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改正  作者: 工場長
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第十六話 科学の実験

「君の名前を聞いてもいいかな」

 まだ暖房の効き目が残っている車内で神取は少年に尋ねた。

佐伯洋平さえき ようへいです」

 少年は少し間を置いて答えた。眼鏡の奥の瞳が少し落ち着かない。

「岡部さんに何を謝りたいんだい?」

「……」

 佐伯少年の顔が曇った。右足をカタカタと揺らし、目はじっとその動きを追っている。神取はその様子をじっと見つめていた。

 車外では寝不足気味の角田が大きなあくびをしている。通りすがりの女子生徒にその大きな口を笑われると慌てて口を押さえた。近くの小学校から子供たちの叫び声と笛の音が聞こえる。

「サッカーかぁ……」

 角田は車に寄りかかった。久しぶりに周りの音を聞いたと思った。

 車内の二人にも小学生の声は聞こえていた。ふと神取は近頃娘と会話していない事を思い出した。たまに帰宅できても彼女の寝顔しか見る事ができない。

(事件が解決したら二日くらい休みをもらって遊園地にでも連れて行くかな)

 もっとも中学生の娘が父親と一緒に歩く事を受け入れるかどうかだが。

 佐伯少年の脚の動きがいつの間にか止まっていた。視線が声のするところを追っている。彼にもこの声に何か感じるものを持ったようだ。

 

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると小学生の声は収まり、周囲はまた静かな住宅街へと戻った。佐伯少年がやっと口を開いた。

「僕は三年前にこの家に住んでいた警備員さんを殺したのです。刑事さんも知っているでしょ、三茶デパートの殺人事件、あの犯人は僕です」

「……」

「僕の得意な教科は化学です。特にいろいろな物質や元素が好きです。刑事さんも昔習ったでしょう。電気分解とか、いろいろな物質が融合して一つの物質になったり、逆に一つの物質から様々な物質に分解されたり……」

「中学生の教科書じゃ物足りなかったので図書館やインターネットでいろいろ調べたのです。僕には友達がいませんでしたから、調べる時間はいっぱいあった。そしてこの世の中にはまだ発見されていない物質や現象がいっぱいあるということに気がついたのです」

 化学の話をする佐伯少年の顔は活き活きとしていた。三年前神取は佐伯少年が犯した事件の捜査に当たっていたが外回りばかりをしていたため、最後まで彼に会うことは出来なかった。少年担当だった刑事に聞いたところでは、彼は険しい顔で「僕の実験の邪魔をしたからだ」と呟くだけだったと聞いている。

「刑事さんも他の皆さんもあれは爆弾だと思っているようですが、あれは実験装置なんです。水素と塩化マグネシウムを急激に暖める装置。自分でつくったんですよ」

 佐伯少年が実験装置に火をつけようとしたところ、たまたま岡部警備員がトイレに入ってきた。佐伯少年は実験を始めるための障害になると思い、実験装置製作のために買ったナイフで彼の腹部を刺した。

「僕は自分の実験の邪魔をされたくなかっただけなのです。実験場所をデパートに選んだのは実験の成功を少しでも多くの人にすぐに伝える事が出来ると思ったからです」

 神取にとって全てが初耳であった。彼の家族や知り合いに話を聞いたところ皆彼に無関心で何も得るところが無かった。そうこうしている間に人権団体や弁護士団体、一部マスコミからの圧力に嫌気がさした上司がまるで佐伯少年を放り込むかのように検察へ送ってしまったのだ。

「しかし僕はとんでもない事をしてしまったと気が付いたのは事件から一年ぐらい経った後でしょうか、弁護士の田原さんといろいろ話をしているうちに気づかされたのです」

 少年の顔が再び曇り、黙り込んだ。神取はただじっと見守るだけだった。

 車外の角田は体を温めるために缶コーヒーを飲んでいた。彼の目の前を薄い袈裟衣一枚を身にまとった二人の僧侶が通過した。この近くにお寺があるらしい。薄い袈裟衣は何かの修行なのだろうか。角田はそれを見て再び寒気を覚え、慌ててコーヒーを飲み干した。


