第十八話 誠意のいたずら
朝から岡部政也の姿が見えない事に浩子は気が付いた。彼はもともと食事のとき以外、浩子たちの前に姿を現すことはあまり無かった。食事が終わるといつも自室にこもってしまう。たまに外で見るときは見張りをしているときだった。
しかし、食事の時間にもいないのは何かあると思い、浩子は祖父の幸成に聞いてみた。
「風邪をひいちまったんだよ。昨日夜遅くまで雪かきをしていたせいで」
浩子は昨夜彼がスコップを持って外へ出るところを目撃している。
「お大事にって伝えてください」
浩子は幸成の言葉を信じ、ロビーへと向かった。昨日とは違い、里美はいつもの寝起きの里美に戻っていた。
「少年法の改正を反対する、全国教師連合が改正反対の署名、約五万人分を持って昨日法務省に提出しました。代表の一人は政府は断固たる姿勢を取れ、と報道陣や街頭を歩く人に訴えました」
「のん気な人だ。この代表は自分の発言に責任を持っているのかな」
事件に関連するニュースに突っ込みを入れる隼人。この突っ込みが何を意味するのか、浩子は後で知る事になる。
正午を過ぎた頃、隼人の携帯に電話がかかった。
「おう、政也か。どうだ上手くいったか」
朝、幸成が言ったのは嘘だったのか、偶然ロビーを通りかかった浩子は、そっと隼人の声が聞こえるようにとソファーに隠れた。
「そうか、じゃああともう一つだな。そっちのほうが難しいが、昨日教えたとおりにやれば捕まらずにすむ」
政也との電話を終えてすぐに、隼人は携帯のボタンを押し始めた。
「おまえ、今どこにいるんだ?」
後藤という男か、と浩子は思った。
「そうか、高知か。じゃあいつもの通り総理官邸に電話を頼む。あ、あともう一つ頼まれてくれないか」
そう言うと隼人は口元を押さえ、急に小声になった。浩子には彼が何を命令しているのか分からなかった。
「そう言うことだ」
再び隼人の声が大きくなった。そして、政府と新たな交渉が始まろうとしていた。
「どうもお久しぶりです」
隼人の電話を受け取ったのは神取喜明である。事件発生以来総理官邸では常に犯人からの電話を取れるようにと、二十四時間体制で捜査一課の刑事が電話の側を離れなかった。
「法律案はまだですか」
「それは各党内でまだ審議中です。いずれ分かるでしょうが……。それよりお嬢様は無事なのですか」
総理の秘書としての演技をする神取。
「ああ、そうです。今日はその事でお話があります。我々の要求が通った場合の人質解放の件です」
「……今さら別の要求をしようと言うのですか?」
怒鳴りたいところだが犯人を刺激してはまずいと、神取は声を抑える。
「いえいえ、そうではありません。ただ、各党どれだけの誠意を見せたか、つまりこの改正にどれだけ積極的に動いてくれたかで、解放の有無を決めようかと思っています」
神取をなだめるように話す隼人。
「?」
「この少年法改正に積極的だった党には人質を無事に帰しましょう。消極的だった党には人質の腕を送ろうかと思います。努力もしない奴に褒美を与えるほどの平等思想を我々は持っていません。従って、どうせ賛成多数で可決するのだから、我が党だけ反対してアピールしようというおろかな目立ちたがり屋の戦略は通用しません」
「この件はすぐにマスコミに伝えてください。ああ、そう弁護士の娘さんの件ですが、弁護士団体の動き次第で解放を決めようと思います。間違っても五万人の署名なんてしないようにと刑事さん。伝えてくださいよ」
自分が刑事だと知っている、逆探知される事も承知で長々と要求する相手に神取はゾッとした。
「連絡はこれで最後と予定しています。どの党も我々の期待に沿えるよう楽しみにしていますよ」
暫く間をおいた後、隼人は再び口を開いた。
「そうだ、大事な事を一つ。我々もどれだけ本気でいるかその誠意を見せてあげましょう。千代田区のどこか一ヶ所にいたずらを仕掛けました。被害が最小限に抑えられよう、頑張ってくださいよ。刑事さん。それと、各党の党首に励ましのメッセージを送りましょう。党内の抵抗勢力を我々は断じて許しません。その償いは党首だけではなく本人にも取ってもらうと」
電話はそれを最後に途切れた。すぐさま逆探知の作業に入る。場所は高知駅前の公衆電話からとの連絡が入り、県警がすぐに現場へと向かうが、無駄足であるのは言うまでも無い。
「千代田区内に何かを仕掛けただと」
官邸内に動揺が走る。
「国会議事堂ですか?」
「そんな馬鹿な、あそこがやられちゃ法律改正どころじゃなくなる」
同様に政府関係の建物の可能性も低いだろう。結局神取ら捜査一課は制限時間内に正解を得る事が出来なかった。十分後警視庁から連絡が入る。
「なに、日比谷公園が……!!」
日比谷公園の大噴水の周りは今日も賑やかだった。楽しそうに遊びまわる子供たち。それを見守る母親、憧れのミュージシャンに一目会おうと足を急がせる若い男女。その光景をキャンパスに描く画家。
細江理沙も描かれる光景の一員であった。週に数回ここに来ては山の手の奥さん同士のつきあいとか、夫の上司・同僚相手の煩わしい人間関係から解放されるのである。
「ママ、あれなあに」
一人娘の奈々子の指差した先には無人のベンチがあった。その下に箱らしき物体が置かれている。
理沙は辺りを見回したが、どのベンチにもその物体は他に無い。
(気味が悪いわね)
不審に思った彼女はその場を立ち去ろうとしたが、娘の奈々子はその物体に向かって歩き出していた。
「奈々! そっちへ行ってはいけません」
「大きな箱だよママ」
母親の制止より好奇心が勝ったのか奈々子はその物体に近づく。理沙は捕まえようとするが、公会堂へと歩く男女の一団が彼女の前を横切る。奈々子のその物体の間はあと数メートルしかない。
「奈……!」
ジリリリリリリリッ!!!
突然その物体が大きな声を上げた。奈々子はそれに驚き、尻餅をついてその場で泣き出した。
これは奈々子にとって幸いであった。なぜなら声を上げてから数秒後、その物体が大きく火を噴いたのである。
もしあのまま近づいていたら……。やっとのことで娘を抱きしめた理沙は、周囲の逃げ惑う人々にも構わず、ベンチの燃えゆく様を呆然と見つめていた。
画家が水入れの水をかけたが、どうにもならなかった。




