二十二話 マギとマナ
「マスター。あれは、四か月前の“わたし”とは少し違います」
歩きながら、隣のスラ子がささやくように言った。
俺はちらりとその横顔を見て、
「具体的にはどう違う?」
「あのなかに存在している精霊の数です。あの塊に含まれる属性の種類は、せいぜい三つか、四つ。よく溶け合っているので、はっきりとはわかりませんけど……多分、火と水。それに土と、木くらいでしょうか」
この世界に在るとされる精霊は全部で九つ。
天に三つ、地に六つだ。
それら精霊のすべてを喰らって、スラ子は巨大な“不定形”と成った。
今、目の前にあって渦を巻くその姿は、形状こそ、その時の“不定形”と酷似していたが、内包する精霊の数が少ないということが意味することは、
「――つまり、あの“不定形”は不完全なのか」
「不完全というよりは、疑似的な代物なんだと思います。属性の不足を補うための、大量の魔物たち。その坩堝のようになった穴底で、“核”となる存在が中心となることで、半ば強引に形をとった。それが、あの“不定形”の正体です」
「……中心になってるのは、お前がさっき戦ってた、あの『スラ子』か?」
「はい。そうです、マスター」
なるほど、と息を吐く。
“もう一人のスラ子”という存在は、そのために用意されていたわけだ。
それはつまり、この“不定形”が計画的な準備のもとで用意されたということになる。
だが、と俺のなかで疑問が湧いた。
“疑似的な不定形”なんていう代物の作り方を、いったいどうしてあのマッドなエルフが知っているのか。
そもそも、“スラ子”をつくれたのは何故だ?
森を追われたという自身の研究から、独自にその手法を見出したとでもいうのだろうか。
“スラ子”をつくり、そのうえで“不定形”を疑似的にでも再現する方策まで、この数カ月のあいだに確立させた。
もちろん、そういう可能性だってないではないだろう。
だが、どこか拭い難い違和感があった。あまりにも出来すぎていやしないだろうか。
深刻な懸念にとらわれた俺の脳裏に浮かんだのは、一人の姿だった。
“不定形”を生み出したマッドなエルフは、目前の光景にただただ諸手をあげて狂笑している。その背後に佇む、フードを被った謎の人物がこちらの視線に気づいて、フードの奥から顔を向けた気がした。くす、と笑むような気配。
「マスター」
「……いや、まずはあっちをどうにかしないとな」
向こうの二人の存在をいったん無視することに決めて、改めて渦を巻く“不定形”を見上げる。
その中心に浮遊するはずのマナの姿は、厚い“不定形”の向こうに隠れて、まったく窺い知ることができない。
「スラ子。あれをどうにか出来るか?」
疑似的な“不定形”。
あれをどうにかするのは、今のスラ子には荷が重いかもしれない。
だがスラ子はにっこりと、
「はいっ、問題ありません」
あまりにも明快な返答に、かえってこちらが戸惑いをおぼえた。
「……問題ないのか?」
「正直に言うと、あの体積なのでちょっとしんどいところはあるんですけれど……」
しんどいのか。
「だけど、大丈夫です。我に秘策ありっ、です!」
スラ子はえへんと胸を張る。
秘策とやらの中身についてはさっぱり見当もつかないが、そこまで言ってくれるのなら、俺としてはスラ子を信用するしかない。
「よし。それじゃ、お前があの“疑似不定形”を担当してくれてるあいだに、俺のほうでマナをなんとかする。ってことでいいな」
「いえっさー、マスター!」
策というのもおこがましい。
あんまりにもあまりな打ち合わせだが、他にやりようもなかった。
そして。
策が決まったなら――あとはもう、やるだけだ。
俺とスラ子は黙って頷きあう。
今さら、それ以外にかけあう声なんて俺たちには不要だったから、
「ふふー!」
嬉しそうに笑ったスラ子がさっと身を翻し、全力で駆け出していく。
一直線に、“不定形”へ。
その中央にマナを抱いて、ほとんど外殻のようにとぐろを巻く“不定形”は、一瞬ごとにその体積を巨大化させつつあった。
それともあれは、中央のマナ、その力がもたらす“空洞”が徐々に広くなっているのか。
「――――」
スラ子の接近に気づいた“不定形”から、いくつもの触腕が持ち上がる。
一瞬の間をおいて、一気にスラ子へと向かって伸びた触手の鞭を、スラ子は余裕をもって回避した。
さらに疾る。
それを迎え撃とうと、さらに数を増やした触腕が襲い掛かった。
