六話 下層の変異
ダンジョンの下層域は、半年前の戦いで一番の激戦地となった場所だ。
一人の“精霊憑き”を中核に、その脇を屈強な騎士たちで固めた侵入者の勢いに押され、俺たちは上層、中層での撃退を諦めての後退をよぎなくされた。
最終的には、大規模戦闘用に用意された広大な空間に相手集団を誘引し、そのものを崩落させることで勝敗は決した。
だが、それはほとんど紙一重の、文字通り薄氷の勝利でしかなかった。
なにもかもが落ち着いた後、改めて被害の確認に出向いたところで俺たちはそのことを痛感した。それくらい、下層域の一帯はひどい有様だったのだ。
詳細な損傷度合いを確認した結果、俺たちは下層部分の修繕を当分のあいだ先回しにすることに決めた。
技術的に可能かどうかという大前提の問題はもちろん、もし修復が可能だという場合でも、そこに相当の人的・物的資源が必要なことは明白だったからだ。
まずは比較的に損傷の少ない上層、中層にリソースを注力するほうが優先だった。
数ヶ月たって、上中層の修繕には目処がたった。
さあ、いよいよ下層域にも手をつけようか、というところだったわけだが――スラ子の目を通して、今、目の前に広がっている光景に、俺は戸惑っていた。
「……どういうことだ?」
暗く、湿気た洞窟内。
そうした基本的な環境は、上層や中層部分と大差ない。
あちらこちらに蠢く無数のスライムたちの姿も、それだけならいたって見慣れたものだ。
だが――
俺が目の前にある光景の異常さに目を疑っていると、がちゃりと乱暴に部屋の扉が開かれた。
銀髪をぼさぼさにしたツェツィーリャが入ってくる。
森生まれのエルフには洞窟での寝起きはいつまで経っても慣れないらしく、表情いっぱいに不機嫌さを表現していた。そうでなくとも、いつだって不機嫌そうではあるが。
その不機嫌エルフが、あくびをかみ殺しながらこちらにやってくると、テーブルの上のミニスライム、の形状をとった「スラ子の一部」に映し出された光景を見て、顔をしかめてみせる。
はっ、と面白くもなさそうに吐き捨てた。
「……んだ、こりゃ。どっかで見たようなことになってやがる」
スラ子たちが足を踏み入れた場所には、数えきれないほどのスライムたちが、びっしりと四方に貼りついていた。
確かに、この洞窟には昔からスライムがよく湧く。
適度な気温。
山から染み出し、湖からも流れ込んで出来上がる豊富な地下水は、スライムが湧くには絶好の条件だ。
だが、壁中を埋め尽くすほどの数のスライムとなると、さすがに異常すぎる。
明らかな生態系の狂いか、あるいは、無理矢理に外部から連れてきでもしないとそんなことは起こりえなかった。
それと似たような光景を、ほんの少し前に俺たちは別の場所で見たばかりだった。
ルヴェ――“大人ルヴェ”が、俺たちを誘い込んだ洞窟。
大昔の砦跡につくられた洞窟のなかで、いかにも不自然に密集していたスライムたち。目の前の光景は、その時にあったものとひどく似通っていた。
「……スラ子」
『大丈夫です。敵意はありません』
スラ子が答える。
その口調が平静ばかりか、スラ子の目を介してこちらに届けられる映像になんの動揺も見られないことに、俺はかすかな違和感をおぼえた。
『彼らはただ、食べているだけです。いえ、食べているというよりは、むしろ――』
「むしろ?」
問いかけには答えないまま、ゆっくりと足を進める。
今、スラ子たちがいるのは、中層と下層域を繋ぐ連絡部だ。
そこは待機所にもなるちょっとした空間があって、休憩用の小屋もある。いや、あった。
前回の戦闘でその小屋はほとんど全壊してしまい、それどころか空間ごと崩落の危険もあったから、木材を使って当面の応急処置がなされてあった。
そこに湧いたスライムたちは、半壊した小屋や、空間そのものの崩落を塞ぐための補修材にまで群がってしまっている。そうなると当然、崩落の危険性が高まることになるはずだが、
「――――」
スラ子が手を伸ばした。
俺は絶句する。
全壊した小屋の壁面――焼け焦げ、ほとんど用途を成さなくなったそこにスライムが蠢き、そして、それが這いずったあとに真新しい「壁」が姿を見せていた。
