第三話 二つの電話
腕と顔が正確に動き続けている。水をかく腕と息を求める顔、それは百メートルを過ぎても疲れる様子は無い。
民主自由党(略称:民自党)の党首にしてこの国の総理大臣でもある上杉景正六十五歳は元気そのものである。公務の合間をぬって泳ぐことは、政治家としての体力づくりのための習慣であった。
前の総理との激しい派閥争いの末に党首の座に就き、内閣が誕生して二年三ヵ月にもなるが、前総理支持派は隙があれば景正の足を引っ張ろうとしている。国会では野党の議席が増え、公民党と連立を組むことでなんとか安定過半数を確保している状態。内閣発足当初は、「いつ倒れてもおかしくない」とマスコミに報道されていたが、彼の人柄と決断力の良さで「長期政権もありうる」と評価されるまでになった。
プールから上がった景正の肉体は六十五歳のそれとは思えぬ頑丈なつくりとなっている。目も耳もまだ衰えを知らない。毛髪の濃さも量も豊富だ。やはりプールで運動しているせいなのだろうか。
「総理ー!」
初めての選挙のときから一緒である秘書の千坂平蔵が、同じく秘書の色部陽一を連れて慌ただしくプールサイドを走る姿が見える。
「千坂君、走ってはいけないと言っいてるではないか」
「そ、総理……お電話……」
息も絶え絶えに頭を下げる千坂。年は六十四で景正より若いのだが、日頃の運動はしていないのでかなり疲れたらしい。
「総理に陳情したいとの電話です」
三十代と若い色部が変わりに答える。
「……?」
景正は首をかしげながら電話を受け取った。彼の携帯電話の番号を知っているものは”陳情”という他人行儀なことはしないのだが……。
「私が総理の上杉景正だ」
電話の相手は藤田隼人である。
「あんたが総理さんかい。ちょっとお願いがあるんだ」
隼人の失礼な態度に景正はムッときたが、冷静に応じる。
「話を聞きましょう」
「少年法があるだろう。あれを三月三十一日までに改正してほしいんだ」
「君ね、法律というのはいきなり変えてくださいと言われても『ハイ、そうですか』とできるものではないのだよ。それに君も知っているだろう、少年法の問題は各方面からいろいろな意見が出てきて、調整するだけでもかなりの時間がかかるのだよ」
景正は隼人になんとか諦めてもらおうと話したが、隼人はそれを許さずこう切り出した。
「だめならお孫さんを殺す」
「何っ!?」
ここに来て景正の声が初めて荒くなった。秘書だけではなく周囲の水泳客がいっせいに彼に視線を向ける。
「浩子ちゃんだっけ、こっちですでに身柄は預かっている。なあにあと二ヶ月もあるんだ。それに他の政党の顔色を窺う必要も無い」
「おい、貴様! 浩子に何をするつもりだ!」
景正の声はますます荒くなり、顔には怒りの表情が出る。周囲の人も事態の異様さに気づいたようだ。
隼人はかまわずに話を続ける。
「よく聞けよ、この事はすぐにマスコミに話せ。全てだぞ。今日は日曜日だから……。夜十一時のニュース、あれに間に合わせてくれ」
「十一時だな、それで浩子は無事なのか?」
「総理!」
隣で千坂が興奮している。今にも電話の相手を殴りかからん勢いである。
「最後に少年法の改正案について俺たちの希望をいくつか言っておく、ちゃんと入れろよ」
「な……!」
隼人はその”希望”を言うと電話を切った。そして浩子を見て笑う。
「ずいぶん孫思いなんだな」
隼人と里美は分担して他の政党――公民党・民進党・社労党・共民党――に同様の電話を入れた。彼らは与野党を問わず、主要五政党の党首の家族を人質に取ったのだ。それが終わったあと、隼人は最後の一人――唯一の政党関係者ではない田原明美――の家族へと電話を入れた。
この日の田原法律事務所は平穏だった。依頼人も依頼の電話も無い。ただ五時ごろ、
「明美が帰ってこないの」
と、妻の由起子から電話があったが、
「友達と遊んでいるんだろう」
そう答えて切ったぐらいである。
田原貴男は書類の整理を終え、いつも通りに帰途につこうとしていた。
「先生、急な依頼の電話です」
と事務員に呼び止められた。
(運のいい人だ)
貴男は快く電話を受け取った。
「もしもし、お電話変わりました」
「人権さん、こんばんわ」
「!?」
貴男は驚いて受話器を見つめる。
「日頃人権を訴えている弁護士の先生ですね。あなたの娘さんの身柄をこっちで預からせてもらいました。場合によっては命を奪うことになりますが、ご了承ください」
先ほどの電話とは正反対の隼人の口調である。
「どうすれば……娘は……明美は助かるんだ! 金か?」
「何もしなくていいですよ」
「いい?」
自分の耳を一瞬貴男は疑った。
「この後のニュースでも見ながら自分の過去の行いを反省してください。今夜のは特にね。三月三十一日までに帰ってこないのなら娘さんは死んだものと思ってください。そうそう、警察にはこう連絡してください。『総理大臣の孫と一緒にさらわれた』と、そうではないとただの誘拐事件になってしまいますので……」
電話はそこで切れた。
「おっ、おい、待て……!」
返答は無い。受話器を置く貴男の顔は蒼白となっていた。
(自分の過去? 一体何が……)
震える手を抑えながら、とうにか彼は妻へと電話をかけた。
隼人は人質の六人を集めた。
「聞いてのとおり俺たちの目的は少年法の改正である。期限の三月三十一日までお前たちを拘束する。衣食住の保証はするから心配するな。風呂も入れる。ただし一つしかないから男女時間をずらすこと」
前半部分を除けば、遠足の学校の先生の諸注意みたいである。
「ただし、脱走しようとするのは甘いぞ、俺たちは二十四時間お前たちを見張っている。……まあこの季節だ、上手く出られても凍死するのがオチだ」
隼人は窓の外を見た。黒い闇に白い雪が舞っている。
「凍死しても死体の面倒は見られんぞ!」




