プロローグ
七月の末になっても梅雨明けしない日本を眼下にしながら、美枝子を乗せた宇宙船《プリズム号》は、白や黒や灰色の、何層にも重なり合った雲海を突き抜けていく。成層圏を抜ければ、宇宙はもうすぐだ。特殊外部カメラによって映し出される地球の様子を眼の前のモニターで見つめながら、彼女は小さな感動と大きな期待で胸がいっぱいになった。ちょっぴりセンチな気分にも陥ったが、目を強く閉じて何かケジメをつけるかのように別れの言葉を心の中で二回呟いた。それから一粒の大きな涙を指先で拭うのであった。
金本美枝子は、まじめな女の子である。学生時代、特に高校生のときは学年で一、二位を争う優等生だったし、生徒会の書記を務め、周囲からの人望もあつく、模範的な生徒だった。今でもそれが勲章のように身体に染みついている。度のきつい厚めの黒ブチメガネはその象徴だったが、人は誰でも、ひとつくらい欠点や短所があるし、彼女の場合、日本で十六番目くらいに泣き虫だったから、ときどき他人を困らせたりもした。
一、二週間の短いテラ旅行ならば、こんな気分に陥らなかったろう。火星の観光旅行とか、プレアデスやオリオン座へのシミュレーショントリップとか、そういう類の旅行でもない。旅には違いなかったが、彼女にとっては一生に一度の特別なステージ。主役であり、脚本も台詞も彼女自身が書き、何度も頭のなかで繰り返しイメージし、練習し、今まさにスポットライトの真ん中に立った女優そのものなのである。舞台は宇宙。観客は世界。およそ一年間の巡業。ロングランである。そんなふうに自分を飾ってみても決して恥ずかしいことではない。
美枝子を乗せた《プリズム号》は、既に地球を離れ、一路冥王星へ向かっていた。地球時間で五日と七時間の長旅になるだろう。途中、月の中継ステーション《ルナ三号Vステーション》、ガニメデ上空の衛星母艦、そして土星近くのエンケラドゥスと、計三回のストップオーバーがあり、冥王星から留学先のカロンへは衛星間コーチ(長距離高速スペースシャトル)に乗り換え、およそ十五時間だ。
そう。あれから、一〇年が過ぎた。
人は誰でも、いろいろ経験し、変わり、成長する。一〇年も経てば変わるものである。ところが、二十五歳の彼女は違った。昔とちっとも変わってはいない。でも、外見はやはり変わった。肌の色、小じわや髪のいたみ、身体的な変化はあげたらきりがない。鏡で見ると若いときは目立たなかった口元のホクロが最近、米粒程度に大きくなってきたようにも感じる。友人は「いろっぽい」などと冷やかすが、本人はそれが苦痛のタネだ。やはり昔と変わらず、まじめなのである。
美枝子が高校生のときである。
「あっちに一年間語学留学したいだと、バカも休み休み言え。何のためにこれまで勉強してきたんだ。お父さんがおまえひとりを宇宙などへ行かせるとでも思っているのか」
父親はえらい剣幕で、今にもキッチンからカッターガンを持って一発放つのではないかと殺気づいていた。
「冥王星か。カロン人なんて、くそくらえだ」
「そうよ。お父さんの言うとおりよ。地球に留まり日本の大学をめざしなさい。宇宙は危ないし、お金だってかかるし」と、母。本人の手前、ちょっと言い過ぎたと思ったのだろう。あるいは父さんの意見とバランスを取ろうとしたのかもしれない。急いで付け足した。「月ならいつでも行けるわ。ティコから見る地球はきれいだっていうし。大人になったら考えなさい。そうね、いつか家族全員で行くのも楽しいし」
あ然とした。涙より先に、文句が出た。
「なによ! ちっとも私のこと理解していないじゃない。カロン語とガニメデ語をもっと勉強したいって言っているのに、バカみたい。それに冥王星じゃなくて、私が行きたいのはカロンよ」
はらわたが煮えくり返っていた。大人は分かってくれない。どうして自分の夢を摘み取るのか。親はなんてバカなんだ。こんな気分に陥ったのは生まれて初めてだった。「日本の大学でしっかりと……」。父親の言葉を空中に放り投げておいて、別のことを考えた。自殺してやろうか。それとも家出するか。自分自身のバカな発想もあって、自然と涙がこみ上げてきた。
両親を置き去りにして、二階の自室へ駆け上がり、ドアを強く閉め、鍵をかけ、そのままベッドへダイブするように飛び込んだ。そして、また泣いた。
高校三年の春だった。
その後のことはあまり覚えていない。記憶に残っているのは、いつだったかハッキリしていないが、付き合っていた彼氏とドームに覆われた吉祥寺の街を歩いているときに、そのことを打ち明けたこと。しかし、彼女自身の期待とはうらはらに、相手も両親と同じ意見だったということ。自分の悩みをちょんと受け止めてくれると思っていたのに。
透明なドームの下から見る空は、日中でもグレーに染まり、彼女の気持ちをより一層憂鬱にさせた。
彼と口喧嘩になった。自分自身がカウンセラーか、心理学者になったようなつもりで、冷静沈着に、相手に自分の気持ちが伝わるように、分かりやすく噛み砕いて上手に話をしたつもりだったが、相手は「ダメだ」とか「親の気持ちを汲んでやれ」とか、一方的で自分のほうへ気持ちが向いてこなかった。見損なった。と、同時に大粒の涙が頬を流れていく。悲しさよりも、自分の気持ちを分かってくれない悔しさで、そのとき吉祥寺の街全体が暗くよどんで見えたのを何となく覚えている。「私のこと、好きじゃないのね」「おまえ、バカか」「もう嫌い!」美枝子は、彼をおいて駆け出した。