スラ子は長い青髪を揺らし、紙一重にそれらを避けていく。
決して自分から撃退しようとはしない。明らかに、スラ子は“不定形”に接触することを避けていた。
舞踏のように不定形からの攻撃をさばき続けるスラ子の様子に見とれていた俺は、はっと我にかえって、ゆっくりと前に足を進めて。
そして気づいた。――“不定形”の攻撃が、こちらにはこない。
反射的に、自分にもっとも近い相手に攻撃を集中しているのか。
それとも、なにかの理由で執着しているのか。
……多分、後者だ。
あの“疑似不定形”は、スラ子に対して激しい敵意をもっている。
恐らく、あの不定形の核になった“スラ子”が影響しているのだろう。無数の魔物とまじった意識の残滓か――あるいはそれとも、まだ自我をたもっているのか。
とにもかくにも、“不定形”の意識がスラ子に集中してくれるというのなら、俺には助かる。
スラ子と違って、あんな攻撃を少しでも向けられた時点で、それを避けられる自信なんてなかった。
いくらかほっとしながら、ゆっくりと足を進める。
厚い“不定形”に覆われたマナは、その“不定形”が自身をスラ子に向けているせいで、その周囲を取り囲む体積がいくらか減りつつあった。
スラ子は、攻撃を避けながら徐々に距離をとり、さらに“不定形”をマナの元から引きはがしていく。
そして、ついに“不定形”の殻が綻ぶようにして、その中央の中身がちらりと露わになった。
――膝をかかえて泣いているマナの姿が見えた。
「マナ!」
はっとして顔をあげる。
俺がさらに続ける前に、叫んだ。
「来ないで!」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、
「来ないで! 僕をほっといて!」
意識を取り戻してくれているのはありがたいが、泣いているとは思わなかった。
俺は足を止めて、両手をあげる。
相手を落ち着かせようと手を上下させながら、
「……落ち着け。ルヴェのことなら、手当が間に合ったから大丈夫だ」
マナは、ぶんぶんと頭を振って否定する。
「なら、あの女の子か? ……あれは、お前が悪いんじゃない」
さらに否定。
「なんだ。じゃあ、なにを怒ってるんだよ」
「怒ってなんかない!」
泣きながら、マナは言う。
「――僕は。僕は化け物なんだ! 十番目っていう、化け物なんでしょう!」
吠えるように、
「ずっと思ってたんだ。どうして、僕は町にいけないんだろう。どうして、いっつも魔物に追われないといけないんだろう。――どうして、」
そこで一旦、言葉を切って。
「どうして、お母さんが少しずつ小さくなっていってるんだろうって! ……全部、僕のせいなんでしょう!」
血を吐き出すような慟哭に、俺は答えない。
「僕のせいなんだ! 僕のせいで、お母さんはずっと大変な目に遭ってきて、これからも大変な目に遭っちゃうんでしょう。だったら、僕なんかいなくなったほうがいい。生きてないほうがいいっ。その方が、ずっといいよ!」
「あのなあ、」
頭をかいて、俺はマナに向かって一歩を踏み出しかけた。
「来ないでって……、言ってるのに!」
マナが叫ぶ。
それに呼応するように、それまで俺のほうには見向きもしなかった“不定形”の触腕、その一つがこちらに向かって襲いかかってきた。
「おわっ!」
あわてて横に飛ぶ。
なんとか避けたが、そこからさらに避けることはできなかった。
体勢を崩した俺に、次の触腕が向けられる。
それが俺の身体を貫く直前に、横から伸びた青い触髪が俺をさらってくれた。
「悪い、助かった――」
遠くのスラ子がにこりと笑う。
そこに殺到する、無数の触腕。
危ないと声をかける間もなく、薄青いその姿は触腕の群れのなかに埋もれていった。
「スラ子!」
◆
無数の触腕が一斉に不定形へと降り注ぐ。
豪雨のように叩きつけられる嵐のなかで、不意に、怨嗟に満ちた声が響いた。
「――オリジナル」
いくつかの触腕が絡まり、形をとる。
かろうじて精霊形の外観を持ったその相手を目の前にして、薄青い不定形は微笑んだ。
「“あなた”の自我、きっと残っていると思っていましたよ」
「お前だけは。お前だけは、なんとしても食い尽くしてやる……!」
目も口もない顔で、ただ一つだけ自身に残った執着の念を口走る。
それに対して不定形は、余裕の表情を崩さなかった。
