第二十九話 帰りを待つ者たち
人質が解放されるという報せは一夜明けてもニュース番組をにぎわせていた。犯人の身元は未成年の隆を除いた全員が全国に公表された。
(私は間違っていたと言うのか……)
朝食を取りながら犯人の名前をテレビで知った弁護士田原貴男は、持っていた牛乳を落とした。彼は犯人の全員が自分が担当した事件の被害者である事を覚えていた。そして、昨夜警察からの連絡でははっきりしなかったこと−。娘の明美がさらわれた理由もはっきりと分かった。この事件は自分が招いた事であり、その復讐のために娘だけではなく国民全員を巻き込んでしまったのだと彼は自責の念に襲われた。
「どうしたの?あなた」
「由起子か……」
貴男は妻に聞いた事、自分が考えた事を全て話した。
「私のせいで明美が……明美がこんなことに……」
――自分の過去を反省して下さい――
あの日の隼人の言葉が蘇る。その苦悩も妻に話した。
「それであなたはこれからどうするの?」
貴男の話を聞いた由起子は夫に問いかけた。
「これからって……」
「田原貴男は弁護士として働きました。弁護士としての職務を全うしました。しかし人の反感を買い、娘が誘拐されてしまいました」
貴男は由起子が何故そんなことを言うのか分からず、ぽかんと口を開いた。
「……だからといって、あなたは今まで自分を捨てるの? そりゃ生きていれば悪い事をしなくなって嫌われることや反発を買う事はあるわよ。そのたびに……。あなたは自分を捨てて生きていくというの?」
「由起子……」
「あなたはただ裁判に勝つためだけに被害者の家族を苦しめるために弁護士をしているわけではないでしょ。少年少女たちのことを将来のことを本当に考えて弁護士をしている。ズルイ事などせず、真面目に彼らと向き合っている」
貴男は無言で頷いた。
「ならいいじゃない。あなたはやましい事を一つもしていないんだもの。反感を買ってもひるむ事などないじゃない。明美もそれをちゃんと理解しているでしょ」
貴男は年上の妻に泣きながら抱きついた。一人の弁護士は子どものような声を上げて泣き出した。
「ただ…、これからは他人の意見をよく聞きましょうね…。」
妻の由起子がそっと優しい言葉をかけた。
社労党の党首安藤陽子は料亭で一人の男と会食していた。今日娘が無事解放され、彼女は党首を辞任する。
「安藤君……。いよいよだな……」
「永井先生……。本当によいのですか? 反対した四十四人、この人数で党を興せば…、…社労党はもちろん、公民党も抜いて第三党になれるというのに…。」
陽子の言葉に永井は手を横に振った。
「たった一つの政策の意見が同じなだけだ。所詮それ以外の主張や政策が異なった人間。集まったところで烏合の衆に過ぎぬ」
さわやかに答える永井。更に続けて。
「離党した議員はそれぞれの党に戻るそうだが……、社労党は今回の騒ぎで人数が減ってしまった。しかし私は少数精鋭が性に合うようだ。何も考えぬ議員だけが無意味に多くいるより、この国を党の理念を本当に考える少数の人間の方が言葉としての力がある」
「永井先生……、社労党をよろしくお願いします」
永井が席を立とうとしたとき、陽子は彼に頭を下げた。
「安藤君……。君はこれからどうする」
永井の問いに彼女は頭を上げた。
「はい、教師に戻ろうかと思います。一人の教師として、母親としてこの国を見守るつもりです」
さわやかな彼女の笑顔に一筋の涙が流れていた。
永井との会食後荷物の整理を済ませ、社労党本部を出た陽子は車の中から声をかけられた。
「朝倉先生……」
窓から手を振っていたのは公民党党首朝倉治夫だった。
「聞きましたよ、安藤先生。次は永井先生だそうですね。安藤先生の時代は穏やかで済んだが、永井先生は激しい議論がお好みの人です。これは与党としては大変な事ですな」
と言いながらも「あっ、そうか」と彼は頭を掻いて。
「その時私は党首も議員も辞めて女房とどこか旅に出ているのでした。」
「朝倉先生もそうですか……」
治夫はええ、と頷いた。しかし彼からは党首を辞めたという無念さが感じられなかった。
「次の党首は河合幹事長がなります。離党した真柄君には国対委員長になってもらおうかと密かに打診しております」
「彼なら何とか永井先生に太刀打ちできそうですね」
二人はこれからの自分のことについてなどを話しながら議事堂まで歩く事にした。暖かな日の光の中を車で移動するのはもったいないと思ったのだ。
「そういえば、民進党は大西党首で続投するようですね」
「『事件の混乱を収め、再発を防ぐ方法を考える事が党首としての責任である。』と言っていますが、全員がいなくなるより、一人くらい事件の当事者が残っていても良いのではないでしょうか」
自分の進退にしっかりとした決断をしたせいか、普段は気になる他党の動向もただの会話として通り過ぎる。
「おや、お二方も歩いて議事堂ですか」
相変わらず髪と服装がしっかりとした共民党党首の熊沢健が交差点で信号待ちをしていた。目の前は国会議事堂だ。
「私も議員を辞めるのですよ。後は兄の焼鳥屋の手伝いをしようかと思います」
「熊沢先生が作る焼き鳥は身の一つ一つがどれも同じ大きさなのでしょうね」
