十一話 頭痛のタネ
俺がベッドから起き上がることができたのは、二日後のこと。
昨日は一日中、頭のなかで銅鑼が鳴りっぱなしだった。
一日たって、さすがに頭痛はいくらかやわらいではいたけれど、奥の方には鈍い痛みがしつこく居座り続けている。
……二日酔いなら、今まで何度か経験もあるが、三日酔いだなんていうのは生まれて初めてだ。
なんなら、一日どころかそれ以上に寝込んでた気さえするくらいだが。
「なんで、こんな目に……あわなきゃいけないんだ……」
自分の声にぎょっとした。
何度も吐き戻して、すっかり胃液に焼かれた喉の奥からでてきたのが、まるで老人みたいにしわがれていた。
喉の奥がじくじくと痛む。
しかも、不快なことにその痛みは一旦意識すると、ますます強まっていくようで、いっそ思い切り掻き毟りたいほどだが、喉の奥に手を突っ込むことはできない。我慢して悶えるしかなかった。
「くそっ。酒なんて、もう、絶対に飲まないからな――」
鈍痛がおさまらない頭を抱えながら、そんなことを呻いていると、がちゃりと部屋の扉がひらいた。
「そんなこと言って、どうせまた飲んじゃうんですから」
姿を見せたのはスラ子だ。
呆れ顔の後ろには、こちらは心配そうに眉をひそめたシィもついてきている。シィは両手にお盆を持っていた。
「いいや、俺は、決めた。絶対に、もう二度と、酒なんて飲まない……っ」
「うんうん、偉いですねー」
まったく信用していない調子でうなずきながら、スラ子がこちらの顔を覗き込んだ。
「これはまた、とびっきりにひどい顔ですねえ」
「ほっとけ。……シィ、水を持ってきてくれたのか?」
ベッドの傍にやってきたもう一方の相手に訊ねると、シィはこくりと頷いてみせた。
手に持ったお盆を揺らさないように慎重な所作で、その上に載った木製のコップを差し出してくる。
「助かる。ほんと、喉がカラカラだ」
感謝しながら受け取ってから、コップの中身がただの水じゃないことに気づいた。
ちらとシィを見ると、無言のまま、緊張している様子でこちらを見つめている。
スラ子を見れば、こちらはにっこりと微笑むだけ。
なんとなく、その中身を察して、俺は黙ってコップに口をつけた。
入っていたのはどろりとした液体。
口に含むと、あまり馴染みのないような種類の匂いがいっぱいに広がり、顔をしかめそうになるのを我慢する。むせそうになるのを堪えながら喉の奥に流し込むと、粘性の高い液体がゆっくりと食道を流れ落ちていった。
その効き目はすぐに実感することができた。
嚥下した途端、ひりつくようだった不快な喉の痛みが嘘のように消えたのだ。魔法のようだった。
「……おお、すごい」
思わず呟きが漏れるが、それも喉にひっかかることなくすんなりと声にでた。
「全然、喉が痛くなくなった。なんだ、これ?」
それまで不安そうにこちらを見つめていたシィの表情が輝いた。
ほっと息を吐いて、嬉しそうにはにかんでみせる。
「妖精さんたちに伝わる秘伝のお薬だそうですよ。シィが昨日、いそいで材料を集めてくれたんですっ」
答えたのはスラ子で、自分のことのように得意げだった。
えへんと胸を張る不定形の隣で、無口な妖精は照れくさそうに背中の羽をぱたぱたさせている。
「そうなのか。いや、本当に楽になった。ありがとな、シィ」
喉の痛みはほとんどひいて、さすがに頭の奥の鈍痛は残っているが、不思議とそちらも弱まったような気がする。
ただの気のせいだろうが、そんなことは一向にかまいやしなかった。
ふんわりとした銀髪を撫でると、シィはくすぐったそうに首をすくめて、猫みたいに微笑んだ。
「材料を集めるの、大変だったんじゃないか? もしかして、昨日は一日中探してくれたのか?」
「……それは、その」