「最初から、それでよかったんですよ。自分だとか、相手だとか。そんなことに悩むだなんて、くだらないことなんですから。あなたは万物を喰らう不定形。それでいいでしょう?」
「他人事のように――」
貌を失くした不定形――元不定形、が笑った。
「それはお前も同じでしょう、オリジナル。わたしたちは所詮“喰らうモノ”。あなただって、やがては喰らってしまう。それが自分の意志か、与えられたものかだなんて関係ない。あなたはやがて、あなたの愛する相手さえ喰らう。相手の意思も、相手の願いも関係なしに、いつか自分の胎内に取り込まずにはいられない。以前の“スラ子”がそうだったように。何故なら、それがあなたの性なのだから! きっとお前はいつかまた、あの人間を甘やかし殺してしまうことでしょうよ……!」
確信を込めた台詞。
呪詛する言葉を受けて、薄青い不定形はふふー、と笑う。
「一緒にしないでください」
「……なんですって?」
「あんまり、わたしのマスターを馬鹿にしないでくださいって言ってるんですよ。――わたしのマスターは最高なんです。どれだけ甘やかしても、甘やかされても、絶対にそのままじゃ終わりません。そう信じているから……だからわたしは、いくらでもマスターを甘やかしてあげられるんですっ!」
不定形が高らかに腕をかかげた。
ぴたり、と殺到する“不定形”の動きが止まる。
「なにを、」
貌のないまま、明らかに狼狽えた様子を見せる相手に、くすりと笑って、
「覚えてないんですか? さっき、あなたがわたしの一部を穴のなかに落としてくれたじゃないですか」
怪訝そうにした貌のない不定形が、はっと思い至ったように呻く。
「まさか、貴様――」
「とっくの昔に、わたしはあのなかに入り込んでいたんですよ。この意味、わかりますか?」
――沈黙。
怒りに震えて、貌のない不定形が飛び掛かった。
「オリジナルゥゥゥゥウゥゥゥウゥゥゥゥゥウウウ!」
「さあ、いらっしゃい。約束通り、あなたの全部を喰らってあげます。そうして後は、わたしのなかで見守っていればいい。わたしの言っていることが嘘ではないと、証明してあげますから」
◇◆◇
……なんだ。今のは。
今、あの触腕の動きはあきらかにマナの意志に反応したそれだった。
マナが操った? それとも、無意識的に庇おうとしたのか?
“不定形”の暴走する創造の力と、“十番目”の力。
それは、お互いに相反するはずのものではなかったのか。
それとも、
「――だから、言ったのにっ」
振り返る。
ひく、ひくっとしゃくり泣きながら、マナは恨んだ眼差しをこちらに向けてくる。
「来ないでって言ったのに……! 僕が悪いんじゃないっ。僕のせいじゃない!」
「ああ、そうだな」
俺は頷いた。
「お前は悪くない。だったら、マナ。どうしてお前は泣いてるんだよ」
右足を踏み出す。
「来ないで!」
触腕が襲いかかる。
俺はそれを避けなかった。――まっすぐに伸びた触腕が頬をかする。
「来ないでって! 今度こそ――」
「止められない、か? だったらいいさ。お前のせいじゃないんだから、気にするなよ。お前は、悪くない」
マナの顔がくしゃりと歪んだ。
「どうして、そんなことを言うの。なんでわかってくれないんだ。……僕のせいにしたくないから、来ないでって言ってるのに……!」
「だから、お前のせいじゃないって言ってるだろ」
俺は肩をすくめて。
言った。
「――マナ、お前は化け物だ」
はっと、マナが息をのんだ。
「“十番目”とかいう厄介な能力をもたされて、控えめに言っても、普通じゃない。それは間違いない。だけどな、それがどうしたってんだ?」
「どうした、って――」
「お前はそういう生き物なんだ。仕方ない。だって、そういう風に生まれたんだからな。そういう風に生まれたのを、どうこう言ったところでしょうがないだろうが」
左足を出す。
「俺だってな、ああなりたいなとか、ああだったらよかったのに、なんて思うことは昔からいくらだってあるんだよ。魔力も弱けりゃ、器量もない。たいして頭もまわらないくせに、腕っぷしだって強くない。周りにいるのは揃いもそろってとんでもない連中ばっかりで、それをいちいち比べてヘコんだりしてみろ。俺は一時だって生きていられなくなっちまう」
だけど、
「だけど、俺は俺だ。他の連中と比べたってしょうがない。どれだけ弱っちかろうが、情けなかろうが。それが俺だ。相手になにがあっても、俺になにがなくても! 俺は、俺だ。俺は俺で、俺に出来ることをやるしかないんだ」
