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十四話 不定形の美女

 ◇◆◇


 俺たちの目の前に現れたのは、薄青色の髪をした美女だった。


 ふわふわと宙になびく長髪。

 すらりとした肢体とその一部の盛り上がりが描く曲線。

 優しげな目元、柔らかそうな唇。

 口元に浮かぶ微笑は穏やかなくせに、同時にぞくりとするほど艶めかしい。


 どこからどう見ても、スラ子だった。

 スラ子の容姿の元になったルヴェ――大人だった頃のルヴェとは微妙に雰囲気が異なる。以前、アカデミーで現れた“黒いスラ子”とも違う。


 半透明の薄青色を帯びた、不定形の美女。


「……驚いたな」


 自分の隣にいるスラ子とまったく瓜二つの姿を前に、思わず呻いてしまう。

 スラ子の姿をした相手はくすりと微笑んだ。


「そんなに驚きましたか?」


 しっとりと濡れた声色までスラ子そのものだ。

 ああ、と俺は苦々しく頷いて、


「――まさか本当に隠れてるとは思わなかった。適当に言ってみただけなのにな」


 ふふー、と隣から笑み。


「マスター、黙ってればちょっとカッコよかったかもしれませんよ?」

「む、そうか?」

「はい。ツェツィーリャさん、ちょっと『おお』っていう顔になってましたっ」

「そうか。惜しいことしたな。……あー、ツェツィーリャ。本当はちゃんとわかってたんだ。全部ばっちりお見通しだったから、気兼ねなく尊敬してくれていいぞ」

「死ね」

「照れるなよ」

「ふふー。ツェツィーリャさんって本当にシャイさんですねぇ」

「手前ら、いい加減にしとけよ、コラ……」


 わなわなと怒りに肩を震わせるシャイエルフをからかうのはそのくらいにして、視線を戻す。


 もう一人のスラ子の表情が変わっていた。

 わずかに眉間に皺が寄って、口元から笑みが消えている。こちらの反応が想像していたものと違うのが気に入らない。そんな感じだ。


 それを見たスラ子がくすりと笑う。


「どうしました?」

「…………」


 もう一人のスラ子は黙ったまま、すっと手をかざすと、その背後に横たわった怪鳥に変化が起こった。


「なんだ……?」


 息絶えたように見えた大きな羽毛から、じわりと液状のものが滲み出てくる。

 浮き上がった半透明の物質は全身をくまなく包み込んでいき。やがて、スライムに包まれたガルーダがゆっくりとその首をもたげた。


 ぎこちない動作で起き上がる。

 スライムの膜に覆われた奥に覗く瞳はどこか虚ろで、濁っている。半開きの嘴からは弛緩した舌がだらしなく伸びて、そこからよだれのように糸を引いていた。


 ……はっきり言って、あまり直視したい姿じゃない。

 表情が動かないのがデスマスクじみていた。


「まるで死霊術だな」

「と言うより、操身術ですね」

「そうだな。……ゴーレムとも違うか。核じゃなくて、膜で動かしてるもんな」


 頷きながら、俺は目の前に対峙する相手の様子をうかがう。


 もう一人のスラ子と、その後ろに控えた不定形に覆われたガルーダ。

 スライムガルーダの巨体はほとんど洞窟の通路を塞いでしまっている。翼を広げるまでもなく、その横を通り抜けるのは難しそうだった。


 完全に行く手を遮られた格好だ。

 さっきの大穴へ戻るには、目の前の相手をどうにかするしかないが――とりあえず、正面の相手に向かって声をかけた。


「あー。……スラ子?」

『なんですか?』


 二人分の返答。

 隣を睨むと、そこには悪戯っぽい微笑。息を吐いて、改めて目の前の、もう一人のスラ子に向き直った。


「――呼び方は、『スラ子』でいいのか?」

「はい、かまいません」


 もう一人のスラ子が答える。


「そうか。じゃあ、『スラ子』。俺たちはこの奥に用があるんだが、通してもらえるか?」


 さっき、シルフィリアはこの先にも道があると言っていたはずだ。

 町から攫われた女の子がいるとすれば、たくさんの魔物と不定形が絡み合っていた、あの坩堝の先だろう。


 それとも――。


