二話 これまでと、これからのこと
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その人は、燃えるような赤い髪をしていた。
後ろで括っただけのその長い髪は躍動感に満ちていて、特に、朝焼けの陽射しを受けると本物の炎のように輝いて、その姿を見上げるのが少年は好きだった。
振り返った相手がにかっと笑う。
にこりでも、ニヤリでもない。
子どもみたいな笑顔だ。少年はずっとそう思っていたが、本人に言ったことはない。
「どうしたの?」
黙って頭を振ると、悪戯っぽく笑った相手からぐりぐりと頭を撫でられてしまう。
「なぁに、隠し事? マセちゃってさ!」
「マセてなんかないよ」
「マセなさいよ。子どもがマセなくて、いつマセるのよ」
言ってから、女性はふと真剣な表情になって、
「……マセるって、どういう語源なんだろうね。知ってる?」
「知らない」
いつまでも撫でられているのを嫌がって、少年は相手から距離をとった。
子ども扱いは嫌だった。
でも仕方ないと思っている。自分は子どもで、そして目の前のこの女性の「子ども」なのだから。
女性はルヴェと言った。
実際にそう名乗られた覚えがあったわけではないが、物覚えがついた頃にはすでに少年は相手をそう呼んでいたし、相手もその呼ばれ方を嫌がることはなかった。
もっと違った呼び方があることは知っていた。
でもそれは、別に気にはならなかった。きっと二人きりだったからだろうと思う。それで、とても自然だった。
二人で、旅をしていた。
そのことについても、特に不思議に感じることはなかった。
生まれた時からずっと旅をしていたからだ。そういう人たちはけっこういると、少年の母親である赤髪の女性は言った。
「今時はどこも治安が悪いからね。町だって誰でも彼でも受け入れてくれるわけじゃないし。町と町のあいだの街道にだって魔物は出るから、護衛は必要になる。だから、それを仕事にして、ずっと行き来しながら生活してる人だっているよ。『街道掃き』っていうけどね。まあ、この国じゃそういうの全部含めて『冒険者』だけど」
「ルヴェも冒険者?」
少年が訊ねると、赤髪の女性は肩をそびやかすようにして、
「あたしは、冒険家! 自称だけどね」
「なにが違うの?」
「さあ? 気分の問題かもね」
「……じゃあ、『冒険家』っていったいなにをするの」
「そうだなぁ。まだ誰も行ったことがない場所に行ったり、古い遺跡を探してみたり、そこでお宝を見つけたり、とか。かな」
「ルヴェも、お宝を見つけたこと。ある?」
「もっちろん」
赤髪の女性はあははと笑って、
「どっかの遺跡じゃ、赤ん坊を拾ったことだってあったっけ!」
実際に、少年は赤髪の女性に連れられて遺跡に入ったこともあった。
そうした遺跡はほとんどが手つかずではなく、明らかに誰かが侵入した形跡があるものばかりだったが、なにもかもが暴かれ、持ち去られてしまっているように思えるそんな場所で、赤髪の女性は不思議とよく隠された小部屋を探りあてた。なんとなくわかるんだよねぇ、と女性は言った。
そこから色々な小物なんかを持ち帰り、女性はそれをお金に換えていた。
「世の中、先立つものは必要だからね」
その相手は道中で出会う商人相手のことが多かった。ごく稀に町に寄ることもあるが、それはとても珍しいことだった。
少年は町が好きだった。
人がいて、物がある。
大きな街だと建物がずっと先まで並んでいて、広場には噴水なんかもあったりした。
少年はもっと町に行きたいとせがんだが、赤髪の女性は困ったように笑うだけだった。そのことが、ほんの少しだけ少年は不満だった。
赤髪の女性が浮かべる表情の理由に少年が気づいたのは、少ししてからのことだ。
町が魔物に襲われたところに出くわしたのだ。
ちょうど遺跡から見つけた物品をお金にしようと寄っていた時だった。
道中で交換を持ちかけられる商人と出会わず、手持ちの食糧が尽きかけていたから、近くの町に向かった。
そこで、襲撃があった。
たくさんの魔物がどこからともなく現れて、それを迎撃しようと武器を持った人がいて、そこから逃げ出そうとする人もたくさんいた。
あちこちで炎があがって、町はひどい惨状だった。悲鳴や怒声が行き交い、絶叫と咆哮が錯綜していた。