「僕は実験の邪魔をされたくなかったからあの警備員さんを殺してしまった。しかし、それは同時にあの警備員さんやその家族の幸せの邪魔をしてしまったのだと気づいたのです」

「その後当時の新聞を見て自分が刺した人が誰であったか知りました。その人の奥さんのことも……。僕は自分の都合のために岡部さんにひどいことをしてしまったのです」

 佐伯少年が激しく窓を何度も叩いた。その後精神病院での話や、退院後の話などを語った。

「岡部さんに謝ろうと思ったのはなぜかね?」

「殴られたかったからです」

「?」

「僕がどれだけひどいことしたか、僕が誰を刺したか、僕には分かります。しかし岡部さんには誰が息子さんを刺したかは分からない。退院後家のテレビで多くの少年犯罪を見ました。多くの家族が『犯人に会って首を絞めてやりたい』とか、『犯人になぜ自分の家族を殺したのか聞きたい』と言っていました。だから僕はそれを伝えたかったのです。断られるかもしれないし、殴られるかもしれない。でも、そうしなければ気がすまないのです。犯人の名前が被害者に公表されないのなら、自分から名乗りに行こうと」

「岡部さんの住所は自分で調べたのかい?」

「はい、分かるまでに半年かかりました。そして田原さんに謝りに行くことの了承を得ました。田原さんは私を信じて私を一人で向かわせたのです」

 あの時、少年の取調べに当たった刑事が見たら彼の様子を見たら驚くだろう、と思った。同時に彼をここまで変えたであろう田原弁護士に感心した。

「刑事さんは岡部さんの家を調べていたんでしょう、岡部さんに何かあったんですか?」

 自分の話を終え、一息ついた佐伯少年が神取に尋ねた。

「なに、近くでちょっとした変質者が出たんだ。そこで住民に注意を呼びかけていたのだよ。でも岡部さんは留守でしばらく海外旅行に出かけているそうだ」

 顔色一つ変えることなく彼は答えた。

「そうだったんですか……」

 佐伯少年は落胆した。せっかく決意してここまで来たのに相手が不在なのだ。その落ち込む彼に神取は声をかけた。

「しかし君は会えなくても岡部さんの家の前まで来たんだよ。自分の行いを冷静に見つめ、反省できたからここまで来たんだ。三年前とは違う君がいる、変われた君がいる。その自分を信じなさい。自分が変われるきっかけ、自分を信じるきっかけになったと思えばこれも無駄ではない」

「でも、僕は、僕は……」

 佐伯少年が眼鏡を取り、泣き崩れた。神取は彼の気が済むまで思いっきり泣かせようと思った。

 小学校からはお昼の校内放送が流れている。角田の右手には三人分の昼食が入ったコンビニのビニール袋が握られていた。

「君はこれからどうするのだね?」

 佐伯少年がやっと落ち着いたので、神取は彼に尋ねた。彼は素直に答えた。もう視線がさまよう事は無かった。

「分かりません、化学の本はこれからも読もうと思います。でも化学者になる事はないと思います。僕は僕の化学のために岡部さんの幸せの邪魔をしてしまった。だから僕も化学者としての幸せを封印するのです。それが岡部さんに対するせめてもの償いです。将来のことは化学の本を読むついでに他の分野の本を読んで決めようと思います」

 

「お昼までごちそうして頂いてありがとうございました」

 車外に出た佐伯少年が二人に頭を下げた。

「コンビニの弁当でよかったらいつでもおごりますよ」

「いつでも経費で落とせんがな」

 調子に乗っていた角田に神取が小声で水を差した。

「本当に神取さん、ありがとうございました。これからは少しずつ自分を信じて生きていこうと思います」

 佐伯少年はそう言うと、走り去った。途中で老人にぶつかりそうになりぺこぺこと頭を下げた。

 神取は彼が角を曲がって見えなくなった後も、彼が去った道を見つめていた。小学校からチャイムが流れ、子供たちの元気な声が再び聞こえだした。

「課長、そろそろ戻りましょう」

 角田に促され、神取は車に乗った。

「署に戻ったら今までの捜査の状況を全員で確認しよう」

 二人の耳は再び、周囲の音を通り抜けるだけのものとなった。

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