 嫌な想像が浮かぶ。……あの鍋釜のなかに交じっている、というのは、あまり考えたくない。


 もう一人のスラ子は、こちらの申し出にじっと俺の目を見つめるようにしてから、


「マギさんと、そちらのエルフの人は、どうぞ」


 ぴくり。隣で、かすかにスラ子が眉を持ち上げる気配に気づいた。

 もう一人のスラ子は続ける。


「でも、あなたはダメですね」


 ひたりとした視線がスラ子を見据えた。


「わたしですか?」

「ええ、そうですよ。もう一人の“わたし”」

「あらら。わたしがなにか失礼なことをしてしまいましたか?」

「いいえ。単純に、あなたの存在が不快なので」


 むう、と頬を膨らませたスラ子が勢いよく俺を見る。びしりと人差し指をもう一人の自分に突きつけ、避難するような眼差しで、


「マスター! あのスラ子って人、酷くないですかっ」

「そうだな。なんかやたら人のことをからかいまくった挙句、隙あらば抱きついてきたり、ミイラになるまで搾り取ろうとしたりしそうだよな」

「まったく! いったい誰ですか、あんな人つくったのは!」

「……そうだな。昔の自分に言ってやりたいもんだ。どうしてもっとおしとやかに、慎ましやかにしてやれなかったんだってな」

「それはマスターの性癖ですから、つまり悪いのはやっぱりマスターですね!」


 断言してから、スラ子は満足そうにもう一人の自分に向き直った。


「というわけで、悪いのは完全にマスターだってことになりましたし、わたしも通してはもらえませんか?」


 なにが、というわけなんだ。おい。

 もう一人のスラ子は冷ややかな眼差しで、


「ダメです」

「むう。それは困りましたねー」


 スラ子がため息をつく。

 駄々をこねる子供を前にした表情で頬に指をあてて、それからにこりと微笑んだ。


「でも、仕方ないですね。わかりました」


 一歩、足を進める。


「――話し合いが無理なら、押し通っちゃいましょうか」


 その全身に濃い魔素の気配が纏う。

 と思った次の瞬間には、励起した魔素が目に見えない力場となって、もう一人のスラ子を、その後ろのガルーダごと吹き飛ばしていた。


「――――」


 鉄槌で思い切り叩かれたように。もう一人のスラ子の身体がひしゃげ、ぱしゃんっと軽い音を立てて砕ける。


 粘性の音を立てて、不定形が盛大に飛び散った。

 だが、それでは終わらない。

 周囲に四散した不定形はすぐにそれらが素早く集合して、元の形を取り戻そうとする。が、


「ふふー」


 スラ子がそれを許さなかった。


 薄青い髪が大きくうねり、一斉に放射される。

 その一房ごとに生命が宿っていそうな青髪は、蛇のように躍動して散らばった無数の不定形に殺到すると、それら全てに容赦なく叩きつけられていった。


「…………!」


 叩く。

 叩く。

 叩いて、叩いて、叩き潰す。


 やたら滅多に乱れ打つ、狭い洞窟内の全方位で繰り広げられる暴力の嵐に、ぱらぱらと天井から少なくない砂が落ちてくるのに気づいて、俺は悲鳴じみた声をあげた。


「スラ子、おい、天井は崩すなよ!」

「ふふー!」


 かろうじて届いた返答は、こちらの言葉を聞いているのか聞こえていないのかも定かじゃない。


 そのあとも、スラ子の攻撃はひたすら続いて――ようやくそれが収まった頃には、周囲にはもうもうと濃い土煙が立ち込めていた。

 土煙が晴れると、そこにはもう一人のスラ子どころか、不定形の欠片さえ残っていない。


「……これは酷い」


 目の前の土煙を払うようにしながら、俺は呻いた。

 隣では、あまりの惨状にツェツィーリャも声を失っている。


 俺たちを振り返ったスラ子がにこりと微笑んだ。

 青髪をうねらせたまま、


「これで、元通りになるまで少しはかかると思います。今のうちに進んでしまいましょう」

「……そうだな」


 あれだけやって「少しはかかる」なのだから、それも大概な話ではある。

 溜息まじりに頷いて、俺は通路に視線を向けた。濃く漂う闇の奥に、なにかの雄叫びや、こちらに向かってくる気配はうかがえない。