陽だまりでまどろむようにしていたシィが、笑みをひっこめてこちらを上目遣いに見やる。
困ったように隣に視線をおくった。
つられて俺もそちらを見る。
そこには、まださっきの胸を張った姿勢のままのスラ子がいて、ぐいっとさらに胸を押し上げるようにしながら、
「お薬の材料はけっこうすぐに集まりましたし、実は昨日のお昼前にはお薬そのものも出来上がっていたのでした!」
と、のたまった。
「へえ。……いや、ちょっと待て」
簡単に頷きかけてから、俺は顔をしかめて、
「それじゃどうして、すぐに飲ませてくれなかったんだよ」
そうすれば、三日酔いだなんてそんな羽目にはならなかったかもしれない。
非難ではないが、幾らかの不満を含んだ俺の物言いに、スラ子はにっこりと満面に微笑んで、
「わたしから、ちょっと待ってもらうようにお願いしたんです。マスターには、すこぅし、反省していただいたほうがいいかと思いましたので」
穏やかな口調のなかに不穏な気配。
俺は黙って、ゆっくりと今の言葉の意味を考えた。
スラ子の様子をうかがう。
青く透き通った長髪を、宙に流すようにたたえた不定形の美女は、いつものように柔和な笑みを浮かべていて、かえってそれが怖かった。
一昨日の宴会。
そこでの、自分の醜態については記憶がある。あるつもりだったが――
スラ子の剣幕から察するところ、覚えていないことも多分にありそうだった。
それどころか、記憶にないところでなにかとんでもないことをしでかしてしまっているかもしれない。
とんでもないことの詳細は不明だ。
なぜって、本当におれがなにかやらかしてしまっていたとしても、その時の記憶が俺にないのだから。
もちろん、記憶がないからといって、酔ってしたことが許される道理がない。
覚えていないのだから謝ることもできないし、自分の行状についてこの場で確認するのも恐ろしかった。
じゃあ、どうすればいい?
どうやってこの場を切り抜ける?
答えは――これだ。
俺は、無言でコップの残りを飲み干して、
「――昨日は、どうだった? ダンジョンでなにか変わったことは?」
男らしく話題をそらした俺に、スラ子のジト目が突き刺さった。
俺はそっと目線をそらす。
ここで堂々と開き直れないあたりが、きっと俺という人間の限界だと思う。
まったくもう、とため息をついたスラ子が、
「……特にご報告することはなかったと思います。マナさんとルヴェさんは、ダンジョンで働いている魔物さんたちに興味があるようで、色々と見学したり質問したりされていましたけど、危ない場所に行くようなことはありませんでした。昨日は、珍しく冒険者さんたちもいらっしゃらなかったですし」
「へえ。珍しいこともあったもんだな。……もう一人のお客の方は?」
俺が気になっていたのはそっちだった。
「アンテロさんでしたら、ダンジョンのなかを見てまわられていました」
「なにか探ってた感じか?」
「一応、わたしも気をつけてはいたんですけれど。偵察とか、そういう様子ではなかったですね。どっちかというと、もっとこう純粋に気になって仕方ないような」
俺は首をかしげた。
「……どういう意味だ?」
「なんといいますか、このダンジョンの環境に、納得がいかれてないみたいです。上下水と中水の区別がなっとらんとか、怒っていらっしゃいました。マスターの体調が戻ったら話をさせてほしいってことでしたけど」
「はあ。まあ、地下暮らしについちゃ、向こうが先輩になるんだろうしな」
一昨日、本人から聞いた話によれば、とっくの昔に滅んだとされていたドワーフ族は、実はずっと地下の奥深くで生きてきたらしい。
いわば地下生活の玄人というわけで、俺たちのような新参の地下暮らしについて物申したいことくらいあるかもしれない。
もっとも、一昨日の話というのが本当に正しいとは限らない。
