四話 世界の在り方と“十番目”
◇
――この世界は魔素で溢れている。
それは比喩でも誇張でもなんでもなくて、ただの事実だ。
魔素があるから魔法がある。魔素があるから魔物がいる。
そもそも、世界の成り立ちにだって魔素は大きく関わっている。具体的には、この世界は魔素からつくられた。
万物を成す、万象の源。
それが魔素だ。
その創造性は九つの属性に分かれていると言われている。
まず、光、闇、月。これを天の三属性という。
世界は、最初に彼らがその形を定めたことによって成り立ったと言われていた。まず光が全てを明らかにして、闇がそこに線を引いた。線とは、つまり他者の存在だ。さらに、そこに月が傍観者としての立場を得たことで、世界は成立した。
そうして世界はできたが、しかしそれだけではとても寂しいものだった。
そこで、世界を豊かにするために他の精霊が現れた。
地の六属性と呼ばれる彼らは、それぞれ、水、火、風、木、金、土を司り、彼らによって世界は様々な彩りを与えられた。
水が湧き、火が燃え、風が吹き、木が茂り、金が煌き、土が育む。
そして、そこからやがて多くの生命が生まれた――というのが、いわゆる『創生話』というやつだが、この話には続きがある。
世界を創造した神秘の力。それを象徴する九つの属性。
しかし、その力は世界を創り終えたあとも、その力を発揮し続けていた。世界は、創られすぎてしまったのだ。
自分たちでも抑えられないその創造の力を抑えるために、最後にもう一つが迎えられた。
それが、“十番目”。
その属性には名前がない。そういう存在だからだ。
ただし、名前がないことは色々と不便なので便宜的に「無」とか「虚」なんて呼ばれていたりする、無限に暴走しかねない創造性への抑え。反創造。
九つの属性に一つの反属性が加わることで、世界の在り方は見事に安定した。
そして、世界が安定したことを確かめると、その“十番目”はどこかへいなくなってしまったという。
他の精霊たちは自分たちと一緒にいてくれるよう頼んだが、“十番目”はそっと頭を横に振って、こう言った。
……世界に創造の力が溢れた時に、また会おう。
その言い伝えが、この世界で広く信仰されている精霊教の大元だ。
精霊は言う。
決して創造の力を暴走させてはならない。それはこの世界を滅ぼすものだ。
だが、もしも創造の力が溢れたときには、“十番目”が降臨してこの世界を救うだろう――これが精霊の教えといわれるものの要約で、精霊教の基本的な教義だ。終末思想。それとも、救世者思想というべきか。
ようするに、便利すぎる魔素に溺れず、節度ある態度を心掛けよう。ということだが、たとえばエルフたちは、この精霊の教えを忠実に守っている。
自分たちを敬虔な精霊の信徒だと自負するエルフは、そうした精霊の教えを他種族にも広め、伝えてきていた。
それに使われたのが精霊語だ。精霊語は、今では人間やエルフだけではなく、多くの魔物が扱う一般的な言語になっている。
自制と節制を説く精霊の教えだが、それはまったくの荒唐無稽な代物というわけではなかった。
「暴走する創造性」だなんて言われてもそれがどういう危機かはあまりピンとこないが、もっとはっきりと目にみえたものがあるからだ。
それが、瘴気。
魔素という存在に付随する副産物。
瘴気は、魔素を扱うと必ず生じるものだ。
ほとんどの生き物にとってひどく有害で、そしてこれが一番の問題だが、精霊にもどうすることもできない。
分解することも、消去することもできない。
魔素が使われる度に、瘴気はわずかにだが世界に溜まっていく。
瘴気が濃いところでは生命は活動できない。
微量なら問題にはならなくても、分解も消滅もしない以上、いずれいつか。どこかには、それは蓄積されていくのだから。
そのままではいずれ、この世界は生命が住めなくなってしまう。
だから、節度ある態度を心掛けろと、精霊の教えは言っているのだ。
この世界に生きる多くの生き物は、多かれ少なかれ魔素の恩恵を受けて生きている。
その使用を禁じることはまず不可能だ。
生きるために、どうしても魔素を利用しなければならない生き物もこの世界にはあるのだから。
だから、極力でも魔素の無駄な使用を控え、瘴気の発生を抑えて、“十番目”の登場を待つ。
そういう意味では、とても実際的な教えだと思う。宗教というものは、元々がそういうものなのかもしれないが。
だが、今ではその心配はない。
何故なら、瘴気がなくなってしまったからだ。
とある不定形が、自分自身を世界中に行き渡らせることで、この世界に根本的に存在していた不備――瘴気という、やがて必ず訪れる破滅の未来は回避されてしまった。