混乱した町のなかを、赤髪の女性に腕を引っ張られて少年は走った。
「ルヴェ、どうして逃げるの! 町の人を、」
――助けないの。
振り返った女性が辛そうに顔を歪めているのを見て、少年は口を閉ざした。
後ろを振り返る。
たくさんの魔物が追ってきていた。町には目もくれず、自分たちを。
少年は気づいた。
狙われているのは町じゃない。
襲われているのは、町の人たちではなかった。
赤髪の女性は逃げているのではなく、町を救おうとしているのだった。無関係な町や、そこに住む人々を遠ざけようとしている。
狙われてるのは、僕だ。
その日から、少年は二度と町に行きたいとは言わなくなった。
「大丈夫?」
背後からの声に、はっとして顔をあげる。
振り返ると、自分を助けてくれた短髪の女性が立っていた。
目を見開き、少年は大きく息を吐いた。相手に駆け寄って、
「よかった……! 無事だったんだ、――ですね」
「うん。君も無事でよかったよ」
にこりと微笑んでくれる相手に、少年は深々と頭を下げた。
「あの、助けてくれて、ありがとうございました。……大丈夫ですか?」
見れば、女性はあちこちがボロボロになっていた。
自分もひどい恰好だけど、もっとひどい。血だってたくさんついていて、少年はそれがとても気になったが、相手は穏やかな笑みを湛えたまま、
「うん。大丈夫。あ、でも汚れちゃってるから、ちょっと洗わせてね」
水辺のほうに歩いていく。
ぱしゃぱしゃと泉で手を洗いながら、誰かを探すように女性は顔を巡らせた。
「どうかしたんですか?」
「ううん。あのね、女の子、来なかった? 君とおなじくらいの背の、てっぺんで髪の毛を括ってる子なんだけど」
「あっ。その子なら……」
ちらりと視線を向ける。
少し離れた岩のうえで胡坐をかいた女の子は、じっと睨みつけてきている。その視線を、少年はずっと背中に感じていた。
「タイリン。どうしたの、こっちにおいでよ」
女性が声をかけると、不承不承という風に近づいてくる。
「自己紹介、した?」
女の子は黙ったまま頭を振った。視線はひたと見据えたまま。
俯きがちに、少年も相手の視線から逃れるように目を合わせなかった。
困ったように腰に手を当てた女性が、
「もう。ちゃんと自己紹介しないとダメだよ?」
「……タイリン」
「……マナ、です」
女性がため息をついた。
「タイリン、あのね」
「――あっちで、見張ってる」
女性の声を遮るように、女の子は遠くに駆けだしていってしまう。
もう一度、女性がため息をついた。
「ごめんね」
「いえ……」
少年は俯いて頭を振った。仕方ないと、思っていた。
「あ、こっちの自己紹介がまだだった。――ボクはカーラ。よろしくね、マナ」
手を差し出した女性が爽やかに笑いかける。
自分の目の前に差し出された手に、少年は相手の顔を見上げて、また視線を落とした。
そこにあるのは、大人の手だった。よく知っている誰かのそれとは違う。そっと手を握ると、温かさはよく似ていた。
たちまちに視界が滲む。嗚咽を堪えきれず、全身が震えた。
女性の手に触れたまま、しばらくのあいだ、声を殺して少年は泣いた。
「……あの日のことは、あんまり覚えてなくて」
あまり知らない人の前で泣いてしまった恥ずかしさに顔をあげられないまま、少年は話し始めた。
あの日――赤髪の女性と、自分が別れた時のことについて。
「たくさん、魔物がいて。魔物に追われるのは、いつものことだったんだけど。その日は、いつもより、もっといっぱいいた。お母さんが、僕を逃がそうとしてくれて。――先に行け。走れって。それで、一人で逃げようとしたんだけど。気になって」
「ルヴェさんのことが?」
「うん。……はい。それで、振り返ったら、お母さんが倒れてるのが見えて。僕、頭が真っ白になって。多分、なにかが光ったんだと思う。それで――」
「それで?」
「……気づいたら、いなかった」
女性が眉をひそめる。
「いなかった? ルヴェさん? それとも、追いかけてた魔物のこと?」
少年は頭を振って、
「誰も、なにも、いなかった。炎も、森も、全部、全部なくなってて。怖くて。多分、あの光みたいなのが、消しちゃったんだと思う。たくさんいた魔物も。――お母さんも。それで、怖くなって。そこから逃げ出したんだ。走れって、そうお母さんに言われてたから」