今のところ、アンテロから聞いたことには裏付けもなにもないからだ。
ただ、地下から突然姿を現した毛むくじゃらの大男が、自分のことをドワーフだと名乗っただけ。あくまで自称だ。
正直に言ってしまえば、俺はアンテロのことを疑っていた。
その正体はもちろんだが、動機のほうも怪しい。
アンテロいわく、ある日、とんでもない大声が地下まで響き渡ったので、いったいなんの騒ぎかとここまで土を掘り進めてきたという話だった。
ストロフライの声が聞こえたのは、おそらく嘘じゃないだろう。
実際、あの“宣言”は、その直後に世界中にばらまかれた“金貨”とあわせて、文字通りの世界中を大混乱に陥れたからだ。
俗にいう「ストロフライの魔王災」だが、おかげで俺までその元凶としての片棒を担がされる羽目になった。
世界中のあらゆる植物に季節外れの満開を強要するくらいだから、地下深く、その底の底にまであの声が届いていたって不思議じゃない。
不可解なのは、そのストロフライの“宣言”を聞いたというアンテロが、どうしてそれでのこのこと姿を見せる気になったのか、ということだ。
もちろん、ある日いきなり意味不明な大声が聞こえてきたら、何事だと思うのは普通だ。
詳細を知りたいと思うのも道理だろう。
だが、アンテロ自身の言葉を信じるなら、彼は伝説にあるドワーフ族で、大昔に地下に潜った種族のはずだ。
彼らが歴史から姿を消した理由が、お伽話にあるようなエルフとの確執にあるのかはわからない。
地上を逐われたのか、あるいは自ら地下を望んだのか。
いずれにしても、彼らはある時に地上から姿を消し、以降、その存在の痕跡さえ容易に残すことはなかった。
そのドワーフが、なにやら大声でわめいている竜の声が聞こえたからという理由だけで、こうもあっさり他者の前に姿を見せるものなのか?
わざわざ半年ものあいだ、こんな地上近くまでえっちらほっちらと土を掘り進めてまで。
ドワーフがやってきた。
それはいい。
だが、その理由がただの好奇心というのはなんだか頷けない。
そんなに好奇心旺盛な連中なら、何百年も大人しく地下に引きこもっていられるとは思えなかった。
あるいは、ドワーフという種族が、実は俺なんて及びもつかないぐらいの引きこもり気質を、種族全体の特性として持っているというだけかもしれない。
その場合、そうした特性から外れた変わり者というのが、俺たちの前に現れたアンテロというわけだ。
いくらでも深みに潜れそうな思考の渦から一旦、顔をあげて、俺は息を吐いた。
仮定の話を飛躍させても仕方ない。
なにかしらそれを裏付けるための情報が、判断のための材料が必要だった。
現状、アンテロの言葉を全面的に信用するわけにはいかない。
それ以外で情報を得られる相手といえば、と考えて、頭に浮かんだのは身近にいる二人の精霊のことだった。
風精霊シルフィリアと土精霊ノーミデス。
あの二人なら、アンテロの素性や、謎に包まれたドワーフ族のことについても知っているはずだ。
だが、素直に教えてくれるかどうかは別だ。
シルフィリアはただでさえ気まぐれだし、最近はなにやらツェツィーリャとも上手くいっていないらしい。ご機嫌顔で質問に答えてくれるとは思えなかった。
協力的という意味ではノーミデスに訊ねたほうがいいだろう。
だが、あちらはあちらで、シルフィリアとは違った意味で意思の疎通が難しいところがある。
二人のどちらへ、どういうふうに話を持ち掛けるべきかと考えていたところに、
「――スラ子」
ふと、もう一人の候補がすぐ近くにいることに気づいた。
「はい?」
「アンテロのこと、お前はどう思う? 本当にドワーフだと思うか?」
訊ねると、スラ子はちょっと考えるように腕を組んでから、