「さっきのガルーダは、吹っ飛ばされたままか。……穴の底にでも落ちたかな。それじゃ、さっさと奥まで続いてる道を探そう」

「了解ですっ」


 歩き始める俺とスラ子の後ろから、あわててツェツィーリャが追いかけてくる。


「おい、ボンクラ。さっきのありゃなんだ」


 隣に並びながら、目つきの悪い眼差しを向けてきた。


「さっきのって、ガルーダのことか?」

「違ぇよ、ボケ。とぼけんな。――あの不定形のヤツは、一体なんだ」


 俺はちらと相手に横目を向けて、肩をすくめた。


「スラ子なんだろ。本人がそう言ってた」

「……ふざけてんのか?」


 ツェツィーリャの目が細まった。


「なにがだよ。ふざけてなんかないだろ」


 俺が顔をしかめると、はん、と鼻を鳴らして、


「なら、今度は前みたいに別人の振りをしてたってわけじゃなくて、本当に二体いやがるってことか? こんなバケモンが複数いるだなんて、そりゃなんの冗談だ」

「いいえ。ツェツィーリャさん、そうではありませんよ?」


 穏やかにスラ子が反論した。


「あの人は『スラ子』かもしれませんが、わたしではありません」


 得意げな微笑。

 謎々でも聞かされたように、ツェツィーリャが顔いっぱいの渋面になる。


「なんだそりゃ。もっとわかるように話しやがれ」

「ふふー。だって、『わたし』は、わたしだけですから」


 平然と答えるスラ子にますますしかめ面をつくって、ツェツィーリャはしばらくスラ子を凝視してから、その視線をこちらに向けた。


「……意味わかんねえ」


 吐き捨てる。


「意味がわかんねぇのもムカつくが、それよりもっとムカつくのは、ボンクラ。手前がさっきのあれを見て、まるで動じていやがらねえことだ」


 俺は答えない。

 否定も、しない。


 ち、とツェツィーリャが舌打ちして、


「言えよ、ボンクラ。さっきのヤツについて、手前はなにかわかってやがんだろうが。さっきのあれが、手前の探し物と関係あんのか? それとも、あれが“それ”か? 答えろ」


 刺すような視線を受けながら、俺は黙って足を進めて、そして止めた。

 視線を落とす。

 足元には大きな闇が広がっている。その奥深くで蠢く異様な気配も、はっきりと感じることができた。


 ……無数の魔物と不定形が絡み合う、魔の坩堝。


「――スラ子」

「はい」

「近くに、奥に続く道があるか探ってみてくれ」

「了解ですっ」


 目を閉じたスラ子が集中し始めるのを見て取って、俺はそこから少し距離をとった。改めてツェツィーリャを振り返る。

 今にも噛みつきそうな表情で睨みつけてきている相手に向かって、


「……ああ、そうだよ」


 ため息まじりに認めた。


「確かに、さっきの『スラ子』がなんなのか、見当はついてる。俺の目的と関係があるってのも、まず間違いない」

「やっぱりか。どうして隠してやがった」

「別に隠してたつもりはないんだけどな」

「ほざけ。昨日、露骨に話をそらしやがっただろうが」


 ……ああ、そういうことか。

 俺は頭をかきながら頷いて、


「そうじゃない。……昨日は、マナたちの前で話したくなかったんだ」


 ツェツィーリャが顔をしかめた。


「“十番目”のガキだと?」

「ああ。マナのやつ、随分と怯えてたしな。そういう状態の時に、あんまり聞かせる話でもないだろ」

「はん。相変わらず、お優しいこった」


 胡散臭そうに鼻を鳴らしたツェツィーリャが腕を組み、すごむように顔を斜めに傾げて、


「で、それだけが理由とでも言うつもりか?」

「……いや」


 俺は少し離れた場所でスラ子がまだ少し時間がかかりそうなのを確認してから、声を低めた。


「――狙いがわからない、ってのが、一番の理由だな」

「狙い?」

「ああ。ルヴェから手紙を受け取って、マナたちを迎えにいったら、ちょうどそこに探してた目的の相手と鉢合わせた――いくらなんでも、そんな偶然があると思うほど俺だってさすがにおめでたくはないさ。このダンジョンをつくった奴。そいつは、間違いなくスラ子のことを知ってる。それに、マナのことも」