今やこの世界に瘴気は発生せず、人や魔物は相変わらず魔素に溺れるようにして生きている。
……“十番目”の子どもだけが、残された。
◇◆◇
「――マギ、ほんとにマギ!? いったいどうしたのよ、その恰好!」
相手に向けようとした言葉をほとんどそのままぶつけられて、俺は狼狽えた。
「いや、恰好って。そんなの、むしろこっちが――」
「すっごい背が伸びてる! あたしの方がおっきかったはずなのに! どういうこと、なにか魔法の薬でも飲んだの!? もしかして、またアラーネ先生の実験?」
覚えのある名前を聞いて、少しだけ落ち着きを取り戻す。
混乱している気分を無理矢理に押さえつけて、ゆっくりと訊ねた。
「……アラーネ先生のこと、わかるんだな」
ルヴェ、だと思われる少女は、それを聞いて変な顔になって、
「なに言ってるの。二人で、住み込みにさせてくれってお願いに行ったじゃない。けっこう無理やりにさ。まさか、忘れちゃったの?」
――アカデミー時代の記憶がある。
なら、次だ。
俺は、隣で驚きに目をみはっているマナに目をやって、
「マナのことはわかるか?」
「もっちろん! よかった、無事だったんだね」
にかっと笑ってみせるルヴェに、マナはこくこくと頷いてみせる。表情は、傍から見てもひどく動揺しているとわかるものだった。
それを確認しながら、
「ええと。ルヴェ。マナは君の、その――」
「ん? あたしの子だよ? あれ、言ってなかったっけ?」
自分とほとんどおなじくらいの年頃にしか見えない子ども、という不自然さに、ルヴェはまるで気づいていないらしかった。
カーラも、タイリンも、目の前の事態に言葉を失っている。
二人とも、以前にルヴェと会ったことはあるから、驚くのは当たり前だろう。
それで俺はふと思いついて、
「ルヴェ。イラドのこと、覚えてるか?」
赤ん坊のマナを連れたルヴェと会った開拓村のことを訊ねると、ルヴェは眉をひそめた。
「イラド? ごめん、わかんない。それって誰かの名前だった?」
あの時の記憶がない。
というより――ある時期以降の記憶がない。いや、それも違う。
今、目の前にいるルヴェは、ある時点の彼女なのだ。
記憶では、このルヴェの外見はアカデミーに入って間もなくの頃だ。多分、一年目とか二年目とかだろう。
ルヴェと俺は同い年だったはずだから、十二歳か十三歳。そのあたりだ。
その数字が、マナのそれとほとんど同じだということの意味を、俺は考えないわけにはいかなかった。
ただの偶然なのか? それとも――。
マナを見る。
こちらの視線に気づいたマナが、怯えるように目線を逸らした。……しまった。怖い顔にでもなってたか。
いかんいかんと目元を揉みしだいて、息を吐く。
「マギ? どうかした?」
目を開けると、不思議そうにこちらを見上げてくるルヴェの顔が映る。
その表情はとても懐かしいもののはずで、けれど、なぜか懐かしさより違和感の方がはるかに強かった。
少し考えてから、その理由に気づく。
俺が彼女を見下ろすなんてこと、昔はなかった。そんなこと一度だってあっただろうか。
――彼女はずっと見上げるだけの存在だった。
「マスター……」
心配そうなカーラの呼びかけに、俺は頷いて、無理やりに頬を緩めてみせた。
多分、ほとんどひきつっているだろうと自覚しながら、
「とにかく、まあ。再会できてよかった。……そうだな。とりあえず、話もあるし、どこか休めるところを探そう。タイリン、近場で良さそうな場所を見繕ってくれるか」
タイリンは黙ってこちらを見ると、こくりと頷いた。すぐに森のなかにその姿が消える。
「じゃあ、あたし、荷物とってくるね。いきなり襲われちゃってさ」
「あ、じゃあ。僕も――!」
すたすたと歩いていくルヴェを、マナが追いかけていく。
カーラが物問いたげにこちらを見ていることに気づいて、
「カーラ、ついてってやってくれ。一応、念の為」
「……わかりました」
カーラが二人のあとを追いかけていって、一人になった俺は、頭を抱えてその場にうずくまった。
正確には一人というわけではなかった。
今も樹の上ではツェツィーリャがいてくれるだろうし、
「マスター」
影からではなく、目の前から聞こえてきた声に顔をあげる。
そして、絶句した。
目の前にいる不定形が、にっこりと笑う。
スラ子は、その容姿がいつもより幼かった。ほとんどさっきのルヴェと変わらず、ただ全体の薄青さとふよふよと浮かぶような長い髪だけが違っている。
「……なんの真似だ、それは」
「マスターが、ルヴェさんをじっと見てましたから」
スラ子は拗ねたように頬をふくらませて、
「やっぱりちっさいほうがいいのかなーと思いまして! こんなんなってみましたっ」