「どうでしょう。嘘をつかれているようには見えませんでしたけど――本物のドワーフさんなのかどうかまでは……わたしには、ちょっとわからないですね」
「そっか」
なんとはなしに頷いてから、違和感をおぼえた。
思わず、目の前の相手を見つめる。
「?」
スラ子が小首をかしげてみせた。
黙ったまま凝視しつつ、俺はスラ子の表情をつぶさに観察しようと試みた。
スラ子の表情に変化はない。
仮になにかしら思うところがあったとしたところで、俺のように目線をそらすような真似をするとは思えない。
しばらく見つめ合ってから、俺の方から視線を外した。
「いや、なんでもない。……アンテロはどこだ? 話があるってんなら、さっそく聞くが」
「多分、そのあたりにいらっしゃると思います。お呼びしましょうか?」
「ああ、頼む」
「了解ですっ」
にっこりと微笑んだスラ子は、シィをともなって部屋の扉に向かう。
その後ろ姿を見送りながら、俺はさっき覚えた違和感について物思いにふけろうと視線を落としかけて、
「マスター」
どきりと顔をあげた。
扉の近くで、スラ子がこちらを振り返っていた。
まっすぐにこちらを見据えている。
その表情は真剣で、なにかを言うべきか否か悩んでいるように見えた。
「……どうした?」
「こんな時に、こんなことを言うのは心苦しいんですけど……」
迷うように目線を伏せる。
俺は息をひそめて、次の言葉を待った。
顔をあげたスラ子が憂うように視線を流す。
そこにあるのは、俺の机と――その上に山のように積みあがった、報告書の束と束。
「お仕事がたっくさん溜まっていますので、よかったらちょっとでも目を通しておいてくださいね」
「あ、はい」
アンテロはすぐにやってきた。
書類の山を崩しにかかっていた俺は、そこである提案を受けた。
その内容は「生活環境を改善させてほしい」というもの。
昨日一日、ダンジョンを見てまわって色々と我慢できない部分があったので、自分に手直しさせてほしいということだった。
ドワーフといえば、卓越した技術力を誇っていたとされる種族だ。
鍛冶や道具。そうした生き方が自然を愛するエルフと仲違う原因になった、なんていう話も、通説としてはよく知られている。
その(自称)ドワーフにこの洞窟の生活環境について手を加えてもらえるというなら、ありがたい話ではある。
だが、もちろんそれだけじゃないだろう。
優れた技術者なら優れた技術者であるほど、自分たちの腕に自負もあれば誇りもある。
そうした職人は、決して自分を安売りしたりしないものだ。必ず、相応の報酬を求めてくる。
俺がそのことを尋ねると、アンテロはにやりと口の端を持ち上げた。
「話が早くて助かるの。実はそのことで、報酬というわけじゃないんじゃが、頼みたいことがあっての」
「その頼みっていうのは?」
「ここの地下のあたりの、地質をちょいと調べらせて欲しいんじゃ。ちょいと気になっての。じゃが、余所者に勝手にうろつかれるのは好かんじゃろ? だから、許可してくれるんなら、代わりにここの居心地を抜群に変えてみせようが」
視界でなにかが揺れた。
アンテロを部屋に連れてきて、そのままなにかあった時に備えるためだろう。その後ろに控えるようにしていたスラ子が、わずかに眉をひそめている。
俺は口に手をあてて考えた。
地下というのは、おそらく俺たちが下層と呼んでいる一帯だろう。
半年前からこっち、落盤などの危険があるから長らく使用していなかった領域だ。
そして、一昨日、ルヴェとマナを探すために足を踏み入れて、異常が見つかった場所でもある。
周りを埋め尽くすように蠢く、無数のスライム。
そして――その彼らによって、下層では半年前の戦い以前の様子が“復元”されていた。
……地下の調査。
アンテロは下層で起こっている異常事態について、なにか思い当たることがあるのか?
