(2)バレンタインデー当日
出社するまではウキウキとドキドキが同居する自分の胸のうちだったが、所属する部署に入った途端、それがイライラとムカムカが同居する事態に。
どちらも怒りの表現だと?
そうだよ、そのくらい俺は腹が立っているんだよ!
その原因は青川だ。
彼女の様子がいつもと違っている。服装や髪形、メイクにそこはかとなく気合いが篭っているのが見て分かる。
そして、通勤バッグとは別に手にしている小さな紙袋。あれは絶対にチョコレートだ。しかも、大抵のOLが知っているという有名店のチョコレート。
身なりといい、チョコレートといい、青川の本気が表れている。
―――誰にチョコを渡すんだ!?
自分の席に座ってコーヒーを飲むが、イライラはちっとも収まらない。
「……くそっ。アイツのチョコをもらった奴は、権限で残業させまくってやる。今日だけじゃなく、俺の腹立ちが収まるまでずっとだ。仕事終わりにデートさせるか!」
低い声で呟く俺の肩を、誰かがポンと叩く。
いつの間にか立っていたのは、俺の同期で隣の課にいる桃山だった。こいつはおっとりと穏やかに見えるが、その観察眼は鋭く、俺の青川に対する気持ちを即座に見抜いた奴だ。
そんな桃山が、表面上は優しげに、だけど目の奥を楽しそう揺らしながら笑みを浮かべている。
「心が狭いねぇ。部下の恋愛を応援してやれよ」
「下手に応援したら、俺の失恋が決定するじゃねぇか。そうなったらどうすんだよ?」
「その時はヤケ酒に付き合ってやるから、安心しろ」
「そんな気遣いはいらん!」
俺は同期をギロリと睨み付けた。
そんなイライラした中で午前中の仕事が終わり、社員たちはめいめいに昼休憩に入る。
青川はいつも弁当を持参しているので、仲のいい社員たち数人と集まって食事を始めた。
その様子を眺めている俺。腹が立ちすぎて、空腹を感じないのだ。
手持ち無沙汰に仕事を片付けながら、青川たちの話に耳を傾ける。別に、盗み聞きしているのではない。彼女たちの会話が勝手に耳に入ってくるのだ。
もちろん、そんなことは彼女たちも知っているので、当たり障りのない会話を続けている。
しかし、やがて俺にとって当たり障りのある話題が上った。
「ねぇ。それって、君想いマカロンじゃない?よく買えたね」
感心したような口調が気になり、俺は視線を上げて青川たちに顔を向けた。
彼女が手にしているマカロンは、確か大手のコンビニチェーンが売り出しているスウィーツで、アイドルが大々的に宣伝しているものだ。
青川は仲のいい社員に手にしている物を指さされ、そしてニコッと笑った。
「今日はバレンタインでしょ。だから、思い切って告白するつもりなんだ。それで、少しでも私の想いが伝わるようにって、おまじないの意味でね」
照れくさそうに笑いながら、青川はマカロンを一齧りする。そんな彼女を見て、俺は歯軋りをしたのだった。
最悪な気分でも時間はいつものように過ぎてゆく。
そして、就業時間となった。
俺は告白をしに行く青川を見たくなくて、就業時間寸前に席を立ち、人気のなくなった休憩室に向かった。
「こんなことなら、もっと早くに青川に告白するんだった……」
―――そうしておけば、今日、あのチョコを“恋人”という立場で貰えたかもしれないのに……。
鬱々とした気分で窓の外を眺め、何度となくため息をついていると、
「黒瀬チーフ」
と、控えめな声が聞こえた。
その声は聞き間違えようもない、愛しい青川のもの。どうやら自分は幻聴を聞くほど、思い悩んでいるようだ。
フルリと頭を振って幻聴を振り払おうとしているところに、今度は先ほどよりも少し大きな声で呼ばれた。