「……その後で、ボクたちと会ったんだね」
黙って頷く。
そう、と女性が息を吐いた。
俯いた少年の頭に温かい重みが触れる。女性の手で優しく撫でられて、
「大変だったね」
――また、泣いてしまいそうだった。
歯を食いしばって、少年は堪えた。
目をかっと見開いて、涙がこぼれ落ちないように我慢する。
いつの間にか、周囲はすっかり暗くなってしまっていた。
ほうほうと森から鳥の声が聞こえてくる。
すぐ近くに明かりがあることに気づいてそちらを見ると、女の子が松明を持って突っ立っていた。
不機嫌そうなまま、ぐいと松明を押しつけられて、少年は戸惑いながらそれを受け取った。ふん、とそっぽを向く女の子。
それを見た女性がくすりと笑い、
「行こっか。お腹、空いたでしょ?」
「……うん」
少年は頷いた。
◇◆◇
一人でひたすら鍋をかきまわしながらそのかきまわした数をかぞえて、いい加減にそれにも飽きた頃になって、ようやく三人が戻ってきた。
「おう、夕飯できてるぞー。ていうか、待ちくたびれた」
「すみません、マスター」
左右に同じくらいの背丈の子ども二人を従えたカーラがぺこりと頭をさげる。
その右隣にいるマナは、焚火の明かり加減のせいか、泣きはらしたような顔つきで、反対側のタイリンは、これははっきりと不機嫌そうな表情だった。
なにかあったに違いないが、そんなことより腹が空いているだろうと俺は人数分の椀を用意して、それぞれに鍋のスープを注いでいった。
「よーし食え食え」
無言で、渡されたお椀を一口したマナが目を丸くして、
「美味しい!」
「おう、そーだろそーだろ。おかわりもあるぞ」
「……これ、なんのお肉ですか?」
「兎だ。俺が獲ったわけじゃないけどな」
「じゃあ、誰が獲ったんですか?」
「腕がいい捻くれ者のエルフがいてな、――痛ッ。こら、石を投げんな!」
樹上から、ふんっと鼻を鳴らされる。
不安そうに上を見ているマナに、
「……まあ、そのうち顔を見ることもあるだろうから、気にしないでいい。それより、もっといっぱい食え。子どもってのはよく食うもんだ」
空になっているお椀を強引に奪って、おかわりを注いでいると、ひょいと姿を見せたスラ子が、
「マスター。よくいる世話焼きおじさんみたいになってますっ」
「俺はまだお兄さんだ!」
「……あの、」
複雑そうな表情で、マナがスラ子を見ていた。
「あなたは、どうして。……その、マギさんの影のなかにいるんでしょうか?」
ふふー、とスラ子が笑った。
蠱惑的に目を細めて、人差し指を唇に当てる。
言った。
「――わたし、シャイなんです」
「どの口が言うかァ!」
俺は吠えた。
「だってあんまり人前に姿を見せてないじゃないですかっ。れっきとしたシャイガールです!」
「人前に出てないからシャイだってんなら、どっかの口悪乱暴エルフも立派なシャイエルフだろうが! そんなわけあってたまるかっ」
「うるせえ! オレを巻き込むんじゃねえ!」
樹の上から怒鳴り声が降ってくる。
「マギ、うるさい」
冷ややかな半眼で、タイリン。
その隣でカーラは苦笑を浮かべていた。
俺は残る一人に目線をやって、それまでぽかんと目の前の成り行きを見守っていたマナが、くすり、と小さく笑ったのを見て、スラ子と目線を合わせた。――ぐっじょぶです、マスター。――おう、お前もな。
無言のジェスチャーを交わしてから、こほんと咳をつく。
「さて。んじゃ、飯も終わったところで、これからの話をしよう」
「これから……?」
眉をひそめるマナに、
「そうだ。マナ、お前との合流はできた。俺たちは、お前と、お前のお母さんを、俺たちの家――まあ、ダンジョンなんだが。ダンジョンに連れていくことになってた。そういう約束をしてたからな。だから、普通に考えればこれからそのダンジョンに向かおうって話になるわけだが」
「でも、」
口を挟もうとしてくるのにさっと手を向けて、
「まあ、いいから聞け。だが、困ったことに、俺たちの予定じゃダンジョンには二人を連れて帰るはずだったのに、今ここには一人しかいない。マナ、お前だけだ。これじゃあ、ちょっとばかり今後の予定が違ってくる」
マナの顔がぎゅっとしかめられた。
唇を噛み締めて、両の拳をにぎりこむ。