 だから、俺たちをここに誘い込んだ。そうとしか考えられない。


「……“そいつ”ってのは、昨日あの町の上にいやがった、オレの矢を防いだヤツのことか」

「多分な」


 俺は断言を避けた。

 あのフードを被った魔物が、このダンジョンと関係があるのは間違いないが、その相手がこのダンジョンの「主」かどうかまではわからない。


「『スラ子』だっているわけだしな。スラ子みたいに自分の外見を自由に変えられるのなら、昨日のあの魔物も『スラ子』だったのかもしれない。ただ――」

「ただ?」


 俺は頭を振って、


「……多分、違うんだろうな。昨日のあいつと、さっきの『スラ子』は別物だ。だと思う」

「なんだそりゃ、手前の勘かよ」

「まあな」

「はッ。信用ならねーな」

「ほっとけ」


 ツェツィーリャはまだなにか言いたりなさそうな表情で、視線をちらと足元の大穴に向けた。


「……じゃあ、こいつについては。この薄気味悪いモンについても、なんか見当ついてやがんのか?」

「どうだろうな」


 ツェツィーリャに倣って、俺も足元に視線を落としながら、


「まさか、こんなものがあるなんて思ってもなかったしな。けど、そうだな。……蠱毒みたいなものなのかも」

「コドク? なんだそりゃ」

「どこかの魔物だったかがよく使う呪術だよ。たくさんの毒虫とかを壺かなんかに一緒にして、そのなかで互いに喰わせて、競わせて、最後に残ったやつに一番強い毒が宿ってるっていう感じだったはずだ」

「気持ちの悪ィ話だな」


 ツェツィーリャは嫌そうに顔をしかめてみせる。

 まあ、賢人族といわれるエルフたちのあいだでは絶対に流行らなそうな代物ではある。


「つまり、この下で共食いさせてんのか。それとも、スライムどもに喰わせてやがるってわけか?」

「多分だけどな。さっきのガルーダの件が気になる。それに、ノーミデスも」


 スライムを吐き出しながら息絶えた、土精霊らしき存在。


 はっとツェツィーリャが目を見開いた。


「――“精霊喰らい”? おい、ボンクラ。まさか、シルは」


 搔き消えるように姿を失くした風精霊のことを思い出して血相を変える相手に、俺は頭を振った。


「わからない。ただ、シルフィリアが姿を消したのと、ここで起こってることは関わりがあるはずだ。攫われた女の子を助けるのと、シルフィリアの探索。やることは二つだな」


 内心の焦りを押し殺すように、ツェツィーリャは唇を噛み締める。


「……手前は、このダンジョンをつくったヤツにも用があるんだろうが」


 押し殺すように言った。


 俺は頭を振って、


「そっちは最後だ。女の子と、それにシルフィリアが見つかったら、ツェツィーリャ、お前もこのダンジョンを出てカーラたちと合流しろ。あとは俺とスラ子だけでいい。……あっさりその二人を返してくれる可能性は、あんまりないけどな」


 射るような視線をこちらに留めたまま、ツェツィーリャがなにかを言おうと唇を動かしかけたところで、


「――見つけました」


 周囲を探っていたスラ子が目を開けた。


「あったか?」

「はい。この大きな穴のちょうど反対側あたりに、奥まで続いていく通路があります。ぐるっと穴沿いに壁際に辿っていけます」

「ご丁寧に通路は残してくれてるわけだ」


 単に、自分も通るからってことかもしれないが。

 いや、昨日の奴は空を飛んでたからそういうわけでもないか?


「じゃあ、さっさとそこに行こう。この穴の傍にずっといるのは、なんとなく嫌な感じだ」

「はい。マスターとツェツィーリャさんは、先にそちらに向かってくださいますか?」


 俺は眉をひそめる。


「お前はどうするんだ?」

「わたしはちょっと、あの人たちの相手をしなくちゃいけないみたいです」


 言って、スラ子が視線をあげた先。

 天井に色濃く漂う闇の向こうから、なにかが急降下してくる。


「――――ッ!」


 近くの“灯り”に浮かび上がったのは、さっき、スラ子の一撃で通路から吹き飛ばされたガルーダだった。

 怪鳥の全身は半透明のスライムに一分の隙も無く覆われたまま、飛ぶというよりはほとんど落ちるというような勢いでまっすぐに襲い掛かってくる。


「――――!」


 スラ子が手をかざした。


 見えない障壁に弾かれて吹き飛ぶスライムガルーダ。

 衝撃で付着した不定形があたりに飛散して、――その一部が、ドロリとなにかをかたどった。


 その見慣れた姿かたちは、


「……『スラ子』!」


 ガルーダの横から生えたような格好で、こちらを見てにやりと笑った不定形の美女が、態勢を崩した怪鳥の頭を掴み、無理やりにそれを引き起こす。

 空中で態勢を立て直したスライムガルーダが再び襲い掛かって来る!