与党の党首として激しく健の政策と対立していた治夫が穏やかな冗談を飛ばす。
「いやいや、きっちりしているのは政治家のときだけ結構ですよ。まあ焼き鳥なんて適当に鶏肉を刺して焼いてりゃいい、って言っては兄に叱られますが」
健も笑いながら答える。
信号が青に変わり三人は一斉に歩き出した。健が何か思いついたようで二人に大声を上げた。
「そうだ、今回の事件が解決したら私の兄の店に来ませんか? お代はいりません。私のおごりです。なぁにもうその時は党首でも議員でもないんだ。領収書だの収賄だなどだれもうるさく言わないでしょう」
二人は快く賛成した。
景正は病室で直江の訪問を受けていた。
「直江……、見ていたぞ……。苦労をかけたな」
景正の表情には安堵の色が出ていた。
「怪我の功名というか、党内が分裂してくれたおかげで法律の成立を阻止できた。党がまとまっていたら……、改正少年法は今頃参議院を通過していただろう……」
景正は少し自嘲的な笑みを浮かべた。
「これも私の政治力の無さだな……。しかし浩子が無事でよかった」
党内が改正案について分裂したと聞いた時、景正は悲愴なる覚悟を決めた。参議院とはいえこのまま党がもめ続けたのなら浩子の命は無い。浩子が死ぬときは自分も死ぬときだと――総理の責務を放棄したあげく、大切な家族を守れなかった”最低の総理”としての死――。を迎えるときだと。
事実彼は「党内分裂」のニュースを見た後、自殺を考えようかと病院内を彷徨っていたところを看護士に発見され、事なきを得たのである。
「まだお孫さんが死ぬと決まったわけじゃありません! あなたが死んだら彼女がどんな悲しい思いをするか!!」
そう説得され、景正はなんとか病室へ戻ったのだ。
景正から話を聞くうちに直江は体を震わせ、ついに耐え切れずに両手を激しく床に打ちつけた。そして膝を屈し、深々と頭を下げた。
「直江……?」
驚く景正に直江は叫んだ。
「すまん、景正。あれは嘘だ。党内分裂、各党の参議院議員の反発など全く無い。あれは全部私が犯人逮捕の時間稼ぎのために仕組んだ事なんだ」
神取のやり取りを含めて、事の一部始終を話している間、直江は一度も顔を上げなかった。
直江の話を聞いている間中、そしてその後も景正は直江の方を見なかった。直江もそのままの姿勢であった。そのまま数分が経過して、景正が口を開いた。
「過ぎた事だ……直江。お前のおかげで少年法は改正されず、浩子は助かるのだ……。やはり、私の考えは間違っていなかったようだな……」
「景正……?」
直江がやっと顔を上げた。景正の考えとはなんであろうか。
「そろそろ来る頃だ」
景正が枕もとの時計を見る。数分後に扉の叩く音がした。
「どうぞ」
景正が声をかける。直江は慌てて立ち上がった。入ってきたのは安田誠幹事長と、畠山義輝前総理だった。
「私が呼んだのだ。私の後任の総理を決めようと思ってな」
「後任の総理? そんな話は聞いてないぞ」
直江が間抜けな声をあげる。
「今から君に話そうと思ったところだ。畠山先生」
うむ、と畠山が頷き、大きな咳払いを一つしてから。
「次の総理大臣は直江信太郎君、君に決定した。すでに党内の各派閥の長からの了承を得ている」
直江が呆然とする。畠山の隣で何も知らされていなかった安田も目を見張った。
「君は上杉内閣の女房役として立派に職務を果たした。今回の事件も総理代行としての君の活躍のおかげで解決に向かおうとしている。上杉君には残念ながら事件の責任を取って辞任する事になるが、君なら上杉君の政策を引き継いで実行に移してくれるだろう」
「おい、景正……!?」
直江は驚きながら長年の盟友に詰め寄った。
「ずいぶん前から考えていた事だ。やはり総理の座は私より君のほうがふさわしい」
「そんなことを……」
まだためらう直江の手を景正はしっかりと握った。
「君しかいないのだよ。この国を事件の混乱から立ち直らせるのは」
納得のいかない顔で二人を見ている安田に畠山が声をかけた。
「君には国土交通大臣になってもらおうと思う」
安田が驚きの表情を畠山に見せる。畠山は笑いながら。
「君の政治の理想は素晴らしいものだが……、どうも法律以外は疎いと聞いている。もっと他の分野の事を学んでみたらどうかね。……あと、君の理想は少し国民に厳しすぎるなぁ……。やたらにその理想を広めたがるのも他党だけではなく内部からの反発を買う」
畠山は安田の肩を叩きながら。
「君はハムラビ法典と言ったが今はその時代からすでに何千年も経過している。ハムラビ法典より進化した国の治め方、政治のやり方を学んでみないかね。」
最後は小声で励ますように呟いた。
「そうすれば総理の座も廻ってこよう。上杉君もそれを望んでいる」
安田は自らの政治家としての力量と能力がこの三人とははるかに及ばない事を知らされた。
「直江……、浩子を迎えに行くぞ」
直江が大きくうん、うん、と頷いた。
病室に暖かな光が差している。暦の上ではもう春だ。
その頃、隼人たちの車は高速道路を東へ進んでいた。その中で隼人と里美はかつて彩子の十八番だったあの歌を一語も間違えることなく歌っていた。