艶やかに濡れた質感が、それが土壁の類ではないことを示している。
「……直してる、のか?」
『はい。そうだと思います』
唖然とした俺のうめき声を、平静なスラ子の声が肯定した。
「スライムが? 食べるだけじゃなくて、その分泌物で修復してるだって?」
言いながら、“大人ルヴェ”に連れられたあの洞窟でも似たような現象があったことを思い出す。
不自然に密集して、まるで無制限に土壌を食べようとしているかのようだった無数のスライム。
彼らは、その分泌物で自分たちの這ったあとの地面を硬質化し、結果として、そのことがダンジョンを広げ、作り上げるような仕業になっていた。
だが、目の前の事態はそれとはまた異質だ。
あの時のスライムたちのやっていたことは、あくまで偶然の代物だと見ることもできるが、目の前のこれは違う。
このスライムたちは、明らかに意図的に修復を行おうとしている。
地面という自然物ばかりでなく、人為的な「小屋」という存在にいたるまで。
「ノーミデス」
そこに同行しているはずの精霊に問いかけると、応えるようにスラ子の視界が横に動いた。眠たそうな土精霊の姿が映る。
『ん~、なぁにぃ』
「どういうことだ? 地下がこんなことになってるって、知ってたか?」
『こんなことって、どんなことぉ?』
頭のてっぺんに葉っぱを生やしたノーミデスは、のんびりと答えた。
「だから、スライムたちがこんなことになってる状況が、だよ」
『んぅ~? どうだったかなぁ。だいぶ前からこんな感じだと思うけどぉ、どうかなぁ。覚えてないー』
……相変わらず適当すぎる。
しかし、どういうことだ?
下層でこんな異常なことが起きているなんて、まったく知らなかった。
少なくとも、上層や中層に湧いている他のスライムたちには、こんなおかしな挙動は見られないはずだ。それとも。
まさかと思いながら、俺は傍にある結晶石を掴んだ。
「――スケル?」
『はいはい。聞こえてますぜぃ。マナさんたちは見つかりましたかね?』
「いや、まだだ。最近、洞窟にいるスライムがおかしな動きを見せたりしたことはあるか?」
『んん? 別段、そんなことはないと思いますが。いつもどおり、みなさんよくやってもらってますー』
……やっぱり。そんな報告書の類は受け取った覚えはなかった。
つまり、この異常な事態は、下層区域に限定して起こっているということになる。
だが、いったいいつから?
最後に俺たちの誰かが下層域に足を踏み入れたのはいつだ。
はっきりとは断定できないが、多分半月から数ヶ月。
その数ヶ月のあいだ、ずっと下層ではこんなことになっていたっていうのか?
「わかった。すまん、なんでもない」
『? なんかわかりませんが、了解っすー』
結晶石を握り込んで、今度はテーブルの上に向かって訊ねる。
「……お前の仕業じゃないんだよな」
『はい、マスター』
テーブルのミニスライムを通して、スラ子が答えた。
『わたしでは、ありません』
微妙にひっかかる答え方だ。
そう思った俺が、さらに口を開きかけたところで、視界がぶれた。
『――シィ、どうかした?』
なにか言いたそうな表情のシィが上目遣いに映る。黙ったまま、少し離れた地面を指さした。
「どうした?」
『シィが、なにか見つけたみたいです。……あ、これは』
スラ子の視線が寄る。
スライムが這ったあとに、見覚えのある足跡がついていた。
這ったばかりの地面に、まだほんの少し前についたものらしい。スラ子が人差し指で押し込むと、ゆっくりと沈み込んだ。足跡の数は二つ。
俺はほっと息を吐く。
「そっちに向かったのは間違いないな」
「はい。――マスター、これを」
スラ子の視線が横に滑った。
そこに映されたものを見て、俺は顔をしかめる。結晶石を再び口元に近づけた。
「……聞こえてるか?」
『あいあい。どうされました?』
「さっきはあんなことを言ったが、やっぱり手の空いてる連中をいくらかこっちに回してもらわないと駄目みたいだ」
『ういっす。なにか問題で?』
「ああ。そうらしい」
俺は答えた。
「――侵入者だ」
スラ子の視界には、その痕がはっきりと残っていた。
行方を捜している二人のものと明らかに異なる、とっくの昔に乾ききった大きくて、深い足跡が。