だと思うだろうか。
ある日のパーティーで、こんなことがあった。
酒に酔ったひとりの若い女性が、カウンターにいたオレ、もうひとりの自分である石田修造に声をかけてきた。
「ねぇ、シューくん。私ね、(ヒック)。あなたと会ったことがあるの。それもかなり昔のこと。そうねぇ(ヒック)、三〇年くらい前だったかしら(ヒック)」
酔っ払いの女はタチが悪い。しかも、美人の酔っ払いはもっとヤバイ。オレと肉体関係を持ち、オレから離れまいとほかの女を寄せ付けず、しまいには結婚をねだり始める。「シューくん」などと気軽に呼ばないでほしい。
「あ、そう」
気のない素振りで、シェイクしていたマンハッタン、極上の強い酒、をグラスに注いで彼女へ手渡した。オレと関係を持ちたいと思う女はいつも甘えてくるけれど、その子はちょっと違っていた。ぶっきらぼうというか、クールというか、怒っている風でもあった。それにしても、三〇年前に会ったことがあるなんて、この子、酔っているとは言え、あきれ返る嘘つきだな。
「ねぇ。私の話、本当なんだから信じて」
「分かったからさ。向こうで仲間と楽しんでくれよ」
ほうきで掃くように指先を動かしながら軽くいなして、追っ払おうとした。が、彼女は動こうとはしない。いや、自分を見つめながら上半身を左右にゆっくりと揺らしている。まるで超高層ビルの上階で地震の揺れを感じたときのように、上半身だけが揺れているのだ。ゆっくりと、ゆったりと。おかげで彼女を見ていたオレのほうも、思わずいっしょに上半身を揺らしてしまった。
鼻の上にとまったハエを見つめるような眼つき。
あきらかに酔っている。
それにしても、わけの分からぬことを口にして、一体、彼女は何者なのか。今夜のパーティーに招待した覚えはないし、誰かの連れなのか。女の背中越しから奥のほうへ目を移したけれど、みな酒の入ったグラスを片手に談笑し、こちらには無関心。気がついていない。
「お願いだから、向こうへ行ってくれないか」
彼女を見ていたら、こっちまで酔いがまわってきそうだ。パーティー会場に静かに流れるピエロ・ピッチオーニのメロディーに合わせるように、右へ左へ、ゆったりと上半身を揺らしながら、その子は数学の方程式か何かを唱えるようにつぶやいた。
「イチ・キュー・ナナ・キュー」
そう言って、ニンマリしながらマンハッタンを一気に喉へ注ぎ込むと、手にしていた空のグラスをオレのほうへ差し出した。おかわりか、酔っ払いの女め。心の中でののしりながら差し出されたグラスを手に取り見つめると、なぜか、その透明の容器の中に小さな虹がかかっているように見えた。
今では、毎日のように虹を見ることができて、珍しいことではなくなった。地球温暖化の影響だろう、いつしか日本は、(特に東京のような大都市で)亜熱帯地方のように毎日スコールのような雨が降り注ぐようになった。それも酸性の霧雨だ。ときおり雲の隙間から顔をのぞかせるわずかな太陽の光が人々の気分を和らげた。毎日のように七色の架け橋が灰色の空を美しく飾った。そんな日常の現象に、みな慣れっ子になってしまったみたいだけれど、昔はそんなことはなかった。ほんのニ、三〇年くらい前までは。
オレは、子どものころは、いつか地球が元の星に、美しい星に変わってほしいと願っていた。そう思うのが通常の人間だと信じていた。科学者だった父もまた「科学はロマンチックでないとダメだ」というのが口癖だった。そう。オレたちは、人間は、何か大切なものを過去に置き忘れてしまったのかもしれない。
顕微鏡をのぞくように昔の地球の姿を思い描きながら、彼女から受け取ったグラスの容器に見とれていたら、酔っ払いの彼女がまたブツブツ唱え始めた。
「シューくんならできるわ。あなた、やってごらんなさいよ(ヒック)」
挑発的ともとれるその言い草に、またあきれ返っていたら、カウンター越しからオレの首へ両手をまわしてきて、グイっと引っぱられた。グラスを手に持っていた自分は何も抵抗できずに彼女の引力に引き寄せられた。
「な、なんだ」
彼女の唇、ぶ厚い下唇が、自分の目の前に迫ったとき、オレは自然に両目を閉じていた。
予期せぬ出来事に、一瞬、目がくらんだ。彼女の唇の感触に、すべてがとけていくようだった。理性も、感性も、そして、オレ自身も。映画や本のストーリーのような、予定調和のシナリオも悪くはないけれど、こんな想定外のキスは初めてだった。好きとか愛とか、何も関係ない。でも、たったひとつのキスから始まることだってある。そのとき、何となくそんな気がした。まるで、遠い思い出がよみがえるかのように。
だから、オレは都会を離れ、自家用ヘリで無人島へやって来た。
何を隠そう、億万長者の息子なのだから。たいていの女性、いや、男性も含めて、オレに何らかしらの関係を持とうとするのは、すべて金のためなのだ。
「今のままでは幸せにはなれない」
金持ちにせよ貧乏人にせよ、誰でもいずれ死ぬ。ならば、自分しかできないこと。自分の夢を実現させようと。ネットでいろいろ検索しながら探した。オレの夢を実現させるためにいちばんいい所、最適な場所はどこかと。
すべてが、あのパーティーの、アイツの台詞から始まったのだ。そして、グラスに映ったきれいな虹……。
「シューくんならできるわ。あなた、やってごらんなさいよ(ヒック)」
笑い事ではない。オレに『不可能』の三文字などあろうはずがない。それを証明したかった。夢の中に出てくるもうひとりの自分、老人子でさえ、オレのやり方に文句はなかったようだ。ただ、女の一言だけで人生を変えてしまおう、などと思うはずはない。ましてや、愛している女ではない。なぜ、無人島へ移住して秘密基地を作る気になったのか。それにはもうひとつ大きな理由があった。