ここにやってきたのもそれが目的とか? それとも、ただ単に、偶然居合わせたからってだけか。
「地下のなにが調べたいんだ。地質? どういうことだ?」
わざととぼけた風を装って訊いてみると、アンテロは不思議そうに、
「主も一昨日、聞いておったろうが。スライムが群がって、随分と奇妙なことになっておったじゃろう」
「ああ、それは知ってる。報告書にもあがってるんだろうが、あいにく、昨日は一日中、寝込んでたもんでまだ目を通してないんだ」
俺は肩をすくめて、
「じゃあ、ああいうことは、あんたたちの住んでる地下のほうでも珍しいのか?」
「スライムやらがおかしな動きを見せてるのは確かじゃが、こっちとはまただいぶ様子が違うからの。じゃから、気になっておるのよ」
「そうなのか」
なんということのないように応えながら、俺は内心で顔をしかめている。
スライムがおかしな動き?
つまり、アンテロたちの住んでいるあたりでも異常が起きてるのか。
どういうことだ。
下層で起こっていることと、なにか関係が? それとも、これも偶然か? いやいや、さすがにそれは考えにくい。
視界のスラ子に視線をおくるが、相手はなんの反応も返してこなかった。
いや、ほんの少し、わずかに唇を噛み締めているようにも見える。
少しの時間を考え込んでから、俺は決断した。
「……わかった。だが、一人でってわけにはいかない」
「わしはかまわんが、誰が一緒してくれるんかの」
「俺が行く」
「マスター!?」
スラ子が非難の声をあげた。
視線はアンテロにむけたまま、俺はそちらに軽くうなずいてみせて、
「もちろん、俺一人じゃない。ちょうど、こっちもあの一体を調査しようと思ってたんだ。何人かだす。それに同行するって形でなら、あんたの行動を許可しよう」
「ほう。ああ、なるほど」
たくましい髭をなでながら、アンテロが目を細める。
「あくまで主導権はそちらにあるというわけじゃな。勝手はするなと言うわけか」
「そういうことだ。悪いが、どこにでも足を踏み入れていいってわけにはいかない。単純に危険ってこともあるし、余所の相手に見せたくないものだってあるからな。それでもいいか?」
「もちろん。わしはそれで一向かまわんよ」
破顔して、ドワーフを自称する大男は即答した。
「出発はいつになるかの?」
「さすがに、今日これからってわけにはいかないな。俺もまだ本調子じゃない。明日の昼前あたりでどうだ?」
「問題ない。そんじゃ、わしはそれまでにここの改善案にでも目安をつけておこうかの。腕が鳴るわい」
調査の許可がおりたことがよほど嬉しいのか、アンテロは上機嫌に去っていった。
部屋に残ったスラ子はまったくの反対だった。
眉を持ち上げている。
スラ子がこんなふうに怒った表情をみせるのは珍しかった。
「反対か?」
「調査そのものに反対なんじゃありません。アンテロさんへの監視も必要でしょう」
でも、と続ける。
「それに、わざわざマスターが同行される必要なんてありません!」
俺は苦笑した。
「なんだか最近、いいからお前は洞窟に引きこもってろって思われてる気がするな。お前といい、ルクレティアといい」
「ルクレティアさんもきっとわたしに賛成してくれると思います」
そうだろうな、とため息をつく。
スラ子の過保護さは今に始まったことではないが、最近はそれ以外の相手からもそういう扱いを受けていると思う。
俺が自分の立場をわかっていないだけなのかもしれないが。
「俺が同行したら邪魔か?」
「そんなことは言ってません。危険かもしれない場所にマスターが向かう必要はないはずです」
断言するスラ子に向かって訊ねた。
「なるほど。じゃあ、必要があればいいんだな?」
それは、と口ごもるスラ子に、