「マスター! 行ってください!」


 迎撃の姿勢をとりながら、こちらに言ってくる相手の様子をちらと見て、


「――ツェツィーリャ、行くぞ!」


 俺はスラ子に背中を向けて、駆けだした。


「おい。いいのかよ」

「俺たちがいても役立たずだ。俺は雑魚だし、ツェツィーリャ、お前だってシルフィリアの加護がないと魔法は使えないはずだろ?」


 精霊と契約を交わすことで行使する精霊魔法は強力だが、契約した精霊以外の魔法を使えなくなるというデメリットがある。

 そのシルフィリアの加護が失われている今、ツェツィーリャは全ての魔法が使えないはずだ。


 ツェツィーリャは罰が悪そうに唇を捻じ曲げて、やれやれと息を吐いた。忌々しそうに頭を振る。


「……このオレが、手前と同じ役立たず扱いとはな。まったく泣けてくるぜ」

「気にすんな。俺は気にしないぞ」

「手前のことなんざ知るかよ、ボケ」


 それで、と口の悪いエルフは続ける。


「その役立たず二人が奥に行ったところで、やることがあんのか?」


 確かに、いくら先行したところでそこであっさり敵に捕まってりゃ世話はない。


 俺は胸を張って、


「安心しろ。逃げ足だけは鍛えてる」

「あーそうかよ」


 呆れ果てたと言うように口をつぐんだツェツィーリャが、ちらりと背後を振り返った。


「スラ子のことが心配か?」

「んなわけあるか。……手前こそ、いいのかよ」

「なにが?」

「あの化け物を一人にして大丈夫なのかって言ってんだよ。今のアイツは、昔のアイツとは違うんだろうが」


 ……確かに。


 数多の精霊を取り込み、竜族とさえタメを張り、ついには世界そのものさえ作り替えるくらいにまでなったスラ子だが、それは過去の話だ。

“今”のスラ子には、少なくとも以前のような圧倒的な力は備わっていない。


 だが、


「問題ないさ」


 俺はあっさり答える。


「あいつなら大丈夫だ」

「たいした自信じゃねえか」

「そうだな」


 俺が簡単に頷くのに、ツェツィーリャは不満そうに鼻を鳴らしてから、


「アイツが戻って来たとしても、それが手前の思ってる方の“アイツ”だってどうしてわかる? もしかしたら、あの二体目のヤツかもしれねえだろうが。あいつも、“スラ子”なんだろ? 手前もさっきそう言ったよな」