自分の夢と同時に、恋も失った。
一〇年前は、若かった。もう少し上手に両親を説得できただろうし、彼もまた私のことを本当に好きだったからこそ、そばにいてもらいたかったのだろう。そう思うと後悔ばかりで胸が痛くしめつけられた。
日本の大学(一流かどうかは分からないが)へ入り、その後は時間に流されて、平々凡々な生活。自分の夢など風と共にどこかへ消え去ってしまった。
周囲に大勢の男子はいたが、みな遊んでばかり。青白い顔してチャラチャラした雰囲気が大嫌いだった。ガニメデのハイパーコンサート、テラ・ユナイテッドvsバルサのスペーシーサッカー戦など、いろいろ誘われたが流行のものにはどれも興味を示さなかった。彼女は昔の、古典的なものが好きだった。ジャクソン・ブラウンやニール・ヤングのCDは今でも大切な宝物だ。
彼氏に恵まれない美枝子を見て、周囲の女友達は「恋は自分で勝ち取るものよ」と急き立てるが、彼女はひるまない。「恋はある日、突然やって来るのよ」とキッパリ。体験はゼロ。二十歳を過ぎても処女なのは変? 自身に問う。答えは決まっている。まじめ過ぎるのよねと。高校時代はもちろん、純愛を貫いた。
純愛は素敵だ。同じ人間と恋ができるなんて。しかし、カロン人のほうがはるかに教養があり、まじめで優しいのだった。何より、宇宙を、異世界を、自由に旅できるし……。
彼らとファーストコンタクトした人は数少ない。「地球を、太陽系を、全宇宙をコントロールしているのは彼らだ」その存在は、ある意味、伝説となり、やがて神話化されていった。
例えば、日本である。
関東地方を直撃した大地震から、(ジハード戦の最中にもかかわらず)奇跡的、驚異的な復興を成し遂げたときは、世界中から大喝采を浴びた。しかし、いまだに戦闘は断続的で、ヨーロッパを中心に大都市の市民を巻き添えにするテロと、(同じく)誤爆で市民を死傷させてしまうピンポイント爆撃の、互の報復合戦が続く中、両陣営から復興支援を受け、頑なに中立を維持する日本にしたって、いつどうなるか予断を許さない。ましてや仲裁など政府にその調停役としての能力があるかどうかさえ疑わしい。
「戦争なんて、ゲームと同じで勝ったり負けたり」と、美枝子は愚痴る。
しかしながら、震災があり、そしてあちこちが環境汚染されているとは言え、ここが今、平和なのは皮肉なものだ。
「もしや本当にカロン人によって平和が保たれているのかしら」
彼らに会ったことがない美枝子は、とても懐疑的ではあったが、心の内ではあこがれてもいた。「戦争なんて、彼らだったらやってくれるわ。はい、ゲームオーバー!ってね」
彼女の場合、あのときのたったひとつの恋を経て、現在に至る。思い出に残るきれいな恋だった。でも、上手くいかずに別れた。今もって彼のことを未練がましく思い出すのはどうしてだろう。彼のことが嫌いになったのではない。今でも好きなのかもしれない。いや、好きだ。でも、あのころは若かった。一人ぼっちと感じるのは、きっとそれが原因なのだ。他人から見れば、ちょっとカワイイ顔立ちとスタイルの良さがあり、程々のレベルだろうけれども、地球人との遊びの恋にはもはや興味はない(こっちも、ゲームオーバー!)。本気の恋がしたかった。
カロン人はどこ?
男を見る目が厳しい。違いを見破るのは並大抵のことではない。黒ブチ眼鏡の奥に潜む眼光は、何者をも寄せ付けない鋭利な刃物のような光彩を放っていた。つまり、彼女は眼つきが悪かった。それが悩みだと言えばそういうことなのだろうけれど。
SF小説やアニメに出てくるような異星人――――グロテスクだったり、ユーモラスな顔立ちだったり、親しみやすいキャラだったり、様々だが――――とは異なり、彼らはごく普通で、人間の姿・形をしているという。見分けるのは非常に困難だ。だから「僕はカロン人さ」などと言っても、彼女は決して信用しない。
「恋はある日、突然やってくるのよ」
卒業後、父親の知り合いのコネで、大手建設会社へ入社したが、単調な事務の仕事はつまらなかった。ひとつだけ好奇心を抱いたのは、ゴシックだのアールデコだの、スペインのガウディだの、何かにつけて古典的なヨーロッパの建築(特に日本の伝統美を再発見したドイツの建築家ブルーノ・タウトに興味を抱いた)の話が出るときだった。「あっちの家ってどんなだろう?」「生活様式は? 彼らの文化は?」若い頃の夢が再び、ふつふつと自分の身体の底から煮えたぎってきた。
十五の夢、十八の夢、そして二十五の夢……同じ思い。
彼女のミッション。
「そうよ。私の夢よ」
入社三年後のある日、彼女は決心する。両親に「会社辞める」と伝えたとき、二人は驚きはしたものの、その次に何を言われるか悟っていたようだった。きっと、ずっと前から両親も娘のことで話し合い、思い悩み、いろいろ考えて、予想していたのだろう。本気で、本当で、本物だってことを。父は「おまえくらいの歳ならけっ」と言いかけたが、母親がその後の台詞を遮った。もしかして、結婚? まさか。自身の貯金と親から出してもらったお金で、すべての準備が整った。母は言った。「向こうも危ないから気をつけてね」「うん。でも行くわ」彼女が久しぶりに見せた笑顔は世界第一位の笑顔だった。
二十五歳の夏、それは一生に一度しかない。