「必要なら、あるぞ。下層の異変には、明らかにスライムが関わってる。ことスライムに関してなら、俺は他の誰よりも詳しいはずだ。それはお前が一番わかってるはずだよな?」
「それは……。もちろん、わかってます。でも、」
「なら、俺が行く理由はあるだろ?」
唇を噛んでスラ子が押し黙る。
別にスラ子を言い負かそうとしてるわけじゃない。
自分のことを心配しているから反対しているのだということもわかっているので、俺はなるべく穏やかに笑いかけてみせた。
「大丈夫だって。危険な真似はしない。お前の背中から離れないで、おっかなびっくり、ひっついていくさ」
その情けない様子を想像したのか、スラ子の表情から毒気が抜けた。
くすりと笑ってしまう相手に、ここぞと畳みかける。
「それに、調査にはお前やシィ、それにカーラとかにも行ってもらうつもりだ。なにがあるかわからないもんな。だったら、俺もそっちにいた方が安心できるってもんさ。守ってくれるんだろ?」
我ながら詭弁以外のなにものでもなかったが、スラ子はそれを聞いて肩の力を抜いて、
「……本当に、危ない真似はしちゃダメですからね。ちょっとでもそんなことしたら、カーラさんやルクレティアさんと一緒に徹夜でお説教ですから」
「了解。無茶はしない」
俺は右手をあげて誓った。
スラ子はまだ納得いかなそうにしていたが、説得は無理だと諦めたらしく、やれやれと頭を振った。
「わかりました。護衛のメンバーは、わたしが選んでもいいですか?」
「もちろん」
確認をとるように聞いてくるスラ子に頷く。
「俺はこの報告書の山を片付けとくから、スケルたちと相談して決めてくれ。出発は明日の午前中。一応、半日で戻ってくる予定にしておこう。それと、シィを部屋に呼んでくれないか。お使いを頼みたい」
「わかりました」
不承不承といった態度のまま、それでも最後はにこりと微笑んで、スラ子は部屋をでていった。
ほっと安堵の息をつく。
すぐに目の前の報告書の山に目をやって、あらためて俺は深くため息を吐いた。
問題が起きた。
俺たちが下層へ調査に行くという話を聞きつけて、自分も同行したいと言ってきた相手がでたのだ。
ルーヴェ・ラナセという名前の、真っ赤な髪をしたその少女は、期待と興奮にキラキラと大きな瞳を輝かせて、俺にしがみついてきた。
「マギ! あたし! あたしも行く!」
「いや、ちょっと待ってくれ。ルヴェ、君がそう言いだすとは思ってたけど――」
「さっすがぁ! それじゃ、あたしも行っていいのよね!? まさか、仲間外れにしようなんてことないわよね!」
怒涛の勢いで詰め寄られる。
もちろん、俺にはルヴェを同行させるつもりなんて欠片もなかった。
危ないからに決まってるが、大人として当然のはずのその理屈を、なぜか本人を前にすると口にするのがはばかられた。
いや、理由はわかってる。
俺がアカデミーで、ずっとルヴェに頭が上がらなかったからだ。
その長年の経験が、彼女に抗おうとすることを本能的に難しくさせてしまっているのだ。
我ながら、悲しいまでに見に染みた舎弟根性だった。
特に目。
あの目が駄目だ。
きらっきらとしてまっすぐなあの目で懇願されたら、なにも言えなくなってしまう。
「ええとだな」
それでも、なんとか言を左右にかわしながら、助けを求めて周囲に視線を配る。
スラ子と目があった。
「おい、スラ子っ。お前からなんとか言ってやってくれ!」
「――知りません」
すました顔でそっぽを向いてから、スラ子はちらっとこちらを見て、
「それに、マスターと一緒のほうがお二人のことも護りやすいですからねっ」
絶句する。
スラ子の口にしたのは、ついさっき俺が持ち出した詭弁だった。
ぐうの音もでないとはこのことだ。
……結局、その日の深夜までひたすらルヴェにつきまとわれ、お願いされ。
明日の調査には、ルヴェとマナの二人も同行することになったのだった。