第八話 血痕
麻布署に一本の電話が入ったのは、その日の十二時を過ぎた頃であった。かけてきたのはあるアパートの管理人である。
「二〇三号室の住人が、最近来ていない、彼女は無断欠勤するような子じゃない」というアルバイト先からの連絡を受けて、管理人は部屋へと向かった。
メーターは動かず、たまっている新聞から見てここを出たのは約一週間前らしい。管理人が警察へ電話しようかと迷っていると、彼女の大学の友達から、彼女の行方を尋ねる電話が来たという。
「嫌な予感がするので調べてほしい」
と管理人は震える声で頼んだ。
「犯人は広島にいる」という情報が入っていたので、麻布署は誘拐事件の捜査員から二人を引き抜き、マンションへと向かわせた。
車で五分か十分といったところにそのマンションはあった。
「こちらです、刑事さん」
管理人に案内されてその部屋の前に立つ。メーターと新聞、どちらも電話で聞いたとおりだ。
「では鍵を開けてください」
五十くらいの髪が薄い管理人は、震える手を抑ながら鍵を開けた。
「よし、行くぞ」
と、刑事が入ろうとしたが、
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
管理人はいきなり頭を抱えて下へと走り去ってしまった。
「ドアを開けたら『ドカンッ!!』とでも思っているのでしょうか……」
二十代の色黒の刑事が呆れた顔でドアノブをひねる。爆発など起こるはずもなく、刑事たちは無事に部屋へと入ることが出来た。管理人はしばらくしてコソコソと後に続いた。
「高橋さん、これを見てください」
色黒刑事が何かを見つけたようだ。高橋と呼ばれた中年太りした刑事が汗を拭き拭き色黒刑事の隣に座る。
「血……だな」
部屋のカーペットの一部が、血で赤く染まっていたのである。すでに乾いているところを見るとかなり時間が経過している。住人がいなくなったときにできたものらしい。
「ひ……ひぇっ」
何だろうと興味ありげに見た管理人だが、腰を抜かした。高橋刑事はそれにかまわずベランダへと歩く。
「窓が、壊されているな……」
ちょうど鍵の辺りで、窓が円形に切り取られていた。
「高橋さん、これは強盗ですね」
「なにか分かったのか」
「寝室へ来て下さい」
床の血をまたぎ、高橋刑事は隣の寝室へと入った。
「こりゃ、ひどいな……」
寝室のタンス、クローゼットの類が全て荒らされていたのである。そのうえ中身は全部持っていかれたようだ。さらに調べが進むうち現金も貴重品も、彼女の身元を知るものも全て無いことが分かった。
「しかし貴重品はともかく、服や下着まで盗んでどうするつもりなのでしょう」
空になったタンスの引き出しを見て、汗を拭きながら高橋刑事は何か思い出した。
「この部屋の住人は確か若い女性だったな」
「はい……」
「犯人は下着まで愛していたのだろう」
「ストーカーですか……」
寝室を出た色黒刑事は、床の血を見てため息をついた。失踪からすでに一週間、決して少なくない血の量を見るともう彼女はこの世にいることはないであろう。
(嫌な時代だ……)
自分と同じ年頃かそれより若い女性が被害者の事件の捜査は気が滅入る。
「家族に連絡しないといかんな」
高橋刑事が寝室を出てきた。そしてまだ腰を抜かしている管理人の前に座った。
「この部屋の住人の名前を確認したいのですが」
管理人は一度唾を大きく飲み込んで答えた。
「かっ……加藤里美さんに間違いありません」
表札には確かにマジックで『加藤里美』と書かれてある。