「ああ、言った」


 素っ気なく答える。

 別に不愛想にしているのではなく、走りながら答えるのはけっこうしんどい。


「なら、次に手前の前に現れたのがどっちか、どうしてわかんだよ」


 ……さっきの“スラ子”は、完全にスラ子と瓜二つだった。


 以前の黒スラ子のように肌色は違わないし、その他にどこか差異があったわけでもない。

 声も、雰囲気も、完全にスラ子そのものだ。

 だから確かに、あの“スラ子”は『スラ子』なんだろう。


 それでも俺は、自分の目の前に現れた相手がどちらか、間違える気はしなかった。


「なんだそりゃ」


 ツェツィーリャは不満そうにこちらを睨みつけて、


「慢心か? それともただの過信じゃねえか」

「いいや、違う」


 そんなオメデタイ話じゃない。

 これは、もっとどうしようもなくて、少しも笑えない。そんな話だ。


 息を吐きながら、俺は答えた。


「確信だ」



 ◆



 多くの魔物が不定形の海にまみれて蠢く、不気味な大穴。

 その縁で二体の精霊形をかたどった不定形が対峙していた。


 一方は、薄青い髪を長く伸ばした美女。

 そしてもう一方は、薄青い髪をやはり長く伸ばしているが――その美女の身体はぐったりと地面に横たわる大きな怪鳥から生えるようにしていた。


「まさか、こんなに早く機会が訪れるなんて……」


 怪鳥から生えた不定形が言う。

 水に濡れた声。聴くものをぞくりとするほどの艶めかしさと共に、


「ここであなたと戦えるだなんて、思ってもいませんでしたよ。オリジナル」

「わたし、そんな名前じゃありませんよ?」


 不定形の美女がにっこりと微笑む。


「わたしはスラ子です。ですから、ちゃんとそう呼んでくれませんか?」

「スラ子はわたしです」

「別に、あなたがスラ子じゃないなんて言ってません」


 不定形は苦笑して、


「あなたがスラ子を名乗ろうが、どうでもいいです。それとも、あなたはわたしがスラ子って名乗るのが嫌なんですか?」


 怪鳥から生えた不定形は、一瞬、沈黙するようにしてから、


「……嫌に決まっているでしょう」


 答えた。


「わたしが、スラ子なんです。わたしがスラ子なんだから、あなたはスラ子じゃない」

「どうしてですか?」


 不思議そうに訊ねられて、怪鳥から生えた不定形は言葉に詰まったように沈黙する。


「そんなの――」

「『スラ子』を名乗る相手が何人いたって、『わたし』はわたしだけでしょう? それとも、同じ名前の、同じ姿の相手がいるっていうだけで、あなたは自我を保てなくなってしまうんですか?」


 揶揄するような口調に、怪鳥から生えた不定形は忌々しそうな眼差しで不定形を睨みつけて、


「……やっぱり、不快です」

「そうですか」


 でも、と不定形が続ける。


「実はわたしも、あなたに腹が立っているんです」


 それを聞いた怪鳥から生えた不定形が、はっと笑った。


「それはそうでしょう。自分とおなじ相手がいるだなんて、普通は」

「いいえ、違います」


 不定形がさらりと否定する。


「さっきから言っているみたいに、あなたのことなんて、本当にどうでもいいんです。ただ――」


 そこで言葉を切る。


 不定形の気配が変わった。

 口元の微笑はそのまま、全身を纏う雰囲気にぞっとするほどの気配が漂う。


「あなたはさっき、マスターのことを『マギさん』って呼びましたよね」


 怪鳥から生えた不定形が眉をひそめた。

 唇を大きく捻じ曲げて、


「だから、なんですか? 自分の主人を呼び捨てにされたのが嫌だったとでも? そんなことはわたしの知ったことじゃありませんよ。あの人は、わたしの主人じゃないんですから」

「違いますよ」


 不定形が笑う。

 口調も声の高さも変わらないまま、凍るような不吉さを秘めた声で、


「あなたのことなんてどうでもいいって言ったじゃないですか。わたしが怒ってるのはですね、あなたが、わたしとおなじ声で『マギさん』って言ってしまったおかげで、マスターの新鮮味が失われてしまったっていうことです」


 眉をひそめる相手を見据える薄青い眼差しは、少しも笑っていない。


「まだ一度も『マギさん』って呼んだことなかったのに。いつ、どんな風に、どういうタイミングでマスターの耳元で囁こうか、ずーっと考えてたのに。どういうシチュエーションなら、マスターが一番悦んでくれるかなあって練りに練ってたんですよ? ……あなたのおかげで、そんなマスターの愉しみが一つ減ってしまったじゃないですか。いったい、どうしてくれるんですか?」

「なにを、」

「ああ、いいんですよ。マスターって、なにかをやり直したりするの、嫌がるんです。失敗をなかったことにするとか、記憶を失くすだとか、そういうの絶対に受け入れない人ですから。ふふー。だから、大好きなんですけど。あなたが口にしてしまったことは仕方ありませんし、あなただって悪気があったわけじゃないのもわかります」


 でも、と不定形は続けた。


「あなたがマスターの大切な愉しみを奪ったのは事実ですよね。わたし、そのことですっごく怒ってるんです。――本当、何様ですか、あなた?」

「あなたこそ、」


 わなわなと震えた不定形が、自分の身体を生やした怪鳥ごと飛び上がった。

 憎しみに満ちた眼差しで吠える。


「……あなたこそ、何様ですか! オリジナル!」

「わたしはスラ子ですよ」


 不定形が笑う。

 邪悪なほどに無垢な笑顔で。


「――それで、あなたはどちら様でしたっけ?」

「死ね……!」


 二体の不定形が激突した。



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