「いや、そんなんで胸をはられても」
「マスターのちっさいモノ好き疑惑は、根深いですから」
スラ子は唇をとがらせて、
「ドラちゃんの時もそうでしたし。このあいだ、わたしが戻ってきた時も、気づいたらシィがいっつもベッドで一緒に寝てましたし!」
「いや、それは……お前がいないあいだ、シィがずっと寂しがってたからしょうがないだろ!?」
「だからって、二人で仲良く眠ってるのを見たわたしの気持ちがわかりますかっ!? わたしに気づいたシィが、そっと場所を譲ってくれるんですよ! シィの眼差しがすっごく大人で、逆にいたたまれなくなりました!」
「そりゃシィの方がお前より何倍も年上だろうよ」
むう、とスラ子は不満そうに睨みつけてくる。
それがただの冗談で、こちらを気遣ってくれているからだということもすぐにわかったから、俺は苦笑して、礼を言った。
「さんきゅ」
「ふふー。この姿、そんなに気に入りました?」
「いや、そうじゃなくて」
頭を振って、息を吐く。
「……にしても、参ったな。前に会った時にルヴェが若いままだったから、そういうことなんだろうとは思ってたが。次会った時には、まさかアカデミーの頃の姿になってるとは」
そこではたと思いついて、
「スラ子。あれが本当にルヴェか、お前にならわかるか?」
「はい。あれはルヴェさんです」
スラ子は答えた。
「マスターが知っている、ルヴェさんです。それは間違いありません。ただ……」
「ただ?」
「ルヴェさん本人ではありますけど、マスターが知ってる“昔のルヴェさん”ではありません。その頃のルヴェさんが、マナくんのことを知っているわけがありません」
そりゃそうだ。
俺は頷いて、
「つまり、俺が知ってるアカデミー時代のルヴェに、マナの記憶を足した状態か。……逆か。現在のルヴェが、マナの記憶だけを残してアカデミーの頃に戻っちまってるわけだ」
「はい、そういうことだと思います」
それは、単に若返ったとかいう話じゃない。
ルヴェの記憶はアカデミー時代のものなのだから。以前、イラドの開拓村で俺たちと会ったことも覚えていない。
ひどく恣意的に、忘れている――というよりは、失くなってしまっている。
まるで、ルヴェのなかでは事実そのものが存在しないかのように。
この十年の記憶を、その存在ごと喰われてしまっているようだった。
「……一筋縄じゃいかないな」
この世界に現れた“十番目”。
無限の創造性に対する、反創造。
それが厄介なものだってことは、考えるまでもなくわかっていたことだった。
こくりと頷いたスラ子が、
「あの子の存在は、この世界に関わる誰もが関知しえません。全ての創造の、反対性ですから。関知できないということから、推し量ることしか。もし、この世界でそれができる相手がいるとしたら――」
「ストロフライ、か」
スラ子の言葉をひきとって、俺は息を吐いた。
世界で最強の――それ以上の範疇でさえ圧倒的に最強の、黄金竜。
この世界の異端種である竜族のなかで、さらにぶっちぎって異端であるストロフライなら、マナについても理解が及ぶかもしれない。
少なくとも、俺が想像するなかで、ストロフライの手に余るもの、なんてまるで思いつかなかった。
ただし、問題は、別に手に余らないものはなかったとしても、だからといってあの気紛れな相手がそれを自分の手に取ろうとするとは限らないということだ。
「……まあ、今は帰省しちゃってるしな。いつ戻ってくるかわからないし、それまでやれることはやっておこう。なんでもかんでもストロフライ頼みってのもあれだ」
「ふふー。愛想つかされちゃったら大変ですもんねっ」
「そうとも。そんなことになったら世界がヤバい」
本当に、欠伸一つでこの世界を消滅だってさせかねない相手だから恐ろしい。
向こうからルヴェたちが戻ってくる気配を感じて、俺はよいしょ、と立ち上がった。
「マスター、おじさんみたいです……」
「うるせ。……お前の調子はどうだ」
俺が訊ねると、幼い見かけのスラ子は自分の手元をしげしげと見つめて、
「そうですね。だいぶ、戻りました。完全復調ってわけにはいきませんけれど」
「わかった。じゃあ、休んでろ。また頼ることがあるかもしれない。……なるべく、そんなことにはならないようにするけどな」
くすり、とスラ子は微笑んで、
「了解ですっ。じゃあ、休んでます」
「ああ、それと」
足元の影に消えようとする相手に、呼びかけた。
「はい?」
振り向いたスラ子に、
「いつもの外見のほうがいい」
スラ子は目をぱちくりとして、それからふふー、とやけに妖艶な笑みをかたちづくって、
「わかりました。じゃあ、この姿に飽きたら戻ります!」
「飽きるまではそれなのかよ」
俺は呻いた。