「黒瀬チーフ」
「まさかっ!?」
勢いよく振り向いた視線の先には、青川が立っていた。
幻聴に続いて幻覚まで見てしまうほど重傷なのかと愕然としていれば、青川が小走りで駆け寄ってくる。
「あの、今、お時間宜しいですか?」
いつもよりは気合の入ったメイクを施した顔が、俺のことを覗き込んでくる。
なぜ、ここに青川が現れたのかがまったく理解できない俺は、コクリと頷くのがやっとだった。
そんな俺に青川は静かに手を差し出してくる。有名チョコレート店の紙袋を持った手を。
「どうか、受け取ってください」
「…………え?」
たっぷり間を空けた後、一言呟く俺。やはり状況が飲み込めない。
「青川、これは……?」
まっすぐに俺に向けてくる彼女の瞳を見つめ返しながら、俺は引きつった喉を動かし、やっとのことで訊きかえす。
すると彼女は真っ赤な顔で、
「黒瀬チーフが好きです」
と、はっきりと告げる。
「私なんかが相手にしてもらえないって、そんなことは良く分かっています。でも、どうしても自分の気持ちを伝えたくて。受け取って頂けますか?」
「あ、ああ、うん。ありがとう……」
いまだに呆然としながら、差し出された紙袋を受け取る。
素直に受け取った俺に安堵の息を漏らす青川は、
「返事は分かっています。ですから、受け取ってもらえただけで十分です。では、失礼します」
と言って、クルリと俺に背を向けた。
一歩、二歩と離れてゆく小さな背中を見て、俺はようやく我に返った。
「こら、待て!」
後ろからガバリと青川を抱きしめる。小柄な彼女は、すっぽりと俺の腕の中に収まった。
「え?え?え?」
突然のことに、ひたすら『え?』を繰り返す青川の耳元に唇を寄せる。
「俺も、好きだよ。青川のこと、ずっと好きだった」
いつもの自分とは思えないほど甘い声で囁けば、青川は更に慌てだす。
「嘘です、そんなの!黒瀬チーフが、私を好きだなんて、絶対嘘です!」
「俺の気持ちを勝手に嘘にするな!」
いっそう強く彼女を抱きしめ、何度も囁く。
「青川が好きだよ。頑張り屋の青川が好きなんだ。素直で一生懸命な青川が大好きなんだ」
はじめのうちは『嘘だ!嘘だ!』と繰り返し騒いでいた彼女だが、何度も何度も想いを囁いてやると、だんだんと大人しくなった。
少しだけ力を緩めれば、腕の中の青川がゆっくりとこちらに向き直る。
「……本当ですか?」
どこか怯えたように訊いてくる彼女に、俺はフワリと微笑みかけた。
「本当だ」
短いけれど本気を篭めた一言に、青川の瞳からポロリとしずくが零れる。
初めて見る彼女の涙に、ドクンと胸が高鳴った。まるで心臓を鷲掴みにされた感覚だ。
「ご、ごめんなさい。黒瀬チーフは泣き顔を見せる人を好まないんですよね。今すぐ、泣き止みますから」
そう言って華奢な指先で涙を拭うが、次から次へと溢れる涙はまったく止まりそうにない。
しかし、俺としてはそんな彼女が愛しくてたまらない。
涙に濡れるまぶたに、涙が伝う頬に、優しくキスを贈った。
「仕事中、簡単に泣く奴が嫌いなだけだ。青川の泣き顔は好きだよ」
俺の言葉にぱちくりと瞬きを繰り返す。そのたびにポロリ、ポロリと雫が伝い落ちてゆく。
「好きなんだけど、出来れば笑ってほしい。泣き顔より、笑顔のほうが好きだからな」
青川は耳まで真っ赤に染め、俺の胸にコツリと額を押し付けてくる。
「そんなことを言われたら、恥ずかしくて笑顔になんてなれません……」
体を小さくして照れている彼女が心の底から愛しくて、俺は思いっきり抱きしめたのだった。