自分が非難されていると思ったのかもしれない。もちろん、俺にはそんなつもりはなかった。
「でも。お母さんは――」
「見たのか?」
振り絞るように苦しげな言葉に重ねて、俺は訊ねた。
マナが顔をしかめる。
「見たって?」
「ああ、そうだ。マナ、お前は見たのか? ルヴェが死ぬところを、その目で見たか?」
「マスター……」
咎めるようなカーラの視線が向けられるが、俺はそちらを見ず、目の前の相手を見据えたまま、繰り返した。
「答えろ、マナ。お前は、自分の母親が死ぬのをその目で見たんだな?」
「見てない、けど。でも」
震える声で、激しく頭を振る。
「そんなの。だって、あんな状態じゃ……!」
「なら、確かめよう」
マナの目が、ぱちくりと瞬きした。
「……確かめる?」
「ああ、そうだ。本当にルヴェが死んだのかどうか。現場を見てみればいい。悪いが、マナ。俺はどうにも信じられないんだ。――俺の知る限り、人間って種族のカテゴリーで、彼女以上に『死なないだろう』って奴はまずいない。魔物が渦巻くアカデミーで、たった一人でその全員と渡り合ってたような女だぞ? しかも十歳そこそこでだ。そのルヴェが、そんなあっさり死んじまうだなんて、俺には納得できない」
「それって。つまり――」
こちらの言いたいことを理解したのか、瞳が大きく見開かれる。
今までどうやっても表情のどこかに色濃く貼りつくようだった深い影に、さっと光が差したようだった。
俺は頷いて、
「ああ。――お前のお母さんを、探しに行くぞ」
……全員が寝静まった頃。焚火番をしながらうつらうつらしていた俺の背後に、音もなく誰かの気配が立った。
「なんだよ、兎スープならもうないぞ」
「いらねーよ」
吐き捨てるように、銀髪のエルフ――ツェツィーリャが言った。
ちらと視線を向ける。その視線の先には、カーラに寄りそうようにして眠っているマナの姿。ちなみに、反対側にはタイリンが抱きついていた。夜はけっこう冷える。
「……調子のいいこと言いやがって。本当に生きてると思ってやがんのか?」
「さあな」
俺は正直に答えた。
「俺が、ルヴェが死んだってのを信じられないでいるのは事実だよ。それが起こった現場を、見てみたいってのもな。……辛いかもしれないけどな。だけど、いつまでも目を逸らしておくわけにもいかないだろうさ。マナのためにもな」
はっ、とツェツィーリャが鼻で笑って、
「あんなガキのために、随分とお優しいこった」
俺は顔をしかめた。
「そっちこそ、随分な言い草だな。あの子は、お前らエルフがずっと待ち望んでた相手じゃないのか?」
「その役目を台無しにしやがったのは誰だ? 手前らだろうが。今さら、用無しが現れてなんの意味がある。――里の連中は、別の意見かもしれねえがな」
「……用無し、か」
率直すぎる言葉に、俺は苦々しい気分で呻いた。
「ああ、そうとも。哀れなモンさ。救うはずの世界が、とっくに救われてたなんてな。残されたのは、自分にも把握できない厄介な“力”だけってわけだ」
射るような眼差しがこちらを見据えた。
「手前があいつを助けようとしてるのは同情か? それとも罪滅ぼしのつもりかよ? どっちにしたって勝手な話だ」
「それだけってわけじゃないさ」
「じゃあ、なんだ」
俺は息を吐いて、
「……子どもってのは。泣いていい。怒っていい。わめいていい。縋っていい。頼っていいんだ。そうだろう? 大人は、子どもにそうさせるもんだ。マナ。あいつはてんでガキで、俺は大人だ。子どもを助ける理由なんざ、それ以上が必要あるのかよ」
「あれが普通のガキだってのか?」
「普通じゃなくったって、ガキはガキだ」
引き絞るように目を細めたツェツィーリャは、はっと哀れむような息を吐いて、背中を向けた。こちらの視界から消えて、
「そうやって、なにもかも抱え込めるとでも思ってやがるのか? 手前の程度を知らねえと、いつかパンクしちまうぞ。――クソったれ」
声が途絶える。
くすり、とスラ子の笑みが届いた。
「相変わらず、ツンデレさんですねぇ」
「ああ。まったく、愛情表現がヒネくれまくってるな」
俺はやれやれと頭を振って、弱まりかけていた焚火に枝を挿し足した。置き場所を微調整しながら、反芻する。
……どれだけ抱え込むつもりだって?
そんなの決まってる。
なにもかも、だ。