だから、
「――だから。お前だって、お前でいいんだ」
マナの目が大きく見開いた。
「……お前が生まれ持ってきたもんは、お前のせいじゃない。そして、お前が生まれ持ってきたもんのせいで、お前が生きちゃいけないなんて理由なんてないんだ」
自分の存在に苦しんでいたスラ子。
精霊憑きという呪われた力に、自ら死を望んだ王女。
そうした光景のあれこれを思い出して、だからこそ俺は、歯をきつく噛み締めて一歩、さらに前へ。
――もう二度と、あんな思いをするのはごめんだ。
さっきまでマナを覆っていた“不定形”はどこかへ去り、今や俺とマナのあいだを遮るものはなにもない。
一歩、一歩、足元の感触を確かめるように、俺は泣きじゃくる子どもに向かって歩いていく。
「でも、だって――」
震える声で、途方にくれたようにマナは言う。
「僕にはもう、役割がないって。“十番目”の力なんて必要ないって、そう――」
「生まれてきた役割? 知ったことかっ」
きっと、睨みつけてくる。
「……じゃあ、どうして僕は生きなくちゃいけないんですか! なにを目的に生きれって言うんですか!」
「この、馬鹿が――」
それを聞いて、心底から頭にきた。
今にも殴りつけたいのをぐっと我慢して、俺は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「生きる意味? 生きる目的? そんなもん、決まってるだろうが」
「なにを、」
言いかけるのを無視して、怒鳴りつける。
「――幸せに、なるんだろうが!」
大きく目を見開いたマナが、しあわせ、と小さくつぶやいた。
わなわなと肩が震える。
「そんなの、」
吐き捨てるように、
「そんなの。――僕みたいな化け物が、幸せになんて、なれるもんかっ。僕が幸せになれるって、どうしてあなたなんかにわかるんだよ!」
「わかるか、バカ!」
泣きわめく子供を相手に、大人気なく俺はわめき返した。
「そんなこと俺が知るか、バカ! こちとら、まだ二十そこそこの若造だ。幸せなんて、自分でも探してる真っ最中なんだよ! そんなもん、死ぬ間際にわかりゃあいいことだろうが! それまでは、もがいて、あがいて、一生あがき続けるんだよっ。もがいて、あがいて、あがき続けて、そしたらいつか俺がくたばった時、それを見てた誰かが、あいつは幸せなやつだったなって笑ってくれるだろうさ! ……お前は!」
人差し指を突きつける。
その頃にはもう、マナとの距離は触れ合えるくらいになっていた。
「お前は、あがいてみせたのか!? もがいて、あがいて、もうこれ以上はないってくらいに、あがききってみせたのかよ!」
「……僕は!」
「それをしないうちから、悟ったようなことを言ってんじゃねえ! お前はまだガキだろうが! 見た目がどうこう以前に、どこをどう見たってガキだろうが! 俺よりちっさい見かけと、ちっせえ中身で、ふざけたこと言ってんじゃねえ!」
反論する言葉を失ったように、ぎゅっと唇を噛み締めるマナ。
さっきから叫び続けて、いい加減こっちも頭がいたくなってきていた。
俺は頭を押さえながら、大きく深呼吸をひとつ。いくらか息を整えてから、改めて口をひらく。
「――お前は、生きていいんだよ。どれだけ厄介で、どれだけ周りに迷惑をかけようが。お前はお前であっていい。そんで、あがけるだけあがいてみればいいんだ。それでお前を責める奴がいたら、俺が代わりにその文句を受けてやる。お前が誰かにとんでもない迷惑をかけたってんなら、俺が代わりに謝ってやるさ」
「どうして、」
苦悶するように、マナは顔をしかめさせる。
息を喘がせて、うまく言葉にならないように、口をパクパクとさせた。
「どうして、そんな――そんなことが。あなたに、あなたなんかにっ」
それ以上、言葉が続かない様子のマナに向かって。
俺は黙って右手を伸ばす。
びくり、とマナが後ずさった。
……触れたものを消失させる、“十番目”の力。
だが、俺が伸ばした先で、俺の右手は忽然と消え失せたりすることなく。
片手におさまりそうな小さな頭の上に、当然のように。ぽんっと置くことができた。
「んなもん、決まってるだろうが」
くしゃくしゃと乱暴に撫でつけながら、言ってやる。
「いつだってガキのケツを持つのは、誰か大人の役目なんだよ。それだけだ」
それ以上に必要な理由なんて